昨晩の残り物を詰め込んだお弁当をゆっくりと食べた後のデータ整理ほど眠たいものはなく、そのタイミングで鳴る電話は恐怖でしかなかった。そしてそういう日は、鳴る。
目の前の電話はわたしが出るしかないのに、出たくなかった。出てしまえばまたいつものように上司に嫌味を言われ、同僚には陰口を叩かれ、自身の築いてきたキャリアは崩れていく。それでも。
――すみません、急に熱が出てしまったみたいで。
私は流れ作業のように決して慣れることのない罪悪感で膨らんだ頭を慣れた感じでほうぼうに下げていく。その度に自分の一部が死んでいく気がした。
保育園に迎えに行く途中、私はスーパーに寄って買い物を済ませる。本当は一刻も早く迎えに行かなければいけないのだろう。でも、体調の悪い息子が家にいる状態でできる家事なんてたかが知れている。せめて息子の好きなお菓子の一つや二つはないと……、と思っていると、ふと私の顔は林檎の前で止まった。
今にも弾けそうなみずみずしい赤い色は、見ているだけで全身が潤う気がした。そういえば小さい頃、母は私が風邪を引くたびによくすりおろした林檎を食べさせてくれた。林檎の香りが口いっぱいに広がって、透き通った甘さと少しの酸味が優しくて、いくらでも食べられた。
気がつくと私は林檎を手にレジに向かっていた。
いつからだろうか、子育てが苦痛になってきたのは。自分の時間は驚くほどないし、旦那はそれが当たり前のような顔をしているし、子供は日本語を話すだけのモンスターだ。昔はもっと違う景色を想像していたこの坂道も、今ではただ人生の転落を象徴しているかのように見えてくる。だからかもしれない。私はふとカバンの中に入れておいた林檎を嗅ぎたくなって、片手間に取り出した。林檎は思ったよりすべすべしており、そのまま手のひらからこぼれると、坂道をコロコロと転がっていった。
なんでまたこんなことに――。
私は駆け足で追いかけた。周りの視線は痛々しいし、そもそも地面に落ちた林檎を拾ってまで食べたいのかは分からなかったけど、私にはあの林檎が幼い時に食べたあの林檎と重なって、母の面影がちらついた。
リンゴは手が届きそうになるとまた加速して私を引き離していく。いつの間にか小走りから早足になり、私は必死で足を動かしていた。
目の前がY字路に分かれている。左の道にはヴァイオリンを持った女性が歩いていた。私は自分が当時音大を受験しようか悩んでおり、どうせ自分には無理だと思い諦めたことを思い出した。林檎は右の道に向かって転がっていく。私は林檎を追いかけていった。
またY字路だ。林檎は左に曲がっていく。右に目をやると昔付き合っていた彼氏にそっくりの人が知らない女性と歩いているのが見えた。当時、私は悩んでいた。付き合っていた彼氏と結婚しようかどうか。でも、私はまだ学生だったし、将来も不安だったし、何よりお金がなかった。彼氏は作曲家を目指していた。私はそんな彼氏を応援していたが、弱かったんだと思う。私たちが別れた後、その彼氏はドラマのように有名になっていった。それから私は違う男性と結婚をしたが、今でもあの人のことを思い出すときがある。
林檎を追いかけていく。この町にこんな坂道があっただろうか。それでも転がっていくものをどうしてか見逃すことはできなかった。
またY字路がきた。林檎はどっちに行くのだろうか。私はただ林檎を目で追った。ちらと反対側の道に目をやると、そこには母がいた。視界の隅でほほ笑む母を前に、私はとうとう泣き出した。
母は最期まで私の味方だった。私がどんな選択をしようが笑顔でそれを受け入れてくれた。はじめての出産だって、否定も肯定もせず、ただ私を応援してくれていた。それなのに。
私を裏切り続けてきたのは、私だったのかもしれない。
私は自分の人生を振り返りながら、それでも自分の選択を信じたかった。林檎はまだまだ転がっていく。私は汗と涙でドロドロになりながらも必死で走った。
いったいなんのために追いかけているのだろうか。そんなことを頭の片隅で考える。私はずっと駆けてきた。確かにその過程で大切なものをいくつか失ったかもしれない。それでも私は追いかけるために走ってきたわけではない。私は目の前にある大切なものを捕まえるために走ってきたつもりだ。
Y字路が迫ってくる。今度はどんな分かれ道だろうか。林檎は右に行く。ちらと左を見ると、泣いている息子が見えた。
私は立ち止まることなく、林檎を見捨てた。
目の前には息子の通う保育園があり、坂道はそこでようやく終わった。泣いている息子を抱きしめる。いつの間にこんなに重たくなったんだろうと思いながら、来た道を振り返るといつもの緩やかな坂道がキラキラと輝いて見えた気がした。
やっと追いついた。私は胸の中で眠る息子と一緒に家に帰ると、少しだけ汚れのついた林檎を丁寧に拭いてから、久しぶりに林檎をすりおろした。