13 petal chrysanthemum
絵描きの遺書(後)
 翌日午後も遅く、廃墟の墓地を訪れて、少年の姿を探してみても、彼の愛らしい小さな影はどこにもなかった。  この先の橋を渡ってすぐのところに家があり、母親の出かけている日中はいつもここで遊んでいると言っていた。少年の言葉が間違いでないならば、もうここには来ないはずである。  場内のほぼ中央の、石垣の台座に、昨日置いた絵は無くなっている。替わりに、そこにあったのは、傷んで割れた、林檎に似た薄赤い果実のひとつ。石榴の実である。  それは健斗少年からの、別れの挨拶に違いない。石榴の外皮の十字の割れ口から、硝子の欠片に似た赤い果実が密やかに収まっているのを見て、私はこのとき、初めて心が泣くという体験をした。  石仏や墓石の中で、それら永い時間の沁みこんだ世の傍観者たちに、やさしく育まれていた少年は、実体を失った今もなお、永遠の一人遊びを続けているように思える。  少年の意識は、まだここに、確かに残留しているのが、私にははっきりと見える。  私は自分のあまりな無能さに絶望して、長くその場に立ち尽くした。  私の魂魄は、この苦痛を和らげるかも知れない答えを探して身悶え始め、その果てに、ごく自然な帰結として、ひとつの思考に辿り着いた。  (もう一度、あの場所に)  と、そんな考えが私の中に密かに芽生え、心の中でその計画の詳細を推考すると、意外に簡単に回答を得られるかも知れないという思いが優位になった。むしろ日輪の保護のある今しか、行動のときはないだろう。  行くのなら、今しかない。  足早に旅館神居島に戻って、鴻館の長大な煉瓦塀に沿いながら木の間隠れに物干し台へと回りこんだ。昨晩のこと、ここから始めて、どこをどう歩いたろうか。色彩のある景観は夜の影とは一向に符合しない。古い井戸があって、その傍に傾いだ祠を見たと思う。広遠な、石畳の邸内を巡る遊歩道。小さな池と、舳先を残して半ば沈んだ、幾艘もの手漕ぎボート。入口もなく、用途の知れない円形の西洋館。長い渡り廊下を潜ったようにも思う。  私は建物や景観を見る事を止め、足元に鳴子を探した。  すると私は見つけたのである。  三方を巨大な岩の隆起に囲まれた、この木造の黒い建物が、深甚と冷たい静寂の夜、夜よりもさらに暗い漆黒の中で、村人が集い声明を唱えていたあの場所に違いない。鴻館全容における明確な位置配置がいまだ不明瞭で、確証はないとしても、音声をたよりに、もがきつつ辿り着いたあの場所のはずである。  西洋の教会を模した箱型建造物の意匠には、ひとつの明瞭な忌まわしい特徴があった。他の誰が気付かないとしても、私には判る。私なればこそそれが判るのだ。木漏れ日を受け、いま全容を曝している不気味な外観は、地底の寺院の特徴を随所に備えている。あるいは地底の寺院が、もし仮に想像の産物だったとしても、間違いなくこの建物が、モデルであることに疑いの余地はないと思われた。  容貌はことさらに恐ろしかった。巨大な棺を思わせる建物に、四脚のテーブル状の建造物を重ねたような複合の構造で、脚は鐘楼を備えた尖塔をなし、陸屋根の中央には、一際巨大な尖塔が天を突き、それを取り巻くようにして、小さな尖塔が乱立する。洋式な瓦とタイルが、まるで魚の鱗のようにうねり渦巻いて波打っていた。全てが瀝青に覆われる外装は、光を返さない。大きな墨色の正面入口を顎門とするなら、その上に並ぶ二つの丸窓は双眼であろうか。左右の尖塔部に、四枚づつ並んだ細長いステンドグラスの窓は、大地に爪をたてる前脚と見え、いましも飛び掛らんとする巨人の姿を連想させた。  ステンドグラスの上部はみな砕かれていて、華やかな彩色で描かれた聖者達には首がない。その穴から覗かれる構内は、やはり今なお闇である。  私は注意深く辺りに人がいないことを確かめて、建物の外周を巡った。小さな明り取りが上部にあるのみで側面には窓も入口もない。