13 petal chrysanthemum
絵描きの遺書(前)
 現実に怪異の起きた証左は何も残っていない。  見たと思ったその姿や、聞いたと思っているあの声も、本当にあったのかと問われれば、不定形な虚像に変じて朧と消える。記憶の中でさえその正体は、具象を保てぬほどに、ほんの幽かな断片でしかない。  血泥に塗れた私が、半死半生で村から脱出した直後に、広大な西洋館の廃墟を載せた山一つが完全に消滅した。連鎖して起きた、地形を変えるほどに大規模な崩落は、主要な道路を分断し、長く村落を孤立させた。復旧の後、村民のすべてがいなくなっていたにもかかわらず、事件そのものは、単なる自然災害として世間に報道された。  村に一つだけある小さな港の、そこから程近い沖合いで、村落を襲った天変地妖とほぼ同時刻に起きたらしい貨物船の原因不明な座礁や、この船の多数乗組員が見たと断言する超大な人影も、不確かな人間の記憶にしか痕跡を残しておらず、物的な証拠は何一つとして残存していない。  だからといって、自分の体験したことが真実であると確証を得るために、彼の地へ戻ろうなどとは微塵も思わない。あの耐え難い異臭たち籠める暗黒の洞穴へ、今一度足を踏み入れるような事になれば、私は間違いなく発狂するだろうから。  すべてが幻であったにせよ、その幻は私の精神を狂死寸前にまで破壊し、その疵は恐らく私がこの世界から消滅するまで癒えることはないのだ。  一夜にして忽然と姿を消した二五七人の村人の行方は未だ杳として知れない。彼らが何処へ行ったのか、どのような運命を辿ったのか、私にも判らない。失踪するその原因を創ったのが、この私であることは間違いないとしても。         *  峻厳な岩山を登りつめると、北には、藍晶色にうねる暗い荒海が望めた。  自殺を思い留めるための立て札が、卒塔婆のように乱立するその奥に、蔦の絡む錆びたフェンスがあって、大きく破れた穴のひとつを潜ると、断崖の限際が、生い茂る雑草の陰から唐突に現れた。恐々下方をのぞけば、遠すぎる海面は波浪の砕ける音も曖昧で、ただ塩辛い微風がゆらゆらと這い登るばかりである。  不穏で灰色な神無月の空には、色の異なる雲が幾重にも層をなして溢れ、世を滅ぼす魔神の軍団のごとく轟轟と流れていく。風は上空にだけあって、怨怨と恐ろしげな唸り声を下界におとしては彼方へと駈け去っていった。  いかにも暗鬱な景観だった。  この場所を西に下れば、二百米も続く奇岩の風穴と、定礎が明治の末年とされる美麗な西洋館の廃墟が、常緑の森に隠れているはずである。  私がこの地を知ったのは、古本屋で購入した画集の一頁がきっかけだった。  色の掠れた革表紙に、金押装丁の幾何学図形に魅せられ、手にしたのがすべてのはじまりである。  画集はA三サイズで、全編廃墟ばかりが描かれたモノクロの西洋画だった。その中に、問題の絵が含まれていたのである。それは末頁に掲載され、尋常でない違和感と、劇的な存在感を備えてそこに在った。  地下洞穴と思しき空のない空間に、大きな寺院様の建造物が描かれている。  不思議な絵だった。  老朽化の描写が細部にわたり写実されてはいても、この絵だけは廃墟でない。古い日本様式の特徴を残していながら、規模や構造は近代建築と比較して遜色なく、全体の形状と随所の装飾はあきらかに異教で、どちらかといえば不快な感情に属し、何故とはなく人間のもつ原始的な恐怖の記憶を刺激する怖い印象をもっていた。  私はこの絵の持つ恐ろしさの虜囚となった。原因不明の病的な執着といっていい。  模写して気がついたことだが、画家はこれを実際に眼で見て描いている。他の廃墟の絵にあるような建築学的な矛盾や、構造上の曖昧さもない。見ているだけで深層の自我が怯え始める装飾の意匠は、想像による創作ではあり得ないだろう。しかし、地底にある寺院とはかつて聞いた覚えが無い。実在するのに公にならない寺院があるとするなら、それはよほど邪宗の神殿に違いない。  詳細を調べてみると、この絵に対する謎がさらに深まった。  僅かに残る資料によれば、画家は大正時代の人で、とうに死んでいて子孫もない。画集の発行元も昭和の末年まで持ちこたえたが、平成の世の来訪とともに消滅していた。  当時の新聞を閲覧してようやく、画集発売時の紹介記事を目にすることができた。  画家は一種奇矯の人であったらしい。  画集発売記事の三日後の新聞に、当の画家自身の死亡記事が掲載されていた。代々の資産家だった彼は相続した広大な屋敷に自ら放火し、自身もその業火の中へ飛び込んで、すべてを灰燼に帰してからこの世を去った。    一町をゆうに越える邸内には家政婦も庭師もおかずほぼ無人で、巨炎が闇を焦爛している様を見たものがいた訳ではない。全焼した屋敷の中、彼の焼け残った骨がまだ燻っているころ、出版社に届いた、死んだ画家からの手記により、死に至るまでの仔細が明らかとなったのだ。  新聞記事に、自死する原因に関しての記載はなにも無く、「精神を病んでいたと思われる」と文末は結ばれていた。出版社に届いた手記は遺書に違いなく、死の直接的な原因も記されていたことは間違いない。