まきのさん
水の中で眠る者
 ぼくは、待ち続けていた。  羊水の中でまどろみ続けるぼくを目覚めさせ、ここから連れ出してくれる人を。≪彼≫を。  ぼくは、羊水の中でまどろみながら、夢を見る。  ある日≪彼≫が現われ、ぼくの眠る、この羊水の満たされた水槽を割るのだ。ぼくは、あふれ出す羊水と共に外気に触れ、そして≪彼≫の温かい腕に、しっかりと抱き止められる。  それは、ただの夢にすぎない。ぼくは、羊水の中で眠っているだけだ。  羊水は温かく、優しくぼくを包み込む。静かで、音のない世界。閉じたまぶたに、柔らかい光が感じられる。その光が音となって、静かにパルスを送って来るようだ。光のパルスは、ぼくの中で知識となる。でも今は、知識はただ、ぼくの意識の底で降り積もり、石の層を成して行くだけだ。  そして、夢はその石の層の底の底、ぼくの意識の底の底から湧き上がって来る。まるで、遠いはるかな過去から、生まれる前から知っていることのように。何度も、何度も、ぼくは同じ夢を見る。  そうして、だからこそ待ち続ける。  ぼくを、この羊水のまどろみから連れ出してくれる者――≪彼≫を。  俺は、探し続けていた。  戦い続ける俺の本当の目的、かつての俺と同じ、羊水の中で眠り続ける弟を。≪あいつ≫を。  俺は、戦場の中、血潮の中に幻を見る。  ある日≪あいつ≫に巡り会い、≪あいつ≫の眠る、羊水の満ちた水槽を割るのだ。≪あいつ≫は、あふれ出す羊水と共に外気に触れ、俺は、その冷たく柔らかい体を、この腕にしっかりと抱き止める。  それは、ただの幻にすぎない。  俺のいるのは、荒野。目の前には、俺自身の倒した敵の屍が累々と横たわり、俺の体は、倒した敵の血にしとどに濡れている。俺は、死神のごとく戦場を駆け巡り、熱い命を奪って行く。  幻は、しぶく血潮の中、夜毎の夢のように現われる。まるで俺の、記憶の底の底、遠いはるかな過去から、生まれる前からの想いが湧き上がるかのように。何度も、何度も、俺は同じ幻を見る。  そうして、だからこそ探し続ける。羊水の中でまどろみ続ける者――≪あいつ≫を。  ≪彼≫は、ある日突然、なんの前触れもなく、ぼくの前に現われた。  ≪彼≫が、この建物に足を踏み入れた時、ぼくはたしかにそれを感じた。光のパルスが変わったのだ。この部屋に向かう≪彼≫の足音さえも、たしかに聞こえた。それとも、これもまた、まどろみの中で見ている夢だろうか。  《彼》の足音が近づく。真っ直ぐにこの部屋に近づいて来る。  やがて、部屋のドアが開いた。足音が、すぐそこまで来る。≪彼≫が、ぼくのいる水槽の傍に立った。  手を触れる。その途端、ぼくの意識に≪彼≫の胸の鼓動が伝わって来た。  最初は小さく、やがてゆっくりとそれは大きく、たしかになって行く。  その音は、ぼくに目覚めを呼びかける、アラームのようだ。  ぼくは、ゆっくりと目を開けた。  ぼくの目の前に、≪彼≫はいた。  長い黒髪と、紫の目。背が高く、逞しく、しなやかで、どこか獣のよう。  それは、夢で見た≪彼≫そのものだった。  その紫の目が、ぼくを捕える。  ――ああ、彼はぼくと同じ者だ。  ぼくの心に、安堵と不思議な懐かしさが広がる。≪彼≫もまた、ぼくと同じ、羊水の中でまどろみ続けていた者なのだ。まどろみながら夢をみて、夢を見ながら、自分をそこから連れ出してくれる人を待ち続けていた者――。きっと、そうだ。  ぼくは、≪彼≫の中にもう一人のぼくを見た。  ――ダ・シ・テ。  ぼくは、≪彼≫に呼びかける。かすかな、光のパルスで。  ≪彼≫が、手にしていた銃の台尻で、水槽を割った。  羊水があふれ出し、それと共にぼくは外に流れ出た。  外気が、羊水の代わりにぼくを包み込み、そのあまりの冷たさに、ぼくは悲鳴を上げそうになる。肌が痛い。  そのぼくを、≪彼≫の腕がふわりと抱き止めてくれた。  ――温かい。  ぼくは、その温かさに、しっかりと≪彼≫にしがみつく。  温かさと共に、その胸の鼓動が伝わって来る。羊水と同じ、いや、それ以上の心地良さ。  ≪彼≫の手が、ぼくの髪をそっと撫でる。  ≪彼≫は、ぼくを離し、目を覗き込んだ。≪彼≫の紫の目に、卵から孵ったばかりのヒナのような、ぼくの姿が映る。 「俺は、ナッシュ。ナッシュ・フォードだ。俺と一緒に来るか?」  ≪彼≫が訊いた。深みのある、心地良い声。光のパルスの音に似ている。 「行くよ」  ぼくは、うなずいた。 「行くよ。