岩壁と建物の壁面との狭い隙間を、上着を擦りながらすり抜けると、裏側に扉を見つけた。裏扉は岩壁を向いていて、敷石を辿るその先には、風穴の入口が暗い闇を覗かせていた。  風穴は、太い鉄格子の門に固く閉ざされていた。ただ岩壁は傾斜しているので、門扉を攀じ登れば、上部のすき間から侵入は可能である。  私は躊躇うことも、恐れることもなく、暗黒の風穴へ侵入した。  片時も肌身より離したことのない鍵束から、ペン型のライトを探して足元を照らした。  どうやら、大戦中に造られた退避シェルターのようである。岩肌を見せるのは、入口周辺のみで、地下深くへ降りていく階段は、床も壁もコンクリートで固められ、街中によくあるビルの非常階段と変わりない。  永く永く続く階段を、一体何階層まで下ったろうか。階段は唐突に終わり、鋼鉄の門扉が現れる。閂に吊るされた大きな南京錠は、引っ掛けてあるだけで施錠されていない。  私は静かに、その門扉を開放した。  闇の中、現れたのは通路である。天井はアーチ状で、壁面には朱の塗装跡が残る。照明さえ燈っていたら、街の地下道と大きな違いはないものだった。扉のない小部屋が覗かせる暗黒の室内に、年号の異なる過去の新聞や、如何にも古々しい刻印の打たれた木箱が、散乱したまま静かに朽ちている。ふとすれ違う生暖かい風には、かつて嗅いだこともない悪臭が含まれていた。  迷路状に錯綜する地下道を、私は床に残る足跡を辿って、深く深く侵入していく。進むにつれ、気温は除々に上昇し、やがて首筋を汗がつたうほどになった。恐怖は私のすぐ背後を息のかかるほどの距離でついてきている。振り返れば忽ち囚われて、私は悲鳴をあげて駈け戻ることだろう。私は恐怖から逃れるために、意識から遠ざけるために、ひたすら歩きつづけた。  唐突に、出し抜けに、私の想定の範囲を遥かに越える形で、それは現出した。  地下道の果て、開け放たれたままの扉の向こうに現れたのは古い街の廃墟である。  昭和初期から中期までのごく和風な建築様式の特色をもち、トタンのバラックや継ぎ接ぎだらけの小屋が目立つ中、石造りの洋館も煉瓦造りの倉庫もある。風化して乳白色の帳の降りた無人の街が、相当規模で地下空間に続いているのだった。  家屋の一つの、割れて濁ったガラス窓の隙間から屋内を覗けば、生々しい生活の残存物が、屍骸のような印象をもって置き捨てられている。変色した八十年前のカレンダーと、動きを留めた振り子の時計が、その空間の停泊を司るかと思われた。土間に倒れた三輪車に、片方だけの小さな長靴が押し潰されている。それらの所有者であったろう子供の、不穏な行方と結末の謎が、廃墟に籠る暗闇に膠着して蠢いているのが感じられた。使い古された家屋に残る濃密な人間の臭気は、歳月の年輪が幾重にも積み重ねられたことにより、琥珀のように結晶化して永劫に封じ込められているのだ。  大戦中に用意された大掛かりなシェルターか、若しくは防空壕の内部にいっそ街を建造して、そこで暮らした痕跡なのか。傾いだ家屋に這う錆びた配水管と、ぞんざいに束ねられた電線が、家々を繋ぎ捕えていた。道路には下水管の痕跡も見て取れる。ここでの実際の生活があったとして、果たしてその目的と意義は何であったのか。こんな暗黒の空間に、家を建て棲まねばならないどのような理由が存在したというのか。廃墟の街は口を閉ざし、私には何も語ろうとしない。  ただひたすらに足跡を辿り、私は更なる深部へと足を進めた。  ペンライトの弱い光が照らし出す僅かの範囲のみが、私の存在を赦された唯一の空間であり、ともすれば、私の肉体はすでに闇の虚空へと溶解しつつあるような気もする。  岩地に敷かれた玄武岩の石畳を歩いた。  地底を流れる川に架かった太鼓橋を渡る。  地底の空間は除々に狭くなり、やがて岩のトンネルに姿を変えた。  天井や壁面に崩落の跡が残る一際狭い通路を抜けると、また空間が突如として広大に開けた。  ここで、ついに、私はそれを発見した。  暗黒の中、巨大な建造物のすべてが窺い知れるわけではない。