『水島さん危機一髪』
確かに、今日はこんな目に遭いそうな天気だった。空に晴れ間が見えずに、ただただ、どす黒い。
「泥さんわたし、ノータも大学もやめることになったひよ」
水島さんは、ぼくに対して、他人事のように軽々しく、でも、きっちり独特な語尾で話を切り出した。
ノータとは、ぼくも所属する大学の雑談サークルで、水島さんはそこの大切な主要メンバーのひとりだった。
「水島さん、なんで……」
ぼくはあっけにとられて、むかいのテーブルに座る水島さんに、腑抜けた表情を見せ続けている。
ここ、エンポリーニュは、大学近くの喫茶店だ。ビルの一階にあるくせに、開放的で落ち着いた空間を見事に築き上げている。ここで出される飲み物や食べ物はどれも美味しい。
ぼくは成人して以降、専らハイボールしか口にしないようになっていたが、この無限に飲み続けられると思える美味しさのエンポリーニュのハイボールでさえ、いまは、水島さんが告げたことの驚きで、味も香りもしないのだった。
「うちは、競走馬の生産牧場をやっているんだけど」
以前、北海道の実家が小さな牧場をやっていると、水島さん本人から聞いたことがある。従業員はもういなくなり、今では家族だけで切り盛りしているのだそうだった。ぼくはうなずいて、話の続きを待った。
「わたしのパパ、あんまり経営が上手じゃなかったひよぉおお。それに強い馬を生産してこそ小規模牧場でもやっていけるのに、強い馬を授かれなかったひよぉおお」
水島さんが悔しそうに涙声で訴えかけてくる。結果を出し続けなければ楽には生きられないのは、人間も競走馬も同じなのだ。
そんなシビアな人生をぼくたちは、親や家族の庇護下で、ぬくぬくと生きてしまっている。結果も出せず、守ってももらえなくなると、突然、厳しい現実が喉元に刃を突き付けてくる。
「それで、実家の牧場を閉鎖することにしたひよ」
「でも、大学をやめることはないじゃん。あと、二年間だけなんだし、奨学金を利用したり、銀行から借りたりで、バイト始めてもいいじゃん。水島さんひとり分なら、どうにでも出来るでしょ」
水島さんは、サークル仲間のほとんどを魅了した、どこまでもピュアな水島スマイルを無意識に浮かべている。それはとても儚げだった。ひとり知らない街でその笑顔を浮かべていたなら、下心を持った男どもが放っておかない、そういう黄金の輝きを放つ笑顔だ。
「ただ、牧場を閉鎖するだけならなんとかなったひよ」
「そうじゃないってことなの水島さん」
水島スマイルの輝きが増す。
「うん。借金が五千万円。そのうちの半分が、ちゃんとした銀行じゃないところから借りたお金ひよ」
ぼくにはどうしようもない金額と状況を告げられて、めまいがした。味も香りもしなかったくせに、ハイボールの酔いが、いまさら廻ってきている。
「銀行以外にどこから借りたのさ」
「悪いところひよ。街金とか闇金って呼ばれてるところから借りたひよ」
「そういうところのって、全部違法なんでしょ。弁護士に相談すればどうにかできるんじゃないの」
「そうもいかないひよぉおお。うちのパパ見栄っ張りだし、色んな知り合いや親せきに保証人を頼んでしまったひよぉおお」
「だから、水島さんがノータサークルも大学もやめるっていうのかい」
水島さんは、大きな目を伏し目がちにしながらうなずいた。
ぼくは、通り一面を見渡せる窓に目をやった。冬の薄い陽射しの中を、午後の授業に向かう学生たちが、だらだらと歩きすぎていく。水島さんは、ぼくの視界に映るどの学生よりも優秀なはずだった。
「二年間通った大学をやめるなんて、もったいなさ過ぎるよ。成績だってノータの中じゃ断トツの一位だし、学んだ経営学で、実家のパパを助けるっていう将来の夢だって、あったじゃないか」
どんな学生よりも地に足の着いたヴィジョンを持っていたはずの水島さんが、為す術なく大学を去ろうとしている。
「大好きな実家の牧場とパパを助けるっていう夢は無しになったひよ。だって、わたし、来週から働くことになっているひよぉおお」
ぼくは混乱したまま問いかけた。
「いったいどこで」
ぼくの問いかけを耳にした水島さんは、大きな目に涙をためながら、にっこりとほほ笑んだ。
「風俗ひよぉおお」
酔いの廻ったぼくの頭では思考が追い付かない。聞きなれない職名を落ち着いて心の中で繰り返すと、ようやく事の重大さを把握することができた。
「水島さん、なに言ってんだよ。おかしいだろ」
「おかしくないひよ。借りたお金の利子を払って、元金も減らせて、わたしにも出来る仕事は、これしかなかったひよ。嫁いで幸せに暮らしている、お姉ちゃんの暮らしを壊すわけにはいかないひよぉおお」
水島さんは、依然として魅力的な水島スマイルを崩さずに話している。
「なにもかも水島さんだけが背負わなくてもいいじゃん。絶対おかしいって」
水島さんは、首を横に振りながら口を開いた。
「背負うも背負わないもないひよ。わたしがパパを見捨てたら、わたしの居場所が無くなっちゃうひよ」
水島さんが頑固なのは、ノータサークルに所属する者なら誰でも知っている。そこまで考えたぼくの中には、ひとつの疑問が浮かんだ。
「そこまで決心しているなら、どうして、ぼくにこの話を打ち明けたんだよ」
「それは、泥さんに最初のお客様になって欲しかったからひょぉおお」
水島さんは言い切ると、少し頬を赤らめた。
ぼくが、返す言葉もなく水島さんを見つめ返していると、エンポリーニュのマスターでサークルノータの助言役であるタタリんが声を掛けてきた。
「ただ事じゃない空気だったんで、サークルメンバーに招集かけちゃった。背負い投げ~」
タタリんは大学のOBでもあり、エンポリーニュのマスターでもあり、サークルノータの助言役でもある頼れる存在である。
「ちょ、呼び出しなにごと~」
お姉言葉のような話し方で、チャラい格好のホストコヌシがエンポリーニュに入ってきた。大学生でヘルプなのに、ナンバーワンホストという、なんでノータに存在しているのかさえ謎の存在である。
「どうした、女体盛りでもやんのか」
オンラインギャンブルでひと財産築いたが、留年続きで卒業できない大学院生富豪のキングダムが、後輩のあみんと一緒にやってきた。
「ぼくの手に負える話なんですかね」
大学在学中に学生起業したボズたんも店にやってきた。
「水島さんの最初の客はぼくです」
赤adさんはエンポリーニュに入るなり、自己主張を始めている。
「とにかく、来週からはじまるらしい水島ちゃんの仕事を円満に取り止めにして、水島パパさんと頼んだ保証人たちとの相談から始めましょうか」
まだサークルノータのメンバーが集まりきっていなかったが、タタリんがこれからの計画を口にした。
「みんなありがとうひよぉおおおおおおお」
水島さんが飛び切り魅力的な笑顔で感謝の言葉を口にした。
ぼくが水島さんの最初のお客様になれないのは残念だけれども、サークルノータが本気を出せば、サークルメンバーの危機も乗り越えられるのだ。
ぼくは、安心感を覚えながら酔いの眠気に襲われて、意識を失っていった。了