ナッシュ」  「ナッシュ」――ぼくの舌が、柔らかく≪彼≫の名を口にする。ぼくの発する、初めての言葉。 「よし。行くぞ、ウルフ」  ≪彼≫――ナッシュがぼくの名を口にする。それは、初めてぼくが耳にする、ぼく自身の名前。  ナッシュがぼくの名を呼んだ、その時。  その時こそ、ぼくが真実この世界に生まれ落ちた瞬間だ。  ぼくは、ナッシュと共にそこを出る。長い間、ぼくを温め、優しいまどろみをぼくに与えてくれていた、その場所を。  水槽は割れ、羊水の中でまどろんでいたぼくは、今、鳥になるために歩き出す。 「行くぞ、ウルフ」  ナッシュがぼくを呼び、手をさしのべる。  ぼくはうなずき、その手を取った。  俺は、≪あいつ≫の手を取る。  ≪あいつ≫――探し続けていた俺のヒナ鳥、ウルフの手を。  黒い髪と、華奢な体、野性の本能を秘めたトパーズ色の目をした≪あいつ≫、俺のウルフ。  俺は、≪あいつ≫を外の世界へと引きずり出した。全てのものへの好奇心と恐怖と、その両方で≪あいつ≫は震えている。  その肩を、俺は抱きしめる。  何も怖がるな、その目を開いて全てを見ろ。俺が、ここにいるから――と。  ≪あいつ≫はうなずく。強く、きっぱりと。  そして――。  俺たちは、戦場を駆けた。  血と、殺戮の日々。俺の目の前で、≪あいつ≫は血まぶれの獣と化す。  戦って、戦って。  俺たちの後には、屍の山が道となって続く。  だが、≪あいつ≫の目は変わらない。どれほど血を浴びようとも、≪あいつ≫の目は本物のトパーズのように強く、まぶしく輝き続けている。  そうだ。  俺は知っていた。  ≪あいつ≫がどれほど汚されようと、けして穢れはしないことを。それでも俺は、≪あいつ≫を守る。たとえ、この身が荒野に倒れようとも、俺の魂は≪あいつ≫の傍を離れはしない。ずっと、こうやって共に戦うために、守るために、俺は≪あいつ≫を探し続けていたのだから。  戦場の幻、≪あいつ≫を。俺の、ウルフを――。  俺たちは駆け続ける。疲れ果て、傷だらけになっても。それでも俺たちは、戦い続ける。  なぜ?  どうして、そんなにしてまで?  俺は、自分で自分に問いかける。  答えは決まっている。  この荒野を、緑の野に変えるために。  この、草木一本生えず、死者の恨みの声のような風の吹きすさぶ荒野を、緑の木々が優しい風になびき、花々が揺れる、そんな場所に変えるために。  戦いは、何も生みはしないと人は言う。  だが、待っているだけでは、何も変わらない。  俺は、ウルフを探し続けた。探し続け、戦い続け、そうして巡り会い、ウルフは今、俺の傍にいる。俺の腕の中に。  それと同じように、この荒野も、いつかは緑の野に変わり、俺たちも笑って生きられる日が来るだろう。いや、きっと来る。俺が、そうさせてみせる。  そのために、俺は戦い続けるのだ。  たとえ、血まぶれになり、疲れ果て、姿は修羅となり果てようとも。  だが、俺が本物の修羅となることは、けしてない。ウルフのトパーズ色の瞳が、けして血で汚れないように、俺もまた――。  ぼくは戦う。ナッシュと共に。  もう、幾人、人をあやめただろう。もう、どれほど血を浴びただろう。  中には、ぼくたちの仲間のふりをして近づいて来る者もいた。それを知った時の、激しい心の痛み。相手を倒さねばならない時の、その辛さ。ぼくの心は血を流し、声のない悲鳴を上げる。  出て来たくなかった。いや、出て来なければよかった。外の世界が、こんなに辛いものだと知っていれば。 「もう嫌だ! 戦いたくない!」  叫ぶぼくを、ナッシュが抱きしめる。温かい腕。  ナッシュの胸の鼓動が、ぼくに伝わって来る。  ぼくの頬を涙が濡らす。 「ウルフ」  ナッシュの静かな声が、そっとぼくを包み込んだ。 「戦いは、いつか終わる。今は辛くても、明日はきっと笑っていられる。それに、俺がここにいるじゃないか」  ああ、そうなんだ。  ぼくは初めて気づく。たとえ何があっても、ナッシュだけは、ぼくの傍にいてくれる。こうやって、ぼくを抱きしめていてくれる。共に戦ってくれる。  だから、戦おう。明日のために。いつか笑える日のために。  ぼくは、再び立って戦い始める。ナッシュと共に。  そんなぼくたちの前に、一人の女が現われた。  銀の髪、冷たく淡いブルーの目。まるで氷の精のような女が。  彼女には、名がなかった。誰も呼ぶ人がいないから、必要なかったのだと彼女は言った。  