けれども私には、その全貌が闇の虚空に明らかな質量をもって浮かび上がるのである。  西洋の異教の寺院を、和式の建築で歪に不健全に模倣したような造形。柱や壁の台座辺りに刻まれる浅浮き彫りには、不気味な人型で象形がなされている。  これこそ、狂死した画家が最後に書き残した絵の対象物。私の心が囚われて、この村を訪れるきっかけとなった「地底の寺院」に間違いない。絵と異なるのは、絵には描かれていた幾百もの灯篭や篝火に明かりのないことである。先に地上で見た教会の、何倍もの大きさを備え、暗緑色の濡れた石で築かれている。  私は興奮のあまり恐怖心をすっかり置き忘れて、地底の寺院の内部へと侵入した。  扉の無い入口を入るとすぐ、一段高い板敷となって、闇の色に塗り潰され、果ても見えずに広がっている。畏怖を感じるほどに太い石の円柱を幾本も避けて進むと、前方に、不気味に揺れ蠢く白いものが現れ、私を怯えさせた。  恐る恐る近づいてみれば、それはただ、風をうけてゆらゆらはためく白い布であった。一メートル幅のシルクに似た繊維で、遥かな天井から隙間無く垂らされ、視界を遮っていた。深海に漂う大王烏賊の足のように、見えない空気の揺らめきを捕えて、それを映しているのだ。  気温はいよいよ高くなり、胸元を汗が伝う。濃密となった化学薬品を連想する悪臭は、私の肺胞を痛めつけた。  この白い帳の先に果たして何があるのか、私はいよいよ核心に迫ったのだと気がついて、手足の震えを押えることもできない。  痺れて曖昧な指先で、濡れて不快な感触の白布を掻き分け、私は奥の結界へと侵入した。  さらにまた、広大な闇の宙がそこに現われた。  ふと見上げれば、手の届きそうな虚空に、巨きな巨きな白いものが浮かんで見える。  暗さに慣れた私の視力は、ペンライトの脆弱な明りでさえ、もはや多くの物象を読み取る事が出来る。正面の白い巨大な塊の全体像を、脳が組上げた瞬間、私は声の無い悲鳴を放ちつつ、仰け反るように倒れ込んだ。  巨人である。  頭部の直径だけでも十メートルはありそうな、白い巨人が倒れている。  恐怖が少し収まって、細部を仔細に観察してみれば、生きてはおらず、生物ですらない。ただの張りぼてである。木の骨組みと、恐らくは帆布で造作された巨大な人型であった。元は、奥の岩壁に凭せ掛けて坐らせてあったものが、腰の支柱が折れたがために、前に倒れて四つ這いの有様である。人型をしてはいても、顔は無く、掌や足も造作されず、ただ布の口が鎖で結ばれていた。  なんのことは無い。  人の造る神とはこんなものだ。一般人には馴染みの少ない、閉鎖された地域の、ごく限られた住民だけに信仰されてきた異教の神の、木と布で出来たご神体に過ぎない。私は立ち上がって、今度はしっかりと巨神像を観察した。  それにしても、この細胞の怯えは何事であろうか。正体が知れて、心が落ち着いたいまでさえ、肉体は恐懼を続けて、震えが止まない。  私は大きなのっぺらの顔を仰ぎ見、巨人の張りぼての胸から腹の下へと歩みいった。  巨人の像の、丁度下腹部の辺りに、壁のない紅い小屋がある。その先はまた岩の壁で、漆黒のトンネルが口を開けているのがぼんやりと覗えた。  小さな小屋に歩みより、何気もなく中を覗き込んで、私は跳び上がるほどに驚愕した。  木板の床に、大の字になって寝ている子供がいる。  「健斗!」  それはまぎれもなく、墓場の少年こと松本健斗に違いない。  慌てて駆け寄り、もう一度声をかけた。  「健斗くん! おい健斗くん! 大丈夫か!」  少年はゆっくりと眼を開けてこちらを見た。私はペンライトで自分の顔を照らしつつ話しかけた。  「私だ! 絵描きのおじさんだ! 判わかるか?」  健斗少年は私が誰か気付いたらしく、このとき生涯忘れることのできない神奥な微笑を私に見せた。その笑顔が、彼と私の運命を結束し、決定付けたのである。  私は少年を抱き上げた。