研究所から脱出したアベルとイヴは、研究所裏の森に身を隠した。
撃たれたアベルの左足首は出血がひどく、血が滲んでいる。
「アベル、足を見せろ」
「っ……!!」
ズボンの裾を捲ると、周囲に甘い匂いが広がる。そのままイヴは顔を近づけて傷口部分をペロリと舐め取った。吸血鬼の唾液には傷口の修復作用があるので、止血くらいにはなる。
「これでひとまずは大丈夫。ただ、お前の血がこの辺りに落ちてしまったのは不味いかもしれないな」
「ほかの吸血鬼か?」
「ああ。一応縄張りを主張しておくか」
イヴはアベルのズボンの裾を少し絞って血を一滴地面に落とした。そして自分の指を咬んでその上から一滴血を落とした。
次に血で滲んでしまった裾の部分を引きちぎりそちらにもイヴの血を塗ってから木にくくりつけた。
「吸血鬼は仲間の血を嫌がる習性があってな。ボクの血をアベルの血と混ぜることでアベルの所有がボクにあることを主張するって事なんだ」
人差し指を舐めとりながらイヴがいう。
「さて、まずはリリーを弔ってやらないと」
「そうだな。たしかこの森の裏側に廃教会があったはずなんだ。うちの教団は関与していない。あとそこなら雨風も凌げるはずだ」
二人はイヴの嗅覚だけを頼りに人間の匂いが残る場所を目指して歩いた。
夕暮れ、オレンジ色の夕日に照らされた白い壁の建物を見つけた。
「ここだな」
その廃教会は森を出たところにあった。昔そこには村があり、信仰をまとめるために作られたものだった。しかし、その村は人口減少に伴い近年廃村。建物だけが取り壊されず残された。
ボロボロの入り口から中へ入る。中は埃ぽくうす暗かったが、奥はステンドグラスで出来た窓から、色とりどりの光が差し込んでいた。
アベルは教会の裏から木の箱を見つけてきた。白い布がないので、古びた布のカーテンをリリーの遺体に巻き付ける。そして箱にそっと入れた。イヴが外からとってきた白い野百合も一緒に入れた。そして蓋をし、十字架のペンダントを上に置いた。
アベルが小言で教書の一文を読み上げ、祈りを捧げる。
「一応俺も牧師だからな。こんな時くらいは役に立つ」
イヴも隣に座り、祈った。アベルがじっと見つめたので思わず少しはにかんだ。
「なんだ、吸血鬼が祈るのはおかしいか?」
「いや、送り出す人が多ければリリーも喜ぶだろう」
日が暮れるまで二人は祈りを捧げ続けた。
本来であれば墓を建てたいところだが、教団の人間に掘り出されるリスクを考え、教会の金庫室に入れて鍵をかける。裏庭には廃材で作ったダミーの十字架を建てた。
リリーに使ったカーテンの残りに身をくるんで、二人は寒さを凌ぎながら夜を明かすことにした。
「なあアベル」
「なんだ?」
「クリスマスイヴの夜、何故ボクを殺さずに服従させたんだ?教団は始末したかったんじゃないのか?」
「俺は殺生は嫌いでね。元からそのつもりはなかった」
「そうだったのか……」
「出会ったときお前は俺を殺すとかいいだしたが、脅しって印象で殺意は感じなかったしな」
「ボクはただひっそりとあの森で暮らしていたかっただけなんだ」
「そりゃ悪いことをしたな」
「ほんとに。義母さん義父さんも人間に殺されて、ボクはずっと一人でいたのに」
うつむくイヴ。歯を食い縛っている。
「俺が見せられた資料では、お前は十六年前に教団の人間を五人殺している事になっていた」
「そんなまさか。人を殺したことなんてない!!」
「どういうことなんだ……」
そんな話をしていると、イヴも疲労からか徐々に眠気が出てきて、とうとう目を瞑ってしまった。
「おやすみ。イヴ」
その優しいささやき声は意識遠退くイヴの耳に残っていた。
翌朝、イヴが目を覚ましたとき、隣にアベルは居なかった。外から鳥の囀りが聞こえてくる。
「アベル……?」
寝ぼけ眼で立ち上がろうとした時、イヴは強烈な甘い匂いに襲われた。
「この血の匂い……!!」
教会の外からどんどん入ってきていた。急いで外へ飛び出たイヴ。匂いの強い方向へ走る。
教会から三百メートルほど離れたところで立ち止まった。
そこには大きな血だまり。さらにアベルが首に掛けていた十字架のペンダントが落ちていた。
しかし本人はどこにも見当たらない。ペンダントを、拾い上げ辺りを探す。匂いが強すぎて超嗅覚も意味をなさなかった。
「どこだ!?」
どれだけ叫んでも返事はない。周囲にはイヴの声が響き渡る
その時だった。急にイヴの身体へ強烈な寒気と激しい眠気、刺されたような心臓の痛みが襲ってきた。首元の黒いアザは模様を変えた。
それは血の契約が解かれないまま、術者が絶命したことを示していた。これを呪術師たちの間では、黒落ちと呼んでいた。
「なんだこれは……血の効力が切れたのか……くそっアベル……」
ペンダントを握りしめるイヴ。身体に力が入らず、その場に倒れた。薄らいでいく意識のなかで見たのは、アベルと同じ牧師服を着た男の足元だった。それはノエでもなかった。必死に手を伸ばすが届くことはなく、イヴはそのまま深い深い眠りにつくのだった。
「お帰りなさい、私のお嬢様」
三百年前、イヴが最後に聞いた言葉だった。