にもかかわらず、その内容が伏せられたのは、よほど常軌を逸した内容であったと想像される。  記事は他に、画家の死体以外にも大量の動物の骨が見つかったと伝えていた。動物の種は特定せず、「人によく似た骨」という表現を用いている。一体何の骨であったのか。  画家の邸宅跡も訪れてみた。  かつての風雅な庭園は見る翳もなく、鬱蒼たる森へと変じている。  錆び朽ちた鉄格子の門扉と、削り取られた表札の跡を残す門柱が、時の酸蝕に亡んでいく様を曝しているのがなんとも侘しい。縄張りさえ溶け千切れた邸内に、無断で侵入してみても、残存物のかけらすら見つけることができなかった。  ただ、邸宅跡のある街の小さな美術館で「地底の寺院」の絵を見つけることができた。しかし、これも原画ではなく、原画を写真撮影し、引き伸ばしたもので、当の原画は盗難に遭ってすでに無い。盗難の経緯もよく判らない。歴代の館長の申し送りにも無く、記録にも無く、年老いた守衛の曖昧な記憶に頼っている。  画集を出版した文芸社から寄贈されたというその不気味な絵は、画家の遺作という以外由来も知れず、題名さえ無いのだった。  そして、この「地底の寺院」が描かれたと推測されるのが、今私が訪れている、海沿いの荒涼たる僻村なのである。  往古以来の天領で、永く隠れ里として秘匿された経緯から、恐らくは隠し金山でもあったのではなかろうか。地の下を縦横に奔る坑道のイメージは、地底の建造物の陰とも容易に融和する。明治以降も、華族専用の温泉地として公にはされず、歴史の襞に隠れていた。近年になってようやく、土地の景勝がひとの知るところとなったのである。  やがて私の前に巨大な石の天然トンネルが現れた。  風穴の景観は優美というよりはむしろグロテスクである。  そもそも黒褐色で、蔦植物が血管のように絡みつき、常に濡れている壁面には厚い苔と菌糸類が貼り付いて、皮膚病のごとく暗緑色に変じている。特有の饐えた異臭にむせながら、迷路状の溶岩トンネルをようやく抜けると、私は目的の建物に辿り着いた。  「鴻館」と呼び名されたレトロな建造物は、小さな山一つを抱くおよそ六万坪といわれる敷地に、複数の異なる様式の建造物を、俯瞰すれば大蛇とも見える渡り回廊で繋ぎ合わせた元旅館である。これこそが、かつて華族専用とされた保養所でもあった。  廃墟、と呼ぶのは正しくないだろう。  現在も建物の一部のみで営業を続け、客をもてなすこともあると聞く。ただし、文化財としての価値を認められながら、個人所有のために、たいした保存の措置もとられぬままそのほとんどは、今も少しずつ崩壊して廃墟になりつつあることは確かだった。やがては無量の植物群に飲み込まれ、本物の廃墟となってゆくのだろう。  鴻館の閉ざされた巨大な正門を過ぎて、鬱蒼たる森の中、延々と続く赤レンガ塀に沿って歩くと、西南の角に小さな入口を見つけた。  夕刻というにはまだ早い時間にもかかわらず、きみどり色の淡い門灯が、怪しげな暈光を放っている。灯りの下に「旅館 神居島」の木看板がみえた。苔むして、絨毯様の感触を靴底に伝える石畳の先に入口がある。曇り硝子の引き戸を軋ませ玄関土間に入ると、無人の受付には漆の剥げた呼び鈴が私を待っていた。  遠慮がちに鈴を鳴らして、応えを待つ。  しっかり十分は待たされた後、か細い声とともに奥から人が現れた。  受付で会釈したのは、長い黒髪を頭頂部で見事に纏め、紺絣の和服にこげ茶色の前掛けを締めた若い娘である。娘は細面で、随分と華奢で、上目遣いに私の言葉を待っている。胸元で組み合わせた手が濡れていた。  「一週間ほど逗留したいのですが・・・・・・」  と、声をかけた私をそのままにして、娘はまた奥へと駈けていった。  少し息を切らせて娘は戻ってきて、無言のまま目元だけほんの幽かに微笑んで、墨書きの黄ばんだ料金表を私にみせた。ひと房だけほつれた前髪が、片方だけ二重の瞼に掛かって瞬きの度に揺れるのが、ぞっとするほどに美しい。数瞬みとれたあと、動揺した私は、わざとらしく料金表の一行を読み上げた。 「一泊、二食付き・・・・・・一週間以上で割引。ただし一週間ごとに・・・・・・」  娘に見つめられていることに耐えられなくなり、私は選ぶゆとりもなくその一行を指さした。  「ではこれで」  娘は無言でこっくりと頷いて、私を部屋へと案内してくれた。  二階の角の、変哲ない和式の二間である。私のみるところ、ここは「鴻館」ではない。元は鴻館の従業員宿舎であろう。それを簡易に改装して旅館にしたものだ。なるほどこの建物は確かに「旅館神居島」である。酷いのは、料金表が「鴻館」のものをそのまま代用していることだ。どう考えても高すぎる。客を泊める気が、そもそもないのだ。  部屋にいても所在無く、他の間の大仰な名板を眺めつつ、黒い板敷きの通廊を歩いてみた。等間隔に整列する木製のドアには、青緑の色ガラスが格子にはめ込まれ、微力な残照を反映して、私の古い記憶を刺戟する。北に突き当たって重い引き戸をこじ開けると、板敷きの広いテラスがあった。かつての物干し場である。