少年の意志がどうであれ、理由が何であれ、このまま放置することなどできるわけがない。私自身のまことに勝手な、強固な不屈な意志として、少年を保護しようと決意した。  「!?」  今しも立ち去ろうとした刹那、背後の洞穴に人の声を聞いたように思った。  振り返り、ライトの光を向けると、洞穴の入口に蒼白い人影があった。十歳ほどの少女である。白い着物に長い黒髪が垂れて、顔のほとんどを隠している。着物からのぞく肌はなお白く、いかさま幽霊じみて見えた。  私は恐怖に襲われるその前に、一散に駆け出した。  「やああああ」  背後で少女が、不気味な声をあげた。  広大な地下空間を片時も休まずに駆け抜けた。  健斗少年は、私が躓いて転びかけたとき、くすりと笑ったきりで、大人しく抱かれたままでいる。  必死の思いで辿り着いた地上はすでに夕刻だった。  薄暗がりにまみれ、少年と共に森の中に逃げ込んだ。  夜闇を待つ間、私は健斗少年に、  「お母さんと一緒に、ここから逃げよう」  そう告げてみた。健斗少年は清清しい笑顔になって、はっきりと頷いた。    少年を背負い、その上から外套を羽織って少年を隠すと、夜闇の森を密やかに駈けた。  鴻館の高い煉瓦塀を苦労して乗り越え、山伝いに集落を避けるのは容易なことではない。冬枯れの山林の中、ぼんやりとした月明かりのみでは獣道すら探せず、村落に燈る僅かな照明を頼りに長い時間をさまよった。難関は川を渡らねばならないことだ。あの危うげな木製の吊橋を渡らなければ、目的地に辿り着けない。私が逃げ込もうとしているのは、荒れ神社の茅屋に住まう、如何にも偏屈な老爺のもとである。  母親に返すかとも考えるが、信仰心からとはいえ地下空間に我が子を放置するような母親である。連れ帰ったときの反応が予測できない。当の健斗少年は眠っているようでおとなしい。わずか四、五歳の少年が、母親と離れ、暗黒の地下空間に捨て置かれる不安はいかほどのものであろうか。少年が私の背中に無くした父親を感じ、安らぎを覚えているかもしれないとの想像は、私の心を潤ませ、この哀れな運命の少年を、万難を排しても救出しようとの決意を新たにさせた。  必死の思いで見つけた吊橋に接近し、それでも長い時間物影に隠れたまま、辺りの気配を覗って息を殺していた。山中では暗くて頼りなかった月光が、今この瞬間は疎ましいほどに明るいと感じる。背中に少年を隠した私の姿が、月照に曝され、村人に目撃されることが恐ろしかった。  逡巡に囚われ、迷い、迷った後に、手負いの獣のごとく細い吊橋を駈け抜け、勢いもそのままに、荒れ神社の老爺の茅屋へ飛び込んだ。  私が何より安堵したのは、老爺がいてくれたことである。  「おお、あんたか。どうした?」  私は息が乱れて話すこともできず、物も言わずに上着を脱いで、背中の少年を老爺にみせた。  老爺は少年の顔をのぞき込み、長い間沈黙を続けた。私の背で穏やかに眠る子供が誰なのか、どういった状況なのかをゆっくりと、ぼんやりと理解して、その場に腰を抜かして座り込んだ。  「げえっ! そ、その子供はもしや! もしや松本の、健ぼう・・・・・・かっ!?」  私は深く頷いて、老爺の次の句を待った。老爺の表情を注視して、彼の心の動きを見逃すまいとした。老爺の言動しだいでは、私と健斗少年は窮地に立たされることになるだろう。  長い沈黙がさらに続いた。老爺の荒く乱れる鼻息が、彼の心の混乱を伝えている。  老爺はついに言葉を吐いた。  「やるか」  血眼をぎりぎりと見開いて、言葉で自分を鼓舞するかのように老爺は繰り返した。  「やるかっ!」  何をやるのかは解らない。だが、私はその決意に打たれて大きく頷いた。  老爺は部屋の床の間から鉱工業用の爆薬の束を取り上げると、私に突き出した。興奮した、思いつめた口調で、老爺がこれからすることを語り始めた。  「あそこを見ちまったんだな。じゃあもう後戻りはできねえぞ。儂はな、元発破技士だったんだ。