その龍には翼がない。一般的に龍に翼はないのはわかっている。だからこれは比喩表現だ。
言い換えると自由が無い龍。そう言いたのだ。
彼は、復讐に駆られ、嫉妬に狂い、そして結局世界を恨んだつもりが一人の男にその焦点を当て、人を捨て、役割を放棄し、人道から墜ち龍へと成り果てた。墜ちるのみの龍。それが、彼『墜龍 』という存在だ。
彼は負の感情に支配された存在の成れの果てだ。悲しい、憎い、恨めしい。そんな感情しか持たない負の存在。そのあり方は単一すぎて変わろうにも変われない悲しい存在、変わるとしたらその思いを深めるしかなく、一方向にしか変われない哀れな者。
力が強い、それがどうした。何者よりも強靭、それが何だ。欲しいものは手に入らず、恨んだ者は結局一人の男、彼への執着、彼女への未練。それが彼を突き動かしていた。
忘れたいのに忘れられず、思い出すのは憎き男と愛した女のことのみでいつまで経っても復讐者のまま。一つの道をひた走り、それのみしか見えない呪われた龍。
妖怪集団『百鬼夜行 』が一ツイリュウノリュウと呼ばれる元人間一月流一郎 はそんな存在に成り果てていた。
「ああ、ァァァアアアア! アア、ニクイ! ナゼ、ナゼナゼナゼ──」
何故、自身が得るはずだったものを持っていくのだ。
地位も女も持っていかれた。多くは望んでいなかった。自身だってあの地位にいれば同じ事をしたはずだ。そうすればあの女だって手に入った。
多くは望んだつもりはない。それなのに、あいつに全部を持っていかれた。
「ジャマダ……ジャマジャマジャマ、ゼンブジャマダァァァ!」
どれもこれもあいつが生まれたからだ。世界の理のせいで、それを尊守する人々のせいで、そしてそれを敷いた神のせいで、全てを無くしたのだ。ありとあらゆるものが邪魔でしかなかった。
「ゲン、ゲン! コロシテヤル。コロシテヤルヨ!」
ああ、憎い。源次郎。弟よ。必ず殺してやる。
「コロシテヤルヨ。ゲェエン!」
彼はそう吠えながら、進行した。『中天原 』の都を壊し、燃やし、人々を殺しながらその人型の龍は己が願いを叶えんがため、阻むもの全てを壊した。
それは、己の思い通りにならなかった子供染みた八つ当たりだ。
何故何故と暴れる子供。彼の行動はそれでしかない。
だが、人々にとっては脅威である彼は、その行為によって相対する人々に恐怖を与えていた。
一人、二人、十人、百人。何人かも数えていないがそんな行為によって命を刈り取っていく。
それは、力の象徴たる黒き龍を体現した姿であった。
人であった時にはなかった感覚、誰もが木石のようにしか見えない。そんな時だ。
一つのものを見た。喋る何か、恐怖する何か、それを見て彼は何も感じなかった。目と目があった。じゃあ、次はこれを壊そうか。そう考えた時だ。
それは言った。
「なんだその無様さは!」
その言葉が龍に突き刺さった。
それから木石は色々と喋っていたが最初の言葉以外何も耳に入ってこない。
無様。
あの時あの場所で、今でも忘れられない弟、源次郎 に言われた言葉だ。
『無様だな、兄上──』
忘れられない。頭にこびりついて離れない。自信を見下ろす冷たい目。彼はそれを思い出した。
「ウル、サイ!」
龍はその木石に向かい鋭い爪が生えた人の体の半分程もある手を振り上げ、感情のままに壊そうとした。『気に入らない』龍はその木石にそう強く思った。
だからこそ、完膚なきまでに破壊してやる。そう思った時だ。
ガンッと思った感触とは違う感覚をその手に受けた。何かが割り込んできたのだ。そう思い。それも壊して奥も壊す。そう考えた時だ。嫌な匂いを嗅いだ。
「────!」
その女も何やら言っているが耳に届かない。
それよりも心揺さぶるものがあったからだ。
匂い。その割り込んできた木石から匂うその匂い。それがどうしよもなく彼の感情を揺さぶった。
「アアァ、ウザッタラシイニオイガスル!」
懐かしい、欲しい、欲しかった。彼の記憶に残る女の匂いそれを感じ取っていた。
「オンナノニオイダ!」
あの女と同じ何かを決意した者の感情の匂い。二度と嗅ぎたくない後悔を思い出させる匂いだ。
「クサイ、クサイ、クサイ!」
頭の中がぐしゃぐしゃになった。自分は何がしたいのだ。何が欲しい。何を憎んでいる。どうしたい。どれもこれもを憎んで壊したい。
『無様だな、兄上。半端者が──』
どうしようもなく、彼はその時のことを思い出した。
と、その時だ。左腕に熱が走った。腕を切られたのだと気づいた。
「イ、タイ。イタイイタイイタイ!」
「シッ!」
そして、首を切られたのを感じた。
落ちる視界。地に落ちた感覚。木石供の喜びの声。どれもこれが不快だった。
(あぁ、何だこれは、負けた? 首を切られた? 死ぬのか?)
