『CROSS・HEART』Story.5 月下の賭け 5-9
――ハールは夜空の下にいた。頭上を仰げば、沢山の細かい硝子の破片を撒き散らしたかような星達が瞬いている。
店の前に出た彼は、何かを思っているのか否なのか、判別のつかない表情でただそれらを見つめていた。
「ハール」
ふいに自分を呼ぶ声がした。振り返るとイズムが二階のベランダの縁に肘をつき、自分を見下ろしていた。風呂から上がったばかりなのかその黒髪は微かに濡れている。
「どうしたんですか?」
要領を得ない、だが、様々な意味が込められているであろうその質問。
「……別に。風に当たりたかっただけ」
「そういう意味じゃありません。わざと言いましたね?」
その質問に、敢えて的を外した答えを返す。それは自分と相手の思っていることが同一のものかどうかを確かめる意味があった。そして、彼もそれは分かっていたようで。どうやら、思っていたことは同じだったらしい。
その質問が問うているのは、『どうしてハールが外にいるのか』ではなく、『どうしてハールが“此処”にいるのか』、だった。それはどうせこれから話そうとしていることである。イズムもそれを踏まえての質問だったに違いない。自ら話を切り出す手間が省けた。
「どういう風の吹き回しです? 可愛らしい女性を二人も連れて、突然訪ねてくるなんて」
「……何つーか、色々あった」
此方の方が、正しい返答。ずっと向き合って話すのも何となく気まずいので、先程空を見上げていた時のように彼に背を向ける。そうして、銀髪の少女と出逢ってからの出来事を淡々と告げていった。背を向けていたため彼の表情は窺えなかったが、何となくそれを聞いている表情にはいつのも柔らかい微笑がないことは感じ取れた。
話が終わっても、お互いすぐには言葉を発しようとしなかった。皓々と輝く月が、流れる静寂に月影を落とす。
「……リセさん、でしたね」
まるで空白の時間が嘘だったかのよう。たった今までしていた会話の返事をするように、イズムは言葉を紡いだ。
「ハール、もしまた彼女が暴走したら、貴男、自分の身を守れますか?」
その言葉が問うものを、ハールは測りかねる。
「え? そりゃ、まぁ……」
真意が解らず、その口から出てきたのは大して意味も無い曖昧な相槌だった。その反応に、イズムは微かに眉を顰める。
「……意味が、解っていないようですね。……もう少し、噛み砕いて言いましょうか?」
その声は、冷たく硬質な響き。月明かりが照らす端整な横顔には、何の感情も浮かんではいなかった。
……もしくはその奥に、強く色付いた何かを隠していたか――――
「暴走した彼女に、刄を向ける事を躊躇いませんか」
「な…………ッ!?」
その言葉こそがまさに何の躊躇いもなく発せられ、ハールは自身の耳が捉えた事実を信じられない、という風に振り返る。
「お前、何言って……!」
「どうなんですか」
質問の答え以外の一切を拒絶する響きを孕んだ声。彼は凍りつくにも似た感覚を覚える。
「それ、は……」
「ほら、やっぱり無理じゃないですか」
ハールの答えを予想していたようで、長い息を吐く。彼を見つめる玄珠の瞳は、その返答を、何処か責めているような色さえあった。そして微かにうつむき、呟くよりも小さな声を絞り出す。
「……どうして、貴男はいつもそうやって……」
何かを言っている様子だったのだが、余りにも微声だったので、それは誰の耳に届くことも無く、夜風に流されていってしまった。
「だから……何度も『お人好し』が過ぎると……」
ハールは訊き返そうかと思ったが、相手が言い直す雰囲気を見せないので、それは思うだけに止めておいた。
「……ハール、」
うつむいていた顔を上げる。夜空のような黒髪が一掴みの月光を映し、淡く照り返した。そして――――
「――僕も、行きます」
驚いてイズムの顔を見上げると、その漆黒の瞳には、一点の曇りも見受けられなかった。
「お前なぁ、キヨとか店とかどうすんだよ……!?」
「店は暫く閉めます。その間キヨが一人で生活していく程度であれば持ち合わせもありますので」
「だからってな……!」
それが意味するのは、つまりキヨを――――
「あいつがお前に置いて行かれて、本気でやっていけると思ってんのか!?」
「――思ってますよ」
淀みない肯定。そのあまりに真摯な声色に、ハールは思わず言い返すのを躊躇う。
「それに、キヨまで巻き込む訳にはいきません」
凛とした態度を崩さずに言い放つイズム。だが、ほんの一瞬だけ瞳に峻循を映した。
「もしキヨに何かあったら……」
しかし、それもすぐに掻き消える。
「――だから、キヨには此処に残ってもらいます。……僕は」
そしてはっきりと、ハールの碧眼と視線を交差させ――
「ついていきます」
そう、言い切った。
「貴男はリセさんを傷付けることは出来ない。でも、止めなかったなら……」
――――それは、酷く冷たい声で。
「……だから、その時は……僕が、やります」
ハールは何の迷いもなく発せられていく言葉に、何を、どう返答していいか分からない。
「……『保険』ですよ。僕は……『もしも』の、時の為の」
「――――っ……」
そうして黒髪黒眼の少年は、口元に自嘲の笑みを浮かべる。
「どうせ一人増えたところで、今更何の変わりもありませんから」
「……っんなこと言うなよ!!」
そう言った直後眼下から聞こえてきたのは、滅多に声を荒げることのない友人の、怒声だった。
「自分が何言ってんのか解ってんのか!? お前がそんなことする必要ねぇんだよ! 昔も、今も……!」
何かを通り越して、抑制のきかない怒りに任せた声響く。その何かが何なのかも解らず、自分が怒鳴っているということにも、気付かない。
「お前は来るな!!」
そんなハールを、イズムは冷めた目付きで一瞥する。
「嫌です」
「…………ッ」
その断固とした態度に、ハールはイズムを睨み付ける。
イズムも臆することなど微塵も無く、その視線を跳ね返す。
そうして、無音の時が過ぎ――――――
「……じゃあ、こうしましょう」
どのくらいこのままでいたのかが分からなくなり始めた頃、イズムが口を開いた。
「このコインの表が出たら、僕は行きません。裏がでたら……」
イズムはポケットからコインを取り出すと、ハールに見せた。いくらイズムが二階にいるといえど、今この場で不正をしたらすぐに分かる距離だ。問題は無い。
「……分かった」
このままでは状況が動かないと判断したのか、ハールは了承し、頷く。
「じゃあ……」
「ちょっと待て」
彼の制止に、一旦弾こうとしたコインを、もう一度掌に戻す。
「何ですか」
イズムがそうしたのを確認すると、ハールは目をすがめ、言う。
「お前のことだから、こうなることを見越して、最初からコインを魔法でくっつけて両面裏にしてる可能性だって否定できない」
その言葉に、ようやくイズムに微笑が戻る。ただし、今は微苦笑だが。
「僕って、そんなに信用ありません?」
「さぁな」
「分かりましたよ……じゃあ、逆にすればいいですね。裏が出たら、僕は行かない」
小さく溜め息をつくと、改めてそう言い直す。
「……ん」
ハールは返事し、コインへと目を向けた。
そして――――――……、