だからこういったものの扱いには慣れてる。いいか、段取りとしちゃこうだ。あんたはこれから穴に戻り、最深部の・・・・張りぼての股座に穴があったろう。あの穴の突き当たりに煮立った地底の湖がある。そこだ。そこが最深部だ・・・・そこの入口にある石柱にこれを仕掛けるんだ。一番太いやつがいい。大昔に木柱を差し込んで門を構えた跡が残ってる。その穴にこいつを仕掛けるんだ。仕掛け終わったら、この爆薬に雷管を仕掛け、ケーブルを張りぼての下まで延ばす。そこまで逃げたら、起爆するんだ。お前さんがやるんだぜ。儂はもう怖くて行けねえんだ。だからお前さんがやるんだぜ。最初の爆発の音を聞いたら、それからきっかり十分後に張りぼてのある地下の寺もふっとばす。・・・・いやいや、そいつはお前さんがやるんじゃねえ。儂がやるんだ。もう何年も前に、何年もかけて儂が仕掛けて隠した爆薬があるんだ・・・・その後またきっかり十分後には、第一層の地下街を儂が爆破し、さらにその十分後に、入口の全部を儂が爆破する。ひとつだけじゃない。幾つもあるからな・・・・健斗? 健斗の母親か? もちろん連れて逃げるんだ。お前がな。松本んとこの嫁はもともとよそ者だから、根っからの信徒じゃねえ。だから大丈夫さ。  ・・・・なんで爆破するかって? 終わらせるためだ。わかっちゃいねえな。健斗が逃げたとなれば、替わりを出さなきゃいけなくなるんだよ。これで終わりじゃねえんだ。健斗の替わりの順番は、旅館の娘のゆみだぞ。お前も見て知ってるだろう。地下に嫁入りなんて可哀想だ。地下の神官たちはもう随分まえから人じゃねえ。人の姿をしているが、もう人じゃねえんだ。長い年月を地下で暮らすうち、血が濃くなって崩れていったんだ。  ・・・・神官? いや、儂が恐ろしいのはあいつらじゃねえ・・・・儂が生きて戻ったら教えてやる。全部教えてやる。だから早く行け。健斗は儂が隠す。健斗の母親も儂がつれてきて匿っておく・・・・部屋の隅のあの穴を見ろ。床下に秘密の小部屋が作ってある。あそこが入口だ。あの中に、親子を隠しとく。・・・・もう夜で表の人間が眠りはじめる。交代で地底の神官たちが眼を覚ますぞ。あと一時間、一時間が勝負だ・・・・」  老爺の話は否応ない。ひとつの決意に囚われた狂奔の只中で、我を忘れているように見えた。もっともその狂奔は、この私がもたらしたものだろう。私自身はといえば、自己の偽善的な行いが、実は何一つ解決をもたらしていないばかりか、問題を膨張させ、旅館のゆみにまで禍の影を広げてしまっていることを知って恐怖した。ゆみを救うために、健斗少年を戻す訳にはいかない。同じようにゆみを助け出したとして、ゆみは果たして、おとなしく私に従ってくれるだろうか。  この不毛の連鎖を断ち切るには、老爺のいうように地下の寺院を破壊するしかない。しかし、老爺がいう神官たちはどうなるのか。私が地下で見たあの少女は、どうなってしまうのか。黙っている私に、老爺は続けて、その危惧を軽減させる話をした。  「心配すんな。神官どもはもう人間じゃねえ。人間ではないけれども、人間に似たものを殺すのは儂だって気味が悪い。だから、本物の御神体と、やつら神官を、地下に閉じ込めるだけのことだ。二度と地上には出てこられないように。・・・・やつらは執念深い。その昔、御神体を閉じ込めようとした絵描きが自宅を襲われて、焼き殺されたそうだ。神官どもは狂ってる。やつらは海や川を伝って、御神体に悪さをしたものをどこまでも追い詰め、赦さねえのさ。だから完全に閉じ込める必要があるんだ」  私は老爺から雷管の設置法と起爆スイッチの扱いを学び、長いケーブルと背負い袋を肩にかけ、夜闇の中を密やかに旅館へと戻った。  これから自分が行わねばならない行動の結果を思うと、緊張と胴震いが際限もなく弥増していく。爆破とはどの程度のものなのか。地底に棲むという神官たちは、最深奥に住居があるらしい。底部で海と連結する地底湖の、開けた湖岸に集落を築いており、爆破するのはその集落から地上に通じる唯一の通路の入り口であって、被害影響は一切ないと老爺は断言した。  