そう考え、次に湧き上がったのは怒りだった。
あり得ない。このまま死んで良いわけがない。そう思ったのだ。
あれか。あの木石か。俺を殺そうとしたのは……。
そう思いながら意識が遠のいていく。と、その時だ。
『無様だな、兄上。半端者が、何も決められないのか?』
憎き男の言葉を思い出した。
決める、キメる、キメル。キメナケレバシヌ。
オモイガトゲラレナイ。
そんな考えが浮かんだ時、己を殺そうとした木石を見て、龍は男への憎しみに染まった。
その木石に憎き男を見たからだ。
(ゲン、ゲン、ゲンジロウヲコロス)
多分この時だろう。彼の人生から今に至るこの時まで、彼は自身で何かを決めたことがなかった。だから、選択したのはこの時が初めてだろう。
女を捨て、憎き男を取った。この時ようやく彼は真の意味で妖怪に至ったと言えるだろう。
負の感情に支配された存在の成れの果て、彼はそこにようやく至った。
首が飛ぶ、殺さんと恨みの念で首だけで相手を殺さんとした。
切られた。タリナイタリナイタリナイ。そう思い、彼は器を捨てた。
「アア、ァァァアアア! クサイクサイ、ゲェェン!」
そうなれば、心の匂いを強く感じ、四方八方から感情の匂いを感じ、そして憎き男の菅野じょの匂いを感じ取り彼はそう叫んだ。
「ジャマ、ジャマジャマジャマ、ゼンブッジャマダァアア!」
どれもこれがいらない。女への未練も、世界への恨みも全部いらないと彼は全てを捨てた。憎き男の思いだけを残し、彼はここに再誕した。
体という器を捨て、憎しみに支配された心だけを残し、彼は生まれた。
ツイリュウノリュウ。墜ちた龍はさらに深く深く憎しみに落ちて行ったのだった。
「流兄様」
「アア? ニイサマ? ……ダレダオマエ?」
頭はスッキリしていた。木石の声が聞こえる程度には自我らしきものがようやく宿ったとも言えた。女の様子を見る女から負の匂いを感じ取ったと思えばすぐに元の匂いを感じた。
「『墜龍』一月流一郎! お前を、討つ!」
そして女はそう言った。
「アア、クサイ、クサイ、オンナノニオイ。エンノニオイガスル。エン、エン。アアッ!」
彼はその匂いを嫌がった理由がようやくわかった。畜生のままではわからなかった理由だ。
要は誰かのためにと言う献身という名の自己犠牲精神、自身ではなく他人に心を向け己の気持ちは奥に蓋をし閉じ込めている様な気持ち悪さを感じていたからだろう。
「スベテ、スベテッ! ゲン! ゲン! コロシテヤル! ヤツザキダ!」
ああ、全て、あの男が悪い。全ての元凶、恨みを全て一月睦月源次郎 という男に集約させ、彼は怨嗟の声を上げるのだった。