私は本。名前は知りません。自分の背を見られませんから。
ただ、人様に読まれるために作られたことは知っています。
それはもう本能的に。
ああ、誰かに読んでいただきたい。読んでいただきたい。
それはもう本能的に。
……ふと、唐突に思ったのですが、絵本は本の中でも特別に幸せなのかもしれません。
だって絵本は題名も内容も、人様の母親が読み聞かせるのですから。
絵本は自分が何者なのかを知っています。
もしかしたら、あれは人様のお子様のためではなく、絵本自身に読み聞かせているのかもしれません。
あなたはこんな本なのよ、と。
他の本のことなら知っているにもかかわらず、私は自分がどんな本なのかを知りません。
私を購入したのは、若い青年でした。
まだ、成人していないのかもしれません。
あの人は棚に並べられた私を無遠慮に掴むと、真っ直ぐお会計に向かいました。
中身を確認しない読者にロクなのはいない。そんな迷信を思い出し、私はずいぶんと不安な気持ちになりました。
「ブックカバーはかけますか?」
それは、例えるならば花嫁衣装と言ったところでしょうか……いえ、少し大げさかもしれません。
あの人は無言で断ります。
鞄に入ることもなく裸のまま、私は外へ連れ出されました。
その日はどんよりとした曇り空。
雨が降りそう、などと私が考えたせいでしょうか。帰り道の途中、夕立がありました。
タタタタタタタタタタタ。
アスファルトを叩く雨音がこんなにも近い。恐ろしいです。
一度も読まれることもなく、濡れてしわしわになってしまうのかと。
せめてブックカバーがあれば……。
あの人を憎いと思ったのは、その時が最初でした。
でも、すぐにくたびれたジャケットの内に抱き抱えられました。
薄い布一枚を挟んで、心臓の鼓動。
本には無い、人様の寿命を刻む音。
私はなぜかその音を聴いて安心しました。
その時、初めて、あの人の臭いを知りました。
家に着くと、あの人はシャワーを浴びました。
脱ぎ捨てられた靴下が床の上で死んでいます。
私は小さなテーブルの上から、穴の空いた亡骸をぼうっと見ていました。
これから何をされるのか、私にはわかっています。
私は読まれるのです。
だって本ですもの。
ただ、最初は緊張します。
一度も開かれたことの無い私ののどは柔らかくありません。
最初は優しく開いて欲しい。
そう願うくらいはいいでしょう?
けれど、そんなささやかな望みをあの人は叶えてくれませんでした。
表紙は乱暴に開かれます。
私の不安や恥じらいなど、知る由もないのです。
表紙の付け根に少し湿った手のひらを押し付けます。
一度濡れてしまえばどうにもならないというのに。なんて無遠慮な。
その手に体重を乗せるのです。
当然、私は痛みを感じました。
あの人は、最初のページの角に触れます。
不器用な指先で弄ばれると、私の先端はほぐれていきました。
けれど、上手く捲れないことに苛立ったあの人は、親指を唾液で浸し、ぬらぬらと光る指でなぞります。
臭気を放つ唾液が沁み込むと、私の中身はすべて書き換えられてしまうのではないか、という悪魔的な妄想が湧き立ちました。
最初のページが開かれてしまえば、後は気の済むまで読まれるだけです。
文字の少ないページは次々と捲られます。
雑な扱いでも耐えるしかありません。
まじまじと、私は中を見られます。
欲望をむき出しにした熱っぽい視線はまるで、ジャングルに潜む蛇です。獲物を探して、文字と文字の間を這っているかのよう。
読書に夢中なあの人は、私の小口を強く摘まんで無意識に痕をつけます。
そのような仕打ちを受けても、私は悦びを感じていました。
だって本ですもの。
私は人様に読まれるために作られたのですから。
昼も夜もなく、私はただ、あの人の望むままに開かれます。
あの人は私を読んでいる間、一言も喋りません。
視線で私を弄ぶだけです。
だから私は自分に何が書かれているのか知り得ません。
名前もわからないままです。
嗚呼、私も絵本だったら良かったのに……。
読書が始まって三日目の夜、私はあの人から贈り物を頂きました。
栞です。
アネモネの押し花でした。
手作りの栞だと思いましたが、あの人が作ったモノではないようです。
アネモネの花言葉は、『はかない恋』や『恋の苦しみ』……。
栞を作った人様がどのような気持ちで渡したのか、私は想いを馳せました。
でも、ふいに吐息が吹きかけられると、思考は途絶えます。
あの人が私ののどに強く息を吹きかけました。
ページの上に落ちた髪の毛が邪魔だから。
なかなか髪の毛が取れなくて。
あの人は何度も。何度も。
こそばゆさ。
悦び。
…………。……。
髪の毛がなくなると、あの人は私の一番深いところに栞を挟みます。
そして、出かけました。
栞の厚み。
花の香り。