地底の寺院や地下街の廃墟、地上からの入口のすべてを塞ぐのは、村人の信仰心を断つのが目的であると、老爺は言った。時代遅れな、邪な、不条理な、往古の昔より続けられてきたとされるくだらない因習を断固終わらせるのだと。  私は恐怖心を押えるため、無心になることに努めた。日常から繰り返していて、馴れきった仕事ででもあるかのように、自分の作業の意義を失念させて行動しようと思った。  旅館「神居島」の門を潜り、玄関口を避け、建物に沿って裏側へ巡った。灯りの燈る厨房の窓際に、ゆみの姿があった。ここからでは見えない会話の相手は祖母であろうか、何事か微笑み話しながら調理にも忙しい。造るのは唯一の客である私の夕食だろう。  この一方的な邂逅が、彼女との金輪際の別れであると私は知っている。私の悲壮な行いは、彼女を救うためだけの目的をもってなされるのだと、そう想うことで、別れの苦痛に対し幾ばくかの鎮痛を得ることができた。彼女には何も知らせず、ただ去らねばならない自分の悲運は、何故か少しだけ甘美なものを含んでいる。  私は今また、鴻館の邸内を彷徨って、入口を探した。  三たびその場所を訪れて、おおよその位置が判明した。黒い教会の場所は他でもない。鴻館のほぼ中央の、もっとも標高が高い位置に隠れていたのだ。  黒い教会は夜を迎え、巨大な獣が浅いまどろみから今しも目覚めるかのような気配を醸している。洞穴の入口の暗黒は、もはや目覚めて、除々に高まっていく騒擾の波動を私に伝えている。  私は地底の寺院を目指し、漆黒の充満する暗い穴へと再び侵入した。  老爺が貸してくれたサーチライトは、地下空間の広大さを照らし出した。地下街の廃墟の果てしなさを私に見せつけた。地底の寺院の巨大さと、そのグロテスクな形状を現出させた。改めて見た張りぼての巨人像は、その大きさを更に増したように見え、私を否応なく懼れさせた。  健斗少年が仰臥していた朱色の小さな祠に、起爆用の装置を隠し、ケーブルを延ばしつつ、洞穴の深部へと向かった。異様に熱い。外部は氷点下に近い寒さにもかかわらず、洞穴内の気温は摂氏三十度に近いだろう。岩壁を濡らすほどの限界の湿度が、冬装束の私を苦しめている。  足もとの危うい、天然自然の鍾乳洞を長く下った。  やがて唐突に、広遠な空間と地底の湖が、私の前に現れたのである。  もうもうと立ち昇る湯気に、ライトの光線が遮られ、その果ては照らすことができない。副鼻腔を麻痺させる、刺激のある異臭がたちこめ、色彩も鮮やかに結晶化する鉱石が、病的な極彩の煌きを放っていた。無数の人影に一瞬たじろいだものの、それは石筍の彫像たちであって、人の模造もあれば、人の異形もある。彼らは皆、湖面に向かい頭垂れていた。  湖面に波はないが、浅い湖底より立ち登る幾万の気泡により、落ち着きなく細波を立て続けている。混沌とした原初の、生命が誕生する以前の海とは、およそこのような景観であったに違いない。さもなくば地獄とは、まさにこの場所のことである。  入口付近に留まり、それ以上奥に入ろうとはせず、私は周囲を巨細に観察した。人に似た不気味な彫像に混じり、浅浮き彫りのある柱が乱立している。その中の、入口脇にある一際太い石柱に、老爺の言ったとおり二十センチ径の穴を見つけた。もしこの柱を砕いたならば、確かにこの入口は塞がれるだろう。  私は老爺の指示通り爆薬を仕掛けた。ケーブルに接続した雷管を差し込めば、完了である。  地上との連関を永劫に杜絶され、二度とは訪れることのない地底湖を、私は今一度返り見た。さも有毒なコバルトブルーの湖水を透して、乳白の滑らかな湖底が見えている。  「・・・・・・?!」  なにやら記憶を刺戟する輪郭を、湖底の影に読み取って、私は慄然となった。肉体の方が先に気がついて、細胞が粟立ちはじめている。しばらく眺めて、私はようやくその記憶が何であるのか気がついた。  