有原悠二の小説、詩、絵など
月とさなぎ
 それは黒猫だった。  新月のとある真夜中、月明かりのない夜空に星々が線香花火のように燃え盛っている。ふと、音が聞こえた。アスファルトをひっかいているような風の音。――爪だ。足跡より真夜中に溶け込んでいる。いた、あそこだ、猫、猫、猫! (落ち着け、落ち着け、慌ててはいけない……)  決して!  夢は破れる。 「わたしはあなたのそういうところが大嫌いだったの。――さようなら」  とびらの閉まる音。カツカツと遠ざかっていくその音に、いつかの黒猫が重なって。  追いかけようか。それとも。  涙。情けなく、惨めだった。  泣こう。それからでいい。外に出るのは。 (煙草、まずは煙草が、吸いたい……)  ぼくは願う。  もし生まれ変われるのなら――。  変われるのなら……。 「――なんだと言うんだ!」  財布を握って、外に飛び出して――。  逃げるのか、いや、違う、これは決して逃げではない。戦いだ。戦争だ。戦わずしての勝利などあり得るはずがない! 風を切れ、雲を追い越せ、隣人を出し抜くために、競争、彼女の一番にならなければ(ならなければ?)、……ならなければ、終わってしまう!  わずかな全財産を小汚いババアに渡して、それの対価で薬を貰う。資本主義の欠点はあまりにも自由なところだとぼくは思う。だから嫌いだったし、好きでもあった。  また、会いたい。彼女に。  でも。でも。  どうやって? (惨めなもんさ。無様に振られた間抜けな男……)  くたばっちまえ!  ぼくは家に帰ると早速薬を飲み干そうとした。が、その前に酒でも――。 「あばよ、人類」  最後の言葉なんて所詮こんなものだろう。ありがとう、人類、そして、人類。  ウイスキーが喉を焼く。その痛みの隙間を薬がすり抜けていく。木枯らしのような音が胸の奥から鳴り響いた。  ……聞こえる。猫の、あの鳴き声が――。 「ねえ、もし生まれ変わるとしたら、なにになりたい?」 (そうさね、ぼくはぼくとして失敗したのだから、今度はぼく以外のぼくになりたいもんだね。でも、もし可能ならば、ぼくはやはりぼくになりたいかな。いや、矛盾じゃないよ。ぼくはもちろんぼくだけど、ぼくじゃないぼくだってぼくだと言えるんじゃないかな。ああ、でもこれだけは言い切れる。きみにだけはなりたくはない)  ぼくは夢を見る。  深い夢。  新月が時間という概念のおかげで丸くなっていくように。  ぼくは夢の中で時間を捕まえる。  まるでさなぎ。  いや、それは確かにさなぎだった! ※一ヶ月後――  ぼくは溶けていた。ドロドロに。 ※二ヶ月後――  さなぎ。 ※三ヶ月後――  いよいよ孵化だ! (プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ)  電話の音。  (プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ)  きっとアイツからだ。 (プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ、プルルルルッ)  ああっ!  もうやめてくれ!  気が狂ってしまう! ※更に三ヶ月後――  気がついたら真夜中だった。ぼくは窓の隙間から夜空を眺めている。しかし、さなぎになったぼくは自由に動くことができず、ただ呼吸を一回一回数えるだけで、あとは過去に経験した出来事の一つ一つを思い出すほかはなにもできなかった。電話の音はもはや聞こえない。今となっては鳴っているのか止んでいるのかも分からない。感覚がないわけではなかった。感じようと思えば五感のすべては働く気がした。しかし、ふとした瞬間に忘れているのだ。感覚どころか、その概念すらも、まるで最初からなかったかのように。だからときどき見る夢の中で思い出すのだ。ああ、そういえば見えていたんだな、とか、美味しい食べ物のこととか。ただ、そんなものは所詮夢。どこにもたどり着くことのない思考が待っていたかのように活動を再開すると、ぼくはまた五感を忘れてしまう。その繰り返し。長かった。