往時は相応に賑わい、この場にも満ちたであろう女中たちの華やかな笑い声が、板間のそこかしこに残る無数の疵から立ち昇るように思えた。  眼下の森林に、赤煉瓦の建物が見える。鴻館のひとつと思われる建物の、誰もいないはずの丸窓には、人影らしきものが写っている。その人影はずっと動かずにいて、それでもなお、見ていればいつかは動くような気が、なぜとはなくするのだった。  暗い通廊を戻りかけると、私の部屋の前に幽霊のように儚げな様子で、娘がお茶を持って待っていた。  娘を迎いれても、部屋は静かなままである。  私があれこれと話しかけるのに、娘は「はい」と「いいえ」でしか答えない。それでも熱いお茶に舌を焼いて、顔を顰めた私を見て、娘はくすりと微笑んだ。その笑窪に私はまたしても衝撃を覚えた。  私の長逗留が、ここから始まった。  この村には二つ名前があって、管轄の行政には「鋳州村」と呼ばれ、村人達はそれを蔑称であるとして、昔ながらに「神居島」と呼んだ。  村落は暗然たる山々に囲繞され、日照は短い。天候を問わず、日が沈むときまって亡霊のような靄が、地を這いつつゆっくりと山の中から現れ、一時村の地面を覆いつくした後、川面に溜まって溢れた。  川の名は岩取といい、村を二つに割って渓谷をなしている。河口に入り込む少し前のゆったりとした流れは硫黄色に淀んで、いかにも有毒である。それでも正体の知れない大きな魚が、時折背びれを見せては、小さな渦を水面に残した。  村の戸数は二百ほど、人口は三百人ぐらいと聞いた。特別年寄りが多いわけでもない。  陰気で口数の少ない村人は不気味である。  挨拶しようにも眼を合わせてくれないし、無理に摑まえて、話し掛けても得体の知れぬ方言で韜晦する。人溜りを見つけても、私が歩み寄るころには誰もいなくなるのだった。  「地底の寺院」を捜し求めて、この村を訪れたはずである。  焼死した画家が最後に滞在した土地であり、「地底の寺院」の絵の来歴からもこの土地で描かれたとしか考えられなかった。では何処にその場所があるのか。  村民から絵の情報を得ることは、どうやら不可能である。邪教の派であるかもしれない。もし、そうであるならば、迂闊に訊くことは危険でもある。  よそ者のこの私とわずかでも会話してくれるのは、旅館神居島の娘だけだった。無口な彼女が、今のところ唯一の情報源であった。  それでも彼女は少しずつ、幼児が言葉を覚えるような気長さで、会話を増やしてくれてはいる。  娘の名は「ゆみ」というらしい。  私にとって、彼女との遭遇は、遥かな過去より約束されていたことのような錯覚を伴った。  彼女の肌の蒼白さは、川面に浮く死んだ魚の白い腹を思わせ、右眼だけが二重の切れ長の瞼や、めずらしく微笑んだときに現れる口元の笑窪さえ病的で、弔花の枯れてゆく様を連想させる。その朧げな佇まいが、私の心を緊縛していた。顔を合わせるたび、去り際には必ず、肺腑に酢酸を打ち込まれたような、甘美な痺れを私に残していくのだった。  「地底の寺院」は見つからず、村の情報も一向に得られず、為す事も無いまま日を過ごしている。  ただ、逗留三日目に少しの異変があった。  前日夜更かしをしたせいで、その日は朝が遅く、だからまた夜が更けても当然なことに眠れない。客の私が起きている限り、旅館の娘も休めないだろうと気を遣い、部屋の照明は早めに落とした。あとは気配を殺すようにして、橙色をした行燈の頼りない光源のもと、昼間に映した廃屋のスケッチを仕上げていた。  深夜の一時を過ぎたころに、その音が聞こえはじめたのである。  閉め忘れた窓の隙間から、冷たい夜風とともに入り込んで、私の鼓膜を刺激した。  表の道を誰かが歩いている。それもひとりやふたりではない。大勢の人が旅館神居島の前の道を密やかに歩み過ぎてゆく。誰も会話しないのに、沈黙のなか時折幼児の鳴き声だけがした。不気味だった。  何事かと窓に忍び寄り、カーテンを細く密かに割って階下を眺めても、背の高いレンガ塀と、濃密に黒々と繁る雑木林が視界を遮断している。満月の夜で、窓下の物象が濡れたように月光を受ける中、木の下闇に一点だけ邸内の灯篭に炎が揺れている。その小さな焔は、この出来事に宗教的な印象を強く残した。幽かな靴音を耳で追ったが、建物に反響する音はぼんやりとして不確かで、長く続いた後不意に途絶えた。  いまさら遅いとは思うけれども、慌てて上着を羽織ると足音を殺して廊下を走り、階段を駆け下りた。木造の建具が静かに軋んだ。だが、玄関の前まで行ったところで、私は魂の消し飛ぶほどに驚いて、その場に硬直した。  (げえっ!)  声の無い悲鳴が咽喉から洩れる。  玄関の壁に黄色く燈る薄暗い常夜灯の下、和装の老婆が正座して表情の無い横顔を見せていた。亡霊じみたその姿は、この世のものとも思えない。  呼吸も鼓動も忘れている私に、その人影から声が届いた。  「もはや、戸締りしてございます。お出かけはご遠慮くださいませ」  しわがれたか細い声が、老婆のあたりから出た。  「えっ・・・・・・はい。ああ、そうですか。・・・・・いえ、眠れなくて。少し、散歩でもしようかと・・・・・・」  驚いた私の声は意外に大きく玄関に響いた。  「もう夜も更けてございます。