前面中央に巨大な楕円の球体。左右に対称帯状の長い曲線。底部にも帯状の曲線がとぐろを巻いている。  つい今、寺院の中で見た巨人の張りぼてと同じ姿勢をとった、何かとてつもなく巨大な物体が、湖に沈み、湖底を浅く見せているのである。  おそらくはこれも作り物だろう。ただこの規模の壮大さと荘厳さは、張りぼてなどとは比較にならない。高温多湿の靄が立ち込める中、細かく泡立つ青い水の底の、乳白色の滑らかな石の造形物は、人を承伏させるに十分なエネルギーを蓄えているとさえ感じた。  地底湖に沈む巨人像には、人心を捉えて呪縛する引力が確かにあった。  「?」  暗黒の中、青い水中を疾る一条の光線に刺し貫かれ、幻想的な印象を得た巨人像に、私が数瞬、心を麻痺させられていたそのとき、サーチライトを当てていた、頭部に相当する一箇所が黒く変色をはじめた。人間でいえば、ほぼ頭頂部である。  「!!」  私が正気を失うほどに驚愕したのはこのときだった。  変色などではない。光線に反応するかのごとく、六角形の鱗様のものが表面を不安定に蠕動させたかと思うと、黒く深く大きな穴が開くのを見たのだ。  吸い込まれそうな暗黒の虚空に、私は絶対的に観たのである。視覚野に反応するものは何もなかった。だが、確かに私は黒い雷光と明確な意思をもつ黒い視線をその暗黒の虚空に感じたのだ。  私はそれに目視されたのである。  次いで地鳴りが起きた。  一瞬、一斉に立ち昇った気泡により湖底の景観が曇った。  次に私が見たように思うのは、湖底の中でゆっくりと蠢く長大な触手である。  「・・・・・・・・」  あれは声だったろうか。  不可解な、理解不能な衝撃波が私を襲い、その場に倒れ込んで動けなくなった。  そして彼らが現れたのである。  湖岸を多数の、いまわしくも人に似た白いものが駈けてくる。私の手から離れて転がったサーチライトは私自身を漆黒の中に照らしだした。不明瞭な姿の彼らに私は襲撃された。  ライトがはじめに破壊された。暗闇に戻った地下空間で、彼らの手足が容赦なく私を打擲する。真闇の中でも彼らには明確に私の姿が見えているのだ。彼らは何事か、聞き取り難い古い言葉で私を罵倒しながら、手加減のない一撃を振り下ろす。  私は苦痛によって自己を取り戻すことができた。老爺の言葉が思い出される。  「神官どもは光を嫌う」  もし襲われたらこれを使えと渡された二本の着火式の発光筒を取り出し、点火した。  たちまち、プラズマ様の激しい光輝が暗黒を切り裂いた。閃光に懼れをなしたのか、白い人影は逃げ散った。  私もその機を逃さず、血まみれの負傷だらけの体を引き摺り、転げるようにして逃亡したのである。    *    人間に似た白い人影は、何故か追ってはこなかった。  爆破はすべて成功したはずである。  永く永く続く地震と地鳴りの中、私は健斗の母親の車に健斗とその母親を乗せて、脱出を謀った。老爺を待つ余裕も探す余裕もなく、私は計画にのみ従って行動した。  その後、村の状況が明らかとなったのは、随分と後のことである。  新聞報道などで、災害規模の全容を知ることが出来た。  鴻館を乗せていた山一つと、そこから海に向けての丘陵一帯に、大規模な陥没と崩落が発生し、主要な道路を断裂させたため、二週間、一村が孤立した。  衛星写真を見る限りでは、ゆみのいた旅館神居島もかろうじて原形を保ち、これほどの災害にも関わらず、土石流に呑まれた人家は一軒もないとのことだった。  問題は、災害を避け、どこかに避難したと推測される村民二五七人の行方が、復旧後も杳として知れないことにある。彼らはどこへ消えたのか。屋内に混乱の後は少なく、翌朝の仕度や夕餉の跡もそのままに、人間だけが忽然と消滅していたのだ。  結局のところ、どれほど大掛かりな捜索をしてみても、被害者の遺体がまったく見つからないことから、さほどの話題にもならず、低俗な週刊誌の特集を最後に、世俗からも忘れ去られた。  