有原悠二の小説、詩、絵など
空を飛び続ける男
 それは空気による圧死だった。  ――走馬灯。 (思えばずっと飛んでいたように思う。この世に生まれてきたときのおぼろげな世界が晴れた瞬間の意識が垣間見えたあの瞬間から)  状況を説明する。その時間はどうやら含まれているようだ。走馬灯の中に――。  ここは空の上。俺はずっと飛んでいる。飛んでいる? いや、そうだ、他にもなにか表現はないものか、……浮かんでいる、回っている、流されている、落ち続けている……そう、やはり俺は飛び続けているのだ、この星を、生まれたときから、ずっと。  誰に聞いたこともない。だってここでは空気は常に後ろに流れていくから。そもそも会話をする相手もいない。ここには俺一人しかいない。だからよく夢を見る。その夢の中で見た実際には会ったことのない両親から教えてもらった空を飛ぶ理由を俺はずっと信じている。 「戦争があったの。だから、逃げていたの。宇宙に。あの頃はエレベーターがあって、エレベーターというものは、箱に乗って上に昇っていく乗り物なんだけど、その箱がいつも満員で、もうあまり時間もないから、私たちは二人で、あなたのお父さんと二人でこの星と次の星を繋いでいるエレベーターのロープによじ登ったの。賭けだったわ。だって、それは生存率がとても低いから。でも、ゼロよりはマシだったわ。人はわずかな希望に命を保つ生き物だから。……私たちは不安定な空気の中、簡易的な足場を作り昇りはじめた。もちろん、あなたを抱えながら、愛を囁きながら、途中通り過ぎた夕暮れの絶景に心を奪われながら。そしてようやく雲に手が届きそうな頃、また爆発があったの。それも大規模な、一発で地表がデコボコになるような旧式の爆弾の。――そして吹っ飛ばされたのよ」  そのタイミングが悪かったのかよかったのか、地球は回転を速め、俺は地球の引力と落下の角度がちょうど回転に合わさる空中の途中に吹き飛ばされたんだと思う。つまり俺は星の周りを回る衛星のような存在になってしまったというわけだ。 (だから飛んでいるというよりは回り続けているという表現のほうが正しい気もするけど、その答え合わせをする相手がいないから、とにかく俺は寂しさを味わうこともできないんだ)  概念が足りない。  あまりにも。  だからきっと生きているんだと思っている。  爆発の影響で脳みそが半分吹っ飛んだのかもしれない。俺には概念が半分足りないのだ。だから生きている半分のその先がどうしても分からない。  生きる先。俺にはその先に待ち構えている概念がない。ただ生き続けているだけなんだ。  分かる? 俺の言ってることが。  地面までの距離は割と近い。  雲の下だから、案外目を凝らせば細部まで確認できる。ただ、なにもない。海がどこまでも広がって、たまに陸地が見えたと思っても、どこも荒地で、デコボコで、そして嫌な匂いがかすかにする。  飛んでいるからスピードはとても速い。景色は一瞬で変わりゆく。だからなるべく角度を変えようと抗う。でも無駄だ。変化という概念は基本的に変化を体感したやつにしか分からないようで、俺にとっての変化はただの妄想に過ぎなかった。  それでも。  声を出すとときがある。  大きな声を。  意味のない声だ。 「ら」を永遠に口にする時もあれば、「あ」とか「う」をひたすら連呼するときもある。  たまに海に跳ねる魚が見えるときがある。少しお腹が空く気がする。それでも食べるという妄想だけで十分だった。ここにはなにもない。だからなにもかもが潤っていた。  走馬灯――。  思い出した。走馬灯の中で見た景色。  いまも見続けているこの景色の中にあった一つの希望。  いつだったか、雨、その中を飛んでいるとき、ふと海を砕く荒波を見つめていたら、その上に小さな動くものを見つけたんだ。それはイスのようにも見え、また俺が乗っていたあのエレベーターの簡易的な足場にも似ていた。その前後にどこまでも続くロープみたいなものも見えたから。……その中にいた気がするんだ。人が。俺と同じ、頭と手と足と体と他にもいろいろなものがくっついている一つの人間が――。  それから俺の飛んでいる時間はそのロープを探す時間になった。常に目を細める。太陽に反射するものを見逃さない。実際にそれのおかげだったと思う。俺が生き続けてこられたのは。  ある真夜中。俺はついに見つけた。それは本当に小さな光だった。遠くの海の上に小さな赤い点のような光が見えたんだ。そして徐々に近づいていくうちに、なにか香ばしい匂いが漂ってくる。それはきっと煙草というものだと思う。父の匂いにどこかしら似ていたから。その瞬間、聞こえたんだ。大きな笑い声が。  大きな笑い声が。  次の日、俺は死んだよ。  太陽が昇るのと同時に。  だって、俺はそこで知ったんだ。  死という概念を。   これは走馬灯? その残光かもしれない。それとも、まだ俺は空を飛び続けているのかもしれない。ただ別にもうどうでもよかった。俺はもう孤独じゃない。この星の上で一人ではないということは、それだけで生きていく価値があるということを知ってしまったから。  大丈夫? 伝わってる? 俺の言葉、変じゃない?  死について思うことは、よく分からないということだった。だって俺はまだ死んだことがないし、先に両親が死んでいるから恐怖という概念もあまりなかった。  それでも。  胸が少しだけぞわぞわする。  手を伸ばす。  手を、  伸ばす。雲が指先に触れる。笑い声が雨となって海に落ちていく。  俺の頭付近にあった両親の思い出が、胸の辺りに下っていく。笑い声が通過する。いつかの過去を吹き飛ばしていく。  まだ。  まだ、  走馬灯か、その空を飛んでいる、俺という概念の――。
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