どうか、お休みくださいませ」  夢幻から心を覚ます効果が私の声にはあった。今度は確かに、老婆の口から言葉が洩れるのを見た。  「そうですか」  悪戯を見つけられたような気不味さをその場に置き捨てて、私は部屋へと戻った。帰る足音がもう一度外の道に聞こえるかと期待し、耳を澄ませているうちにいつしか眠ったものらしい。  翌日、朝食を運び入れた旅館の娘「ゆみ」を摑まえて、昨夜の異変を話した。  話終えて、村人の行方を訊いた私の質問にゆみは答えず、  「うふふ。それは祖母です。玄関の鍵、壊れているので、わたししか開けられないんです」  ゆみは美麗に微笑みながら、祖母の話だけをして口を閉じた。  ただ、いつもならそのぐらいで背を見せるのに、ゆみは行儀よく正座して私の次の句を待つ気配をみせた。彼女の視線は部屋の隅に向けられているのに、彼女は確かに私を見ていると感じる。  私は何故かひどく動揺して、言葉が途絶えた。この違いにはいかなる意図が秘匿されるのか。僅かの変化の原因が私には計り知れず、内心が震えた。  よほど動転したのか、その後の記憶が不明瞭である。私は自分の正体が絵書きであると明かし、彼女に請われるがまま、彼女の肖像画を描くと約して、その場を凌いだように思う。  動揺を抑えかねて、目的もないままに、私はスケッチブックを抱えて散策へと出かけた。  相変わらず私が出歩くと、一村廃墟の如くに村人は息を潜める。  確かにいるはずの村民三百人は、今このとき、何処で何をしているのだろうか。虫も鳴かず、鳥の声もない無音の村道を歩いていると、現世とは波長のことなる異世界へと迷い込んだ錯覚にとらわれる。この村全体を呪縛している退廃的な旋律は、ごくありきたりな鄙びた景観を非現次元に歪めているのだ。井戸水を汲み上げるポンプが唐突に唸っても、その限りなく人造的な音からすら人の生活の気配を感じ取る事ができない。雨戸の隙間より見える奥内の闇の中には、外を覗う幾つもの眼光があるはずなのにもかかわらず。  旅館の娘ゆみの話では、年寄りが僅かな田畑を耕す以外、昼間に人影はないという。ほとんどの家が漁業で生計を立てており、朝が早いから夜も早く訪れる。観光客を必要としないこの土地においては、僻村にありがちな排他的因習がどんよりと停滞して、風土に染み込んでいるのだろう。  旅館を出て少し下り、錆びた赤い鉄骨の橋を渡ると、岩取川に沿って西に歩む。住宅の切れ目に、忌み捨て去られたような神社が、境内の内外から増殖する濃密な樹木に侵されてその姿を隠している。外堀の澱んだ水に、崩壊を続けながら浮遊する何かの屍骸には眼を背け、左に折れて、いかにも危うげな木製の吊橋を渡る。今度は川の対岸を反対の方角に歩けば、それでほぼ村内を一巡することになる。これが私の、日々の習慣となった散策コースであった。  この日は気が向いて、吊橋を渡らず、陰鬱な翳の立ち込める神社にふと足を向けてみた。  凭れかかる鬱然とした山の樹木が、包み込み覆い隠そうとするかのようで、道からではその全容が判然としない。  ここは確かに忘れさられた場所である。  敷きつめられた玉砂利も、歪に傾いだ敷石も、堆積する落葉が腐敗するにまかされ、倒れた小さな朱い鳥居は、枯れた雑草の中で土に還りつつある。木造の建築物は、風雨に彩色を失い、替わって、足もとから這い上がるコケ類が侵し、鮮烈な緑色に染めていた。  異様な光景である。廃村でもないのに、何故誰も手入れをしないのか。村人は何故放置するのだろう。日本古来の八百万の神を、何ゆえに忌避するのだろうか。  雑草を踏み倒しながら、堂屋に沿って境内を一巡すると、敷地内の片隅の、神木の群れの影にかくれて、平屋の茅舎を見つけた。  ガラクタの散乱する入口に近づき、曇り硝子の割れた窓から中を覗き込んでみた。どうやら人が住んでいるらしい。古さびて黒ずんだセピア色の家具類達からは、永い年月を経たために、いましも妖怪へと変化しようとする邪な気配を確かに感じとることができた。視線を転じて屋根へと向ければ、雨樋に堆積した落葉が壌となって、そこからも草が生えている。屋根は傷んで、雨漏りがするのだろう、奥内からは黴臭い空気が漏れ出している。  母屋の奥に納屋がある。  納屋には軽トラックと神輿の残骸が見えた。いかにも屍骸のごとく、油染みの広がる土面にぐたりと傾いて身を横たえている。  納屋の前を横切ろうとして、椅子に腰掛けた案山子が奥の暗がりに見えた。その案山子から声が出た。  「おい。あんたは余所もんだね。どこから来た? 何しに来た?」  「えっ?」  案山子と見えたが、それは風体で、黄色く澱む眼が、永く伸びた蓬髪と鬚の中にあった。ベージュのつなぎをだらしなく着崩して、黒いゴム長を履いている。老爺と呼ぶには声に力がある。琵琶の音色を思わせる張りをもったその声で、老爺は勝手に話を続けてゆく。  「・・・・・・ここがどういう土地なのか、あんた知ってるのかね。よそ者には危ないぞ、怖い土地だ。もっとも住んでる人間にとっても命がけだがな。この村には、安全な場所はここしかないんだ。だからここで見張ってるんだ。ここは大昔から隠れ里さ。