話題といえば、一部の幻想好きな人々だけに大きく騒がれた話がある。  村で災害の起きたほぼ同時刻、沖合いを航行中の大型貨物船が「何か」に衝突し、船体を構造的に歪ませ、操舵が不能となって、そのまま海岸の浅瀬にまで流され座礁するという事故が起きた。このとき、十七名の乗組員全員が、けっして浅くもない海を歩いて去る巨大な人影を目撃したというのだ。実際に巨人を見たかどうかはともかく、十七名のうち四名が精神に異常をきたし、今だ入院中で、なかでも奇怪なのはそのうちの一名が、母国語を完全に忘れ、誰にも翻訳できない謎の言語を呟き続けているらしく、何か、とてつもない、衝撃的な体験をしたか、もしくはしたと思っていることは間違いない。  今は私の家に、健斗少年とゆう子夫人を迎えて、家族のように暮らしている。  ゆう子夫人は、小柄だが西洋風な面立ちの美しい女性だった。常に穏やかでたおやかで、身近に花束のあるような、艶福を感じることができた。  健斗少年は相当に利発である。絵を教えると、たちまちに上達した。私などとは異なり、天賦の才能をもっている。そのせいでもないだろうけれど、他の同世代の少年と異なるところが色々とあって、夜はほとんど眠らず、一人遊びが相変わらず大好きである。  このまま、幸福な三人の生活が、永遠に続いてくれることを私は願った。  だが、少しづつ密やかに、かりそめの家庭には崩壊が訪れていたのである。  あるとき、ふと、健斗少年の言動に違和感を覚えた。  何がと問われても判らないが、普段より少し陽気で、少し饒舌になり、何かを隠しているような気配があった。さりげなく聞き出してようやく、  「秘密の友達」  の話しが会話の中に現われた。  彼の機嫌の良いときに、もう一度問い詰めると、  「秘密だから言えない」  そう答えを得た。  ゆう子夫人に訊いても、心当たりがない。  健斗少年とゆう子夫人が出かけて不在のとき、彼用に与えた小さなアトリエの中で、彼の絵を眺めていて偶然、それを見つけたのである。  健斗少年の描いた、その不気味な絵を見たとき、このところ彼に感じていた言動の謎に、一切の答えを見つけて、私は絶望する暇さえもなく、確定された自分の運命を知った。  今となっては、「地底の寺院」を描いた画家の、行動と意思のすべてが、私にはまるで自分に起きた事の様に、余すところなく理解できると感じる。彼があの村落で、地底の寺院を見つけたその後に、どのような行動をとったのかを。出版社に送ったとされる手紙の内容も、表面上は孤独に過し、最後には自分の邸に放火して、何故自らの肉体も焼き尽くさねばならなかったのか、その理由を。  何故なら私も同じ行動をとることになるだろうから―。  健斗少年とゆう子夫人はなんとしても隠して保護せねばならない。この親子だけでも、いまだに終わらない災厄から逃れてくれることを私はひとえに願う。  信頼のおける編集者に、体験したことのすべてを書き記した手記を送る手配をした。それは遺書としての意義をもち、私の死後に送付されるはずである。けっして公開されることはないだろう。私もそれを望む。あれが神でも異星人でも、放っておくのが一番よい。触らぬ神には祟りもないのだ。  問題の絵の内容は変哲もない。  健斗少年の、年齢とは不相応な格段の技術により、「ともだち」と題されて描かれていたのは、私が地底の寺院で健斗少年を救出したときに見た、あの白衣の少女である。長い黒髪に瞳は隠れ、愛らしい鼻と唇が、姿よく描かれていた。右手には何故かソーセージを握らせている。上手い絵だ。このまま彼が好きな絵を続けてくれることを、続けられる事を、心から祈りたい。  私を諦念させ、死を覚悟させたのはその絵の背景にある。  夜の情景だった。  白衣の少女が虚ろに佇むのは、他でもない。  私の家の玄関なのである。 <END>
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