わたしの弟は癌だった。小学生に上がる前に発覚して、それから親と一緒に病院と家を行ったり来たりして、検査を受けては入院し、帰って来る度に点滴の痕が痛々しくて、わたしはそんな弟を前に、ただ笑顔を振りまいて遊んであげることしかできなかった。そのときわたしはまだ小学三年生だったから、親に甘えたい気持ちも確かにあったけど、弟の命がいつ失われるかも分からない恐怖にいつも怯えていたように思う。思い出す度にあのときの無力感で胸が痛くなる。
親はいつも疲れていた。それでも弟の前では常に笑顔だった。それは弟が本格的に入院することになってから更に顕著になった。結局弟は最後までその笑顔の裏に流れている涙のことを知らなかったと両親はいまでも思っているが、弟は実は知っていたんじゃないかとわたしは思っている。
「ここはね、世界で一番笑顔があふれる病室なんだよ」
看護師さんの言う通り、弟の病室は笑顔であふれていた。弟は癌患者の子供たちばかりの六人部屋にいて、窓に近いベッドの上でいつも点滴に繋がれていたから、わたしはマンガや絵本を持って行き、両親が医師と面会をしている間ずっと弟のそばにいた。その部屋は本当にここは病院なのかと思うぐらいいつも笑顔であふれており、笑い声が絶えなかった。だから弟も含めてみんなもすぐに退院するだろうと楽観的に考えていた。実際に病室の移り変わりは激しく、少し仲良くなったと思った子ができてもすぐに新しい子が入ってくる。わたしはその度に次は弟が退院できるものだと信じて疑わなかった。
ある日、わたしは面会終了の時間までいることがあった。いつもなら一時間ぐらいしたらすぐに帰るのだけど、この日は父がどうしても仕事で抜けられず、仕方なくわたしも母と一緒にいたのだった。そして病室にいる笑顔の親たちが退室した瞬間に、声を殺して泣いているのを見てしまったのだ。
あとから知ったのだけど、この病室に運ばれてくる子供たちのほとんどは末期で、助かる見込みはほとんどなかったそうだ。だからこの部屋はいつも笑顔だったのだ。涙を見せまいとした親の強さをわたしはそのときはじめて知った。
それからわたしも少しでも弟に笑って欲しいと思い、なるべくたくさんの時間を弟に使うことにした。しかし、弟はそれをあまり喜ばなかった。
「お姉ちゃんはお姉ちゃんの時間を大切にしてほしいんだ」
そんな大人のようなことを言うようになったのは、弟が入院してから半年ほど経った頃だった。その頃の弟は目を背けたくなるほど痩せていた。以前はなにも言わなくても笑っていたのに、もうあまり笑顔も見せなくなっていた。いや、笑えなくなっていたのだ。もしかしたら弟は自分の死期を予感していたのかもしれない。それでもわたしたちは必死に弟を励まし、なんとか希望という細い藁にでもいいから、すがってほしいと願っていた。
弟の同学年の子供たちはみな小学生になり、わんぱくに遊びながら、ときには怒られ、ときに勉強に頭を悩ませ、やりたくない宿題をやって、そして年を重ねていく。弟はそれを想像と夢の中でしか経験することはできなかった。だから誰よりも優しかったのだろうか。いつだったか、わたしは弟に訊いてみた。
「ねえ、退院したらなにがしたい?」
弟はすぐに答えた。
「学校に行きたい」そして久しぶりに笑顔になった。「ぼく、みんなと同じように大人になりたいんだ」
それが弟とわたしが交わした最後の言葉だった。弟は最後に、両親の手を握ってありがとうと言ったそうだ。彼は最後まで優しかったのだ。思えば抗がん剤でどんな痛い思いをしようが、彼らは誰一人として弱音を吐かなった。誰のせいにもしなかった。中には癌に感謝する子さえいた。彼らはきっと誰よりも大人だったのだ。
あれから何十年が経ち、わたしは大人になった。親も覚悟をしていたのか、当初は泣き崩れていたが、時間の経過と共に前を見始めた。それは弟のためでもあったから。
わたしは必死で勉強をして、心理カウンセラーになった。正直、辛いことも、悩むことも、死にたくなるようなこともたくさんあった。でも、わたしは前を向いた。向き続けた。だってこれは、弟が見たかった世界そのものだから。
カウンセラーをしていて思うことは、人は本当にたくさんの悩みを抱えて生きているということだった。中には生まれてこなければよかったという人もたくさんいる。もちろん、感じ方は人それぞれだからわたしは決して否定しないけど、それでもたまにクライアントに向かって弟の話をしてしまうことがあった。
「弟は憧れていました。大人になることに。もちろん、大人は楽ではありません。死にたくなることもあるでしょう。でも、弟はそれすらも経験することは叶いませんでした。わたしたちはいま、彼らの夢の中にいるのです。彼らがなりたくて仕方なかった夢の世界で生きているのです。だからどうかお願いです。別に死にたくなっても構いませんから、もう少しその夢の世界を見てみませんか?」
きっと、カウンセラーとしては失格だと思うけど、それでもわたしはいまの世界を生きてほしかった。知ってほしかった。いま自分が生きている世界は、誰かが願っても叶わなかった夢の世界だということを。
今年もまた誕生日を迎えて、弟の命日がやってきた。わたしは弟が好きだったお菓子を買って実家に帰る。両親と他愛ない話をして、そろそろ孫の顔が見たいもんだとみんなで笑い合って、お互いに仏壇に手を合わせる。写真の中の弟はいつも笑っている。わたしたちはこれからもできる限り、弟に夢を見せてあげようと思っている。だからこれからも、わたしたちは生きていこうと思う。