他所もんは締め出して入らせない。鎖国なんだよ。あんたは何もんだね。警察か? 税務署の人か? 役人にしちゃ若いな。用が済んだら早く帰ったほうがいい。なるべく早くな。そうしたほうがいい」  老爺の言葉は止め処ない。  「あんた、この村に知り合いでもいるのかね。それなら面倒だ。面倒なことになる。この村の人間とは付き合わないほうがいいよ。やめといたほうがいい。・・・・・・まったく、馬鹿な連中なんだ。いつまでも同じ事繰り返してよ。掟だか約束だか知らないが。・・・・・・放っておいたって、どうってことはない。居なくなるかも知れないし。もしかしたら、もう死んでるかもしれないしな。・・・・・・なあ、おい」  老爺は椅子から腰をあげ、躓くようにして私に歩み寄って、その金銅色の瞳で私の右目を見た。酒くさい悪臭が、言葉とともに私の顔を打つ。  「なあ、あんた。今の若い連中は誰も見たものがないんだ。儂だって見たことないけどな。婆さんのそのまた婆さんが、夜の海で、冥い宙に向かって祈ってる姿を見たらしいけどな。多分もう死んでるさ。間違いない。まったく馬鹿な連中だ。それなのに。・・・・・・今年は多分、松本のゆう子んとこのぼうずだろう。亭主を海で亡くしたばっかりなのになあ。旅館の孫娘は命拾いだ。まったく、可哀想によう」  <旅館の娘>という言葉に、私の意識が敏感に反応した。旅館の娘とはゆみのことだろうか。  老爺の話はとりとめもないものだった。愛想良く言葉を返そうと思っても、適当な話題が見当たらなかった。この神社の荒れ具合が何より気にかかってはいるものの、答えを聞くのは相当に恐ろしい。  ほどよい笑顔も造りきれないうちに、私は老爺へ質問した。  「あの。・・・・・・こちらにはお一人で住んでいるのですか?」  老爺は視線を私の右目から左目に移したあと、突然表情を無くして背を向けた。その冷厳たる背中からは、どんな応答も帰らぬに違いない。  つかの間、私は老爺の痩せた貝殻骨を見つめてのち、踵を返した。途端、老爺は、誰にともない調子で、山に向かって少し大きな声を出した。  「今度の日曜日、夜は危ない。外に出たら危ないぞ。またあれをやる。ひどい話だ、ほんとに、ひどい話だ・・・・・・」  振り返って見た老爺の背は、相変わらず何かを拒んでいた。ただ私に何事かを伝えようとする意思は、ぼんやりと見えるような気がした。  今度の日曜とは二日後のことである。  老爺の言葉には後味の悪い残像があって、無意味な字句の欠片だったそれらは、時の経過とともに何やら不穏な虚像をゆっくりと築いていった。ついには形を成し、老爺の戯言はその夜の悪夢へと変化した。夢に現れたのは醜怪な合成獣である。全身から黒煙を吐き出しながら、無数の顎で村人すべてを食い殺した。私も追われて、ついには左腕を食い千切られて目を覚ました。目覚めても左腕に感覚がない。敷布団から大きくはみ出し、固い畳の上で寝ていた私の下敷きとなって、左腕は血流を失い、痺れて冷たくなっていた。この出来事にも、私はひどく暗示を覚えた。  翌日も、目覚めてすぐに出掛けた先は、あの荒れ神社である。  旅館の娘を除けば、はじめて接触のもてた村民なのだ。この村の秘密が訊けるとすれば、あの老爺しかいない。  急ぎ、勇んで訪れてはみたものの、荒れ神社に老爺の姿はなかった。茅舎の玄関で声をかけても応えがない。  曇り硝子の格子戸は半ば開いたままだった。声をかけつつ、隙間から体を差し入れて玄関に侵入した。意外に片付いた屋内にも老爺の姿はない。玄関の右手が客間として間仕切られ、天井まで積み上げられた何かの木箱が、傷んだ畳を撓ませている。左手の二間の奥に、老爺の万年床が見えた。不穏であるのは、その枕元に黒錆びた散弾銃が立てかけられて、掛け軸も置き物もない床の間には、酒瓶に混じって爆薬らしき束もある。どちらも本物なら、老爺は相当に危険な人物である。  手前の一間の角が雨漏りで腐り、畳と床に大穴を開けていた。黒々と暗い穴からは、土と黴と老人の臭いをゆらゆらと立ち昇らせている。  私は諦めて荒れ神社を出た。  そのまま帰る気にもならず、老爺の帰りを待つつもりで、付近を徘徊した。  私は未だ立ち入ったことのない山路を歩んだ。  神社からさらに山深くへ入る路は、舗装が酷く傷んでいて、陥没とひび割れが人の進行を拒んでいる。  そこだけ森の開けた広場があるかと思えば、どうやら放置され、墓参するものもない墓場だった。雑草の中に墓石の残骸が見える。こぼたれた、並ぶ小さな六地蔵に向かえ入れてもらい、石畳の道を進むと、組まれた石垣の台座に突き当たる。その脇の、破砕の跡も無残な石碑に趣きを感じて、私はスケッチブックを開いた。  薄曇の空の明りは、鉛筆の黒と画紙の白を鮮明にして、私の描く線たちはいつもよりひときわ力強く躍動するのが見えた。  折角没頭していたところに、場違いな音が私の集中力を途切れさせた。  「?」  すぐそばで梟が鳴いている。  夜に鳴くとばかり思っていたその珍しい鳥を一目みようと、私は手を止めて、背後を振り返った。  「おっ」  石組みの台座の上、砕かれた石仏の前に、四、五歳の少年が神々しく立って、私を見下ろしていた。