どちらもそれまで知らなかったものです。
私は、愚かにも、この栞があの人との思い出になればいいと思いました。
すぐに帰ってきたあの人は、いろいろと買い込んできたようです。
てっきり食材でも仕入れたのかと思ったのですが、違いました。
それまでテーブルの上に出しっぱなしになっていた私は、本棚に収められます。
代わりに、テーブルの上には買い物袋から取り出された粘土や塗料が。
そして、あの人は何かを作り始めました。
あの人が作ったのは小さな人形たちでした。それは『ドール』と呼ばれていました。
人様の手のひらに乗るくらいの大きさで、男の子と女の子の両方がいました。
ドール作りに夢中になったあの人は、次から次へと新しいドールを生み出します。
その熱心な様子は、いつか私に向けた獣の目か、それ以上の熱量を持っているように感じました。
並々ならぬ情熱を注ぐあの人の横顔を見て、私は少し寂しく感じましたが、応援してあげたくもなりました。
でも、次第に、私は開かれなくなります。
時々、乱暴に本棚からひったくられても、目を通すのは付箋かペンで記しを付けた箇所だけ。
蛍光ペンはいいのですが、ボールペンは痛いのです。
必要な情報だけ確認すると、勢いよく私は閉じられます。
ダニを挟んだことなど、あの人が気付く訳もありません。
アネモネの栞は、もう別の本に挟まっていました。
私はただ、虚ろな気持ちの中に沈んでいくだけです。
そういえば忘れていました。
アネモネの花言葉には『見捨てられた』という意味もあると。
その後、人様の女が訪ねて来るようになりました。
栞を作った女でしょう。それくらいはわかるのです。本能的に。
あの人と親し気に話した後、女はいつも決まった時間に服を脱ぎ始めます。
ああ、人様たちはこうして結ばれていくのか、と私はぼうっと見ています。
もう誰も私を開こうとはしません。
やがて、女は住み着き、しばらくすると、子供ができたと騒ぎました。
人様は命を繋いでいく。
私たち、モノを置き去りにして。
妊娠をきっかけに、あの人は部屋の片づけを始めました。
夢中になって作ったドールたちは50以上ありました。
でも、その中から3つだけが選ばれ、残りは女が捨てました。疑いようもなくゴミのように。
なぜでしょうね。私は激しい憤りを感じました。
声が出せたのであれば、悲鳴を上げています。
それはもう、捨てられた女のように。
ある時、数年ぶりに手に取られた時、ついに私も捨てられるのだと思いました。
ようやく来た。この時が。
でも、あの人はフッと微笑み、私を小さな箱に入れます。そして、どこかに仕舞い込んで……あんな顔、前は一度も見せてくれなかった!
私は暗く狭い、外の音も籠って良く聞こえない場所に、涙が出るくらい大切に保管されました。
もう読まないのに、手放してくれない。
真っ暗な暗闇の中、私はいつか見た死んだ靴下の姿を思い浮かべました。
今思えば、あれは潔く天命を真っ当した武士でした。
なのになぜ、惨めだと感じたのでしょうか。
嗚呼、私はこのまま……このまま……このまま……。
どれだけ時が経ったのでしょうか。
光の届かない場所に私はいます。
でも、人様のように闇を恐れて狂うことはありません。
だって本ですもの。
考えるのを止めてただのモノで在ればいい。
でも時折、微かに聴こえるあの人の声が、栞を挟んでいた頃を思い出させます。
熱心に私に目を通していた頃のあの人を、私はどうしても忘れられませんでした。
思い出なんていらなかった。
あのアネモネの栞は、まだ必要とされているのでしょうか?
時折微かに聞こえる声はあの人のものだけではありません。
女の声が聴こえてくる間、私はただの本になりました。
女は自ら産み落とした子供たちを叱りつけます。
元気な子供の声が聞こえる日もあれば、いつまでも泣き声ばかりが響く日もありました。
ある時ふと、もしかして私は絵本ではないか? と夢想しました。
しかし、そんなはずはありません。
それに、あの女は子供に絵本を読み聞かせることなど一度もありませんでした。
また、ずいぶん、時が流れたのだと思います。
私は何のために作られ、何を残したのか。
人様の声が聴こえなくなった頃には、もうどうでも良いです。
ある日、物音を聞きました。
いつものネズミでしょうか。
でも、よく聞くと何匹かいるようです。
音が近付き、私が容れられている物にぶつかりました。
ゆっくりと、擦過音を響かせて蓋が開きます。ずぞぞ、ずぞぞ、と。
陽射しが、暖かい。
まだ、私は必要とされているのでしょうか?
人の形をしたモノ、ドールたちが私に触れました。
「ママ!」
お読みいただきありがとうございます!
心に刺さりますと言っていただき、非常に嬉しいです!
本の内容はいろいろ妄想してみてください~♪