有原悠二の小説、詩、絵など
ショートショート「世界リフト」
 わたしは旅をしている。リフトの上で。ここはそういう世界だった。眼下には海。それと岩礁、たまに波。  だからなにもしない日が多いように思う。リフトはなにもしなくても勝手にわたしをどこか遠くに運んでくれるから。海の向こう側の、また新しい海の上へと。  もう久しく大陸を見ていない。いや、もしかしたら大陸というものは過去の虚像なのかもしれない。または概念。この世界はきっと海しかなく、だから風もなく、摩擦だってない。  暇だったのかもしれない。それでも生きているし、生きていけるのだから、特になにが必要かだなんてあまり考えたことがなかった。日々はただの繰り返し。釣り糸を垂らす。溜まっている雨水を飲む。適当に排泄する。遥か下の水面下でわたしの排泄物が音を立てる。そこから先は妄想の世界だった。魚がつついているかもしれないし、そのさらに深いところにはわたしと同じような人間がいるのかもしれない。海底世界? ああ、人間。わたしはあまり笑わないようにしている。  生まれたときのことはあまり覚えていないけど、はじめから一人だったおかげで別に寂しいと思うときも特になかった。群れたいという本能は喉の渇きとはまったく違う。それでもわたしは魚を釣って食べるとき、少しだけ寂しくなる。失うという経験は具体的だから。  朝、日が昇る。その太陽は空を回っていく。夕暮れ、そして日は落ちる。  なにかがあるんだと思う。この世界には、なにかが――。  リフトの上は硬かった。でも、毛布を敷いて寝ればそれなりのベッドにはなった。明日はきっと新しい支柱が見えてくるだろうか。そうしたらまた新しい概念がわたしを楽しませてくれるかもしれない。いや、別に新鮮さなんて求めてはいない。新しい毛布があれば、わたしはもう少しだけハッピーになれる気はする。ここ数日、そう思う。  いったい誰が支柱に様々な物を隠したのかは知らないけれど、それはいつもわたしの期待を裏切った。食料のときもあれば、なにに使えばいいのか分からない機械のときもある。願いはいつだってどこにも届かない。もしかしたら隠されているのはわたしのほうかもしれない。  夜、リフトが突然止まるときがある。それはきっと恐怖だった。だってわたしはその場から飛び降りることだけを考えていたのだから。  死についてはよく分からない。魚の死とわたしの死がどうしても結びつかないから。魚は骨だけを残して海に捨てる。わたしはわたしのまま海に捨ててもいいのだろうか。なんとなく違う気がしている。それは罪悪感に似ていた。罪の意識など感じる必要のない世界のはずなのに。  翌日、わたしは新しい支柱に到着した。そこには本と煙草と少しのお酒だけしか置かれていなかった。  わたしはがっかりした。それでもパラパラと本を開いてみると、読めない文字からなにかが伝わってくる気がして、だからわたしは煙草を吸って、お酒を飲んでみることにした。  夕暮れだった。空が真っ赤に染まっていく。その中にわたしがいる。煙草の煙が空に消えていく。ぼんやりとした頭は、きっとアルコールで麻痺しているのだろう。美味しいと思った。この匂いも、この味も、この景色も。  ふと振り返ると、わたしの影が遥か彼方の海面にまで伸びていた。その上にリフトの頼りないケーブルが揺れていた。煙草を海に捨てて、新しい煙草に火をつける。遥か下のほうからジュっという音が聞こえた気がした。なんとなく、ざまあみろと思った。  もうすぐ夜が来る。それなのに、わたしの心はどこかそれを楽しみにしているようだった。体が熱かった。本をめくる。そのページの匂いを感じてみる。そこではじめて風は心地いいという概念を知った気がした。わたしはゆっくりと口の中に広がる苦い唾液を飲み込んだ。  夜、世界はわたしだけになった。だからかもしれない。気がつけばわたしは、罪悪感を感じることもなく大きな声で笑っていた。
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