梟は少年の鳴き真似である。少年の顔に、仏心にのみ宿るとされるアルカイックな微笑を、そのとき確かに感じたと思った。  しかし、それも刹那のことで、驚いてよろめいた私を見て、少年が笑った。  「うふふ」  利発な子供のようである。端整な顔立ちは母親の遺伝だろうか。子供は台座から降りてきて、私の絵を覗き込んだ。伸びすぎた栗色の前髪を煩わし気に掻き分けるのが癖である。腕組みして眺めた後、絵を褒めてくれた。  子供が苦手な私でも、この少年との会話は愉快なものだった。子供といっても、基本的な思考は大人と変わらない。経験や知識が少ないだけで、なんら大人に劣る部分はないのだ。ただ幻想を信じ、愛好するという以外には。  石仏に攀じ登ろうとする少年に、私が注意すると、少年は不思議なことを言った。  「これは僕の神様じゃない。僕のはもっともっと、すごく大きい」  ではどのくらい大きいのか、と訊いたら、少年は山よりも大きいと答えた。  興味を覚えて、私はあれことなく質問を続けた。  少年の話は異様なものである。  内容を要約すると、異教の神の話だった。異国の神話である。恐竜のまだ生きていたころに、他の星から落ちてきて、大怪我をした。怪我を治しながらいつかまた星に還る日を待っているらしい。神様の身長は百メートルもあって、七年に一度目を覚ます以外は寝てばかりいる。  「教会はあるの?」  と訊いた私に、少年は驚くべき回答をくれた。少年は小さな指で鴻館の方角を指差しつつ答えた。  「あの山の、地面の下」  それ以上の詳細を少年は知らなかった。少年の情報はすべて両親からもたらされたものであり、事実の見聞体験はない。  その後、私は少年をモデルに、馬に乗った中世欧州の兵士を描いた。少年はその絵をとても欲しがってくれたが、私は仕上がりが気に入らず、明日またこの場所のこの時間、完成画を渡すと約して別れた。別れ際に、少年はポケットから赤いガラスの破片のようなものを取り出して、私にくれた。よく見ると、五、六つぶの、石榴の実である。  少年の話は風邪のウイルスみたいに私の体に侵入して不快感を残した。  私の宿泊する鴻館を指さし、少年は「あの山の、地面の下」に教会があると言った。私の探している「地底の寺院」のことだろうか。それにしても少年の話は、私の持っていた「地底の寺院」の印象とはまったくもって整合せず、違和感が巨きすぎて類推の余地もない。  日本にも各地に「でいたらぼっち」なる大入道の伝承がある。それが神であるか妖怪であるかはともかく、我々の文化や宗教観にうまくとけ合っていて、ごく自然に畏敬の念をもつことができる。ところが少年の言う巨大な神は、そもそも異星人で、白亜紀から地底で眠りつづけていることになる。それが一部の私的な解釈であるとしても、神話に加えられた具体性は、私には馴染むことがない。  老爺に遭うことは諦めて、私は早々に旅館へ戻った。  絵を仕上げるためスケッチブックを開いた。  少年の顔がうまく思い出せない。  次の日も、旅館の土産物売り場で買った焼酎を持ち、再度、荒れ神社の老爺を訪問した。  やはり不在である。引戸の開き具合や、寝床にできた掛け布団の皺の形状が昨日の記憶と符合する。帰ってきてすらいないのだ。一体どこに出かけているのやら。  玄関先に焼酎と画紙を破ったメモを置き残すと、次は少年に会いに向かった。  墓地の廃墟ともいうべきその場所を訪れると、少年はすでに私を待っていてくれた。  少年がモデルの完成した絵を渡すと大袈裟に喜んだ。簡易な水彩で着色した絵には、数箇所、僅かに空白がある。少年はどうやらその空白が気になるようで、絵の具を貸してくれとせがんだ。ではまた明日に、と私が言うと少年は、  「明日はもうない」  と怖いことを言った。  その訳を尋ねると、今夜どこか遠くに行かねばならず、だからこの絵を母親にあげたいのだという。  「お母さんが寂しくないように、僕のことを忘れないように」  続けて少年が呟いた。  「お母さん、一人ぼっちになってしまうんだ」  何事か事情があるらしい。私は声に詰り、言葉にも詰り、それ以上何も聞けなくなった。  私は少年に待っているよう告げて、旅館まで慌てて携帯用の絵具パレットと筆をとりに帰った。  墓地跡に駈け戻っても、少年がいなくなっている。私は少年の絵を出来る限り細緻に仕上げながら、少年を待ち続けた。少年は還らない。  夕暮れまで待ったが、墓地跡に少年は来なかった。やむなく諦めて、一段高い石組み台座の、目立つ場所に絵を置いて、石仏の破片を重しに乗せて、墓地跡から出た。  疾病からくる悪寒にも似た後味の悪さに絡み附かれて、旅館には帰る気にもなれない。  荒れ神社を尋ねると、老爺の方は戻っていて、所在なさげに山の彼方をぼんやり眺めているところだった。手土産が効いたのか、声をかけた私に、人替わりしたように機嫌よく応えて、黄色い歯をみせながら手招いた。  「おお、また来たのか。坐りんさい。街まで買い物に行ってたんだ。今戻ったところでなあ」  納屋に置かれた丸テーブルを挟み、一対の破れたパイプ椅子に腰掛けると、私は老爺と向かい合った。