あまりにも長いのでとてつもない苦しみを抱くイメージがあったのだが、それはただの理性的な思考であって、実際にはそんなことはまったくなく、そもそも長いということが別に悪ではないという気付きのおかげか、ぼくは永遠とも思える時間の経過をのんびりとした炬燵の中で丸まる猫のように過ごすことができたんだ。時間。それは幻だ。そんなものははじめから存在しないんだって、ようやく分かったんだ。だからぼくは目を閉じる。あふれてくる思考を邪魔だとも思わず、いわば自然に身を任せる感覚で、なにかが過ぎ去り、なにかがやってくるのをただ待つように。ああ、聞こえる。声が聞こえる。どうして今まで気がつかなかったんだろうか。彼女はすぐそばにいるじゃないか。そう、すぐぼくのそばに。思えば生まれたときの記憶をどうしても思い出せないように、人生というのは断片的で作為的な記憶の集合体じゃないか。いわば作り物だ。誰かが適当につくった人形劇に己を当てはめて妄想しているだけなんだ。ああ、そうか、そう思えば、……ぼくはきっともう一度彼女に会えるんだ。もうすぐぼくは生まれる。いや、生まれ変われる。だからそのときこそ、彼女に伝えるんだ。愛の本当の意味と、愛の本当の目的を――。  さようなら。  ぼく。 ※翌日――  ぼくは生まれた。  まったく新しく。  目を開けて、目の前の壁を破っていくイメージで体を動かす。  メリメリとさなぎが崩壊していく。  そして、世界だ!  ――。 ※一分後――  ぼくは、確かに生まれた。  その証拠に、ぼくは見つめている。  生まれたてのぼくを。  ぼくはなにを見つめているのか。  ぼくだ。  ぼくがぼくを見つめている。  いや、落ち着け、まずは冷静に物事を解釈していこう。  ぼくは生まれた。それは確かだった。なぜなら、ぼくはぼくが生まれる瞬間をこの目で目撃しているし、現に目の前に裸のぼくが立っているのだから!  では、それを見つめているぼくは、いったい何者なんだろうか。 ※一時間後――  ぼくがお風呂から出てきて、そしてどこかに電話をかけている。 「ああ、さっきは悪かったよ、いや、ちがうよ、まあいいから、ちょっと家まで来てくれ――」   ※三時間後――  チャイムの音とともに彼女が入ってきた。そして二人は抱き合って、何事もなかったかのように愛し合った。  ぼくはそれをただ眺めている。声も出せないし、体を動かすこともできない。ただ、眺めるだけだ。まばたきの一つすらできずに。 「ねえ、あれ、なに?」  彼女がぼくを見つける。  ぼくが彼女に言う。 「ああ、あれ、あれは俺さ。正確には――」 「なに?」 「さなぎだった頃の俺――」 ※七時間後――  愛し合った二人は、目を覚ましてからコーヒーを淹れた。女が言った。 「こんな夜中に飲むと眠れなくなるよ?」  いいんだよ、とぼくが言う。 「構わないさ、今夜は満月なんだから。……まだまだしたいだろ?」 「まあ、そりゃそうだけど……」  ちらっと横目で彼女がぼくを見る。そしてぼくに耳打ちをする。 「ねえ、あれ、どうにかなんない?」 「ああ、そうだな、――捨てるか」  ぼくがぼくに寄ってくる。  そして無造作にぼくを持ち上げると、外に運ばれて、ぼくはそのまま捨てられた。  ぼくはぼくの後姿をゴミ捨て場から眺めている。ぼくはそれに気がついているのかは分からないけど、最後にこっちを一瞬見た気がした。  風が冷たかった。  ぼくの体はかさかさと音を立てるだけだった。  あっ。    風で体が倒れると、空が見えた。そこには満月が輝いていた。途中、部屋の窓の明かりに気がついたが、ぼくはもうなにも思わなかった。  意識が吸い込まれていくのが分かった。  どこからか猫の鳴き声が聞こえてくる。  ぼくは願う。  どうか生まれ変わるのなら、ぼくでありませんように――。 ※停止――  黒猫。  満月。  その光はぼくの体を反射した。  かさかさと揺れる。  遠ざかっていく世界。  さよなら、ぼく。  そしてぼくは最後に月になったんだと思う。
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