私の持参した焼酎を、茶渋の残る欠け茶碗に注いでくれた。老爺自身は、小さなキャップに器用に注いで、一息に飲んだ。  少年から聞いた重く暗く悲しい言葉が尾を引くせいで、私は何も質問できずにいる。  結局、無意味な雑談で話は終わった。  それでも最後に、老爺はまたあの言葉を繰り返した。  「今日は早く帰れよ。夜は絶対外に出ちゃいかん。今日はあれの日だ。またあれをやる。松本の倅も気の毒に。まだほんの子供なのに。本当に気の毒だ」  これでやっと、私も質問できる。  「一体、何の話ですか?」  「儀式のことだよ。連中は夜祭などと言ってるがな。なあに、生贄といったって殺されるわけじゃねえはずだ。裏世界の神官たちは、今は数が少ないから、血が濃くならないように表の住人の血を欲しがるんだ。あんな化物たちのあいだで、・・・・・・松本の坊主が可哀想だ」  「待ってください。生贄とはなんです? 誰か子供が生贄になると言われるのですか? 神官とは何です?」  急き込んで尋ねた私に、老爺は沈黙で応えた。驚いたような大きな眼で、瞬きもせず私を見つめて、何か言いたそうな鬚まみれの下顎だけが蠕動する。老爺はふいに立ち上がって、ようやくものを言った。  「もう暗い。夜が来た。あの靄をみろ。あの山からだけ下りてくる。熱をもってるんだ。熱源が何か、それが問題だ。あれを見ると、儂は怖くて堪らないんだよ。儂は無力だ。何にもできん・・・・・・お前さんは、もう帰れ」  そう言って、老爺は茅屋の中に消えた。黄色い行燈の灯が、屋内に燈るのを見て、私は荒れ神社から出た。老爺が指さした「あの山」とは、鴻館のある山である。  歩く脚に纏わり付く乳白の靄は濃密で、ともすれば道路を見損なう。やがてすぐにも、西の空に残っていた日照が消滅し、夜が来た。外灯はまれであり、路沿いの家屋の窓にも、明りは少ない。遠くの潮騒が騒々しく聞こえるほど音の無い路を、私は急いだ。左てに横たわるはずの岩取川の水面で、何か大きな生き物が跳ねた。  私は、木の間ごしに小さく瞬く、緑色の門灯を目指して、夢幻の道を歩いていく。  旅館神居島の、どこか侘しげな印象をもつ冠木門を潜り、一際の無人さに打ちのめされる思いで、入口の引戸に手をかけた。  誰もいないロビーに、晧晧と輝く蛍光灯の照明が、何故か私の気分を滅入らせた。  旅館の部屋に残っていたナツメ球の茶色い光は、耐え難い寂寥感をもって私を迎えた。もはや帰ろうかともふと思う。  幼少のころ、両親から離れ、祖父母の家で一人眠る心細さを、私は思い出していた。悪夢を懼れる為に、長く暗い夜が一刻も早く去ってくれることをひたすらに願う子供の苦悩は、慰撫できるものがひとつしかないのだと、今は明確に理解している。それは持たぬものには残念なことに、両親の肌の温もりなのだ。あの墓場の少年は、そんな辛い夜を、今後長く耐えねばならぬ。  しみじみ人の世の悲哀を想っているところへ、間もなく「ゆみ」が現れて、私の気分はあっさり一変した。私の信仰する女神は彼女に違いない。少年にもいつかは彼女のような存在が現れて、幼少時代の哀切などすぐにも忘れ去るだろう。  食事の配膳を済ませてから、ゆみは私の隣に足を崩して坐った。私が驚いていると、  「これはお店からの贈り物です。誕生日の」  ゆみはそう言って、膳部から酒の徳利を取り上げた。  私には二つ名があって、旅館の台帳には絵描きの名と生年月日を記帳した。絵描きの名の生年月日を見たのだろう。だが正しくは明日のはずである。このまま一緒に、その明日を迎えてくれるということなのか。酒は飲めないと伝えてあるのに、無理やり酔わせるつもりらしい。酒好きの人間の横着な思考である。  理由はどうあれ、彼女が長く、身近にいてくれることは愉快だった。他愛も無い話をして、彼女の肖像画の進行具合を見せて、しだいに私は酔いを深めた。ただし、ゆみに対しては確かに酩酊しているけれど、私自身はさほどに酔ってもいない。何故なら、酒の嫌いな私は呑んだふりをして、ゆみの目を盗み、注がれた酒を鍋や吸い物の中に捨てている。逆に彼女を酔わせようとするが、酒に強い彼女は酌をする度にあっさり飲み干して、顔色一つ変えなかった。  ところが、深夜を過ぎたころふいにゆみの声がながく途切れた。見れば、頬杖をついて眼を閉じている。どうやら眠ったようである。私はこの静かなひとときに得難い充足を感じた。  もっとも、至福の時とは常に長くは保たない。ゆみの幾分肉厚な唇に点るハイライトにみとれていると、彼女の眼が薄く開いた。  「うふっ」  と、ゆみは笑って、何事か、私の脚を強く握った。寝ぼけているのか、酔っているのか。  睡魔に耐えられないといって、ゆみはよろめきつつ、部屋から出て行ってしまった。  途端に部屋は沈黙し、寒くなった。その反対に、私の気分は高揚して、眠れるはずもない。  暗い奥の間の、敷布団の上に大の字になり、天井板に網膜に残るゆみの映像を投影する。だが、眼を閉じて、記憶の扉が開放されると、最初に出現したのは、墓場の少年の端整な顔だった。彼の言葉を思い出して、私は忽ちまた悲哀な感情に覆われた。  体を起こし、スケッチブックに残される少年の絵の下書きを眺めながら、彼の言葉を思い出す。なかでも、  「お母さんが寂しくないように、僕のことを忘れないように」  この言葉は、私の心を絞り上げた。  ここでようやく、私の記憶の断片が、唐突に連鎖をはじめた。  老爺の話によれば、松本という家の小さな子供が何かの生贄に差し出されるらしい。この家は先に海で父親を亡くしたといっていた。この話は、墓場の少年の話と全くもって一致する。少年の名前は健斗と訊いた。氏を知らない。彼が松本健斗だったのか。  してあげられる事や、できる事などは何も無いとしても、この考えは、私の心を痛撃した。まるで私の過失によって、この悲劇が起きてしまったかのように。  私は何故か、一人の部屋にいたたまれずに、旅館の暗い廊下へと彷徨い出た。やるかたない想いが、すぐ後からついてくる。物干し台に出て、晴朗な夜空に歪な月を見ても、一向に気持ちの晴れることはない。  手摺に肘をついて黒い地面を眺めていると、寒冷な夜気の中に不気味な音を捉えた。  「?!」  抑揚があり、節がある大勢の人の声。経文の声明である。  咄嗟に、私は少年と老爺の言葉を思い出した。  「明日はもうない」  「今日の夜に儀式がある」  あの声明の出所に、少年がいるだろう。  私は寸刻も迷わず部屋へ駈け込み、黒い上着を纏い、替えの靴を持って、物干し台に戻った。かつて深夜に大勢の足音を聞いて以来、計画していた行動を、ついに今夜実践するときが来た。物干し台の端に、雨水の配管がはしっており、それをつたえば地面に降りられる。入口には、きっとゆみの祖母が待伏せている。彼女たちは今夜の出来事の共謀者である。そう思えば、何故ゆみが一日早い誕生日を祝って、無理に酒を勧めてきた理由に合点もいく。  庭園に下ると、旅館の一階にはまだ明かりが残っていた。裏庭に面した通用口の脇に、楕円の飾り窓があって、そこに華奢な人影がある。顔を洗っていたらしい人影は手拭で覆った後、その蒼白い顔を窓に映した。眠ったはずのゆみである。幾分張らした瞼と鼻の頭が桜色に染まっている。泣いていたのだろう。悲しみに霞む彼女の姿に、私は魂を捻られるような苦痛を覚えた。  彼女の顔は私に向けられていた。だが、彼女の観ていたものは、ガラス窓に反射する彼女自身の顔である。私の姿は彼女には届かない。これも予兆というなら、私がどれほど彼女を想っても、無駄ということであろう。  夜闇の満ちた森の地面に降り立って、蒼波と白々しい月光のみを頼りに、声明の音を辿った。声は風に流される羽虫にも似て、反響して漂い正しい方角がつかめない。迷った挙句の偶然で、私はその音の源を見出した。  隆起した巨岩に、いとおしげに抱かれるのは、大きな倉庫様の、不気味な建物だった。  傾斜の緩やかな切妻屋根には、触角のような尖塔を幾本も不規則に生やしている。不安定な箱型の建造物で、壁に埋め込みの常夜灯が虚ろな光を密かに洩らしている。  大勢の声明は、その内部から、破鐘を乱打するがごとく、幾万の蝉の絶唱のごとく、不気味な抑揚と音階をもって、私の意識を竦ませた。読経ではないだろう。私が知る限りの、どの言語とも異なり、どころか、言語であるかどうかさえ、あやしい。  それは人類、あるいは生命の起源にまで遡る、原初の遺伝情報に焼印された絶対的で圧倒的で、どうすることも出来ない畏怖の記憶に違いない。私は能動的な気力を奪われ、なによりその禍々しい気配にもすっかり恐怖して、潅木の陰からこっそり見ていることしかできない。  声明は不意に止んだ。  最後に一度だけ、低い波長の重苦しい鐘が鳴らされた。  その後、微かに聞こえたのは、大勢の人のひそひそと話す声。子供泣声、笑う声。  やがて人の気配が完全に無くなった。  まてども音は還らず、人の姿も現われず、黒い大きな建物は沈黙を続けた。  中の人々は、一体どこへ消えたのだろうか。  私はもはや、ここまで来た目的を忘れ、動機となった感情も冷え切って、ただ闇の中の忘れ物のように、まったくの異物でありながら、山の木々が折り為す暗い影の一つに成り果てている。諦めて、帰ろうとして、一歩後ろに身を引いた。そのとき、私の脚が鳴子の張り糸を踏んだ。  からからと木片が騒々しく鳴った。  すぐ眼前の木陰から、音を聞いた見張りらしい人影がぬっと姿を顕わして、私の方を振り返った。  幸い、恐怖に震える私のことを、見張りは暗くて認識できないらしい。見張りが興味を失くして、建物の影に消去るのを待って、私は旅館にひき返した。  月明かりを透かして、よくよく注意して見ると、鳴子の張り綱は意外に多い。ただ老朽してほとんどが千切れ、本来の目的を果たせなくなっているだけだ。  旅館の暗い部屋へと密やかに戻り、スケッチブックを見下ろして茫然とする。私を行動へと駆り立てた情動は消えていなくなった。少年の救い主が消えたのである。  やがて、村人達が自分の住処へ戻る足音を、私は無感動で聞いた。  明け方近くになっても、私は眠れない。
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