だが、ぼくにはすぐにわかった。  彼女は、同じ者だ。  ぼくたち――ぼくやナッシュと同じ、羊水の中で眠り続けていた者だ。  けれど、きっと彼女の元へは、≪彼≫は訪れなかったのだ。それとも、訪れても気づかなかったのか。ともかく、彼女は待って待って、待ち続けて、そのあげく心まで凍ったまま、自分であの水槽を破って生まれて来たのだ。  だから、全てを憎んで、全てを呪って。この荒野を、氷の下に封じるために、ぼくたちの前に現われたのだ。  ぼくは、初めて迷う。  彼女を倒すことはできない。彼女はぼくたちと同じ者だ。ぼくたちと共に戦い、明日のために生きる者だ。ただ、たどるべき道を誤っただけ。  ――おいで。  ぼくは、彼女に手をさしのべる。ナッシュがぼくにしてくれたように。  けれど、彼女はぼくの手をはねのけ、ただぼくに、戦いを挑む。  彼女とは、戦えない。  ぼくは、武器を捨てた。ただ、彼女の攻撃を受け続ける。痛みが体中に走り、傷がみるみる増え、血が噴き出す。 「ウルフ、なぜ戦わない!」  ナッシュがなじりながらも、ぼくをかばおうとする。  だが、ぼくはかぶりをふった。 「ぼくをかばわないで、ナッシュ。これでいいんだ」 「ウルフ!」  ナッシュの、血を吐くような叫び。ぼくの目はかすみ、次第に、周りの景色がぐるぐると回り始める。  あいつの血が、大地に滴る。  あいつの白い肌が裂け、無数の傷がその体をおおって行く。  そのたびに、俺の体に鋭い痛みが走り、心は血を流す。 「いいんだ。これでいいんだよ」  あいつは、そう言った。だが、見ていられない。 「やめろ! もうやめてくれ!」  俺は、狂ったように叫ぶ。叫んで、女を突き飛ばし、拳をふり上げた。  こんな女、俺の力なら、一撃でおしまいだ。  だのに。  だのに、あいつが俺を止めた。 「だめだよ。彼女は同じ者だ。倒せない」  同じ者? そう、たしかにこの女は、俺たちと同じ者だ。  だが、その目を見ろ。冷たい、まるで凍った海のような目をしているじゃないか。  俺は、こんな冷たい目をした奴を、今まで見たことがない。倒して来た敵の多くは、闇に魅入られた目をしていたが、こんな冷たい目はしていなかった。  この女は、この荒野さえ、もっとひどい所に変えてしまう。氷の下に封じてしまうだろう。  だから。  だからこそ、この女は倒さなければならない。だのに――。 「なぜだ?」  それは、俺の発するはずの問いだった。だが、言ったのは女だ。 「なぜだ? なぜ、私と戦わない? なぜ、これでいいなどと言う?」  女は、心底訝しげに問う。 「君が、ぼくたちと同じ者だからだよ」  ウルフが言った。 「ぼくは、君が待ち続けた者だよ。遅くなってごめん。さあ、おいで」  驚くほど優しく微笑んで、ウルフは、女に手をさしのべる。  「おいで」  ぼくは言って、手をさしのべた。  これが、ぼくにできる精一杯のこと。もしも彼女がこの手を拒み、戦うのなら、ぼくにはもう、彼女に殺されてあげるぐらいしか、すべがない。  ためらいがちに、彼女はゆっくりとぼくの方へと手を伸ばす。その手が、ぼくの手を取った。彼女の目から、大粒の涙がころがり落ちる。  涙はひどく温かく、ぼくの手に触れると、ぼくの傷を癒し、そうして大地へと滴り落ちる。  荒れた大地は、彼女の温かい涙に潤い、緑の芽を萌え出させた。  芽吹いた緑は、ゆっくりとあたりに広がって行く。  荒野は、緑の野原に変わった。冷たく吹きすさぶ風も、優しく暖かい風へと変わる。  ぼくたちの後ろに、累々と横たわっていた屍は、小さな体に薄羽根を持つ妖精たちとなり、風や草木と戯れ始める。  そして、ぼくとナッシュの前には、一本の巨大な樹が立っていた。  天に雄々しく枝を張り、太い幹と、青々とした葉を持つ、巨大な樹。その根元からは、こんこんと冷たく清い水が湧き出している。  これは、彼女だ。  ぼくには、すぐわかった。彼女は、氷に封じられた春の女神。全ての命を育む者だったのだ。  樹を見上げるぼくの肩を、ナッシュがそっと抱く。彼も、わかってくれたのだ。なぜぼくが、彼女を倒そうとしなかったのか、倒せなかったのかを。  ぼくたちは、水の中で眠り続け、外では戦い続け、そして、ここへたどり着いた。  ぼくたちは、そろって樹の根方に腰を下ろす。ぼくは、頭を彼の肩にもたせかけた。 「少し疲れたよ。眠ってもいい?」 「ああ。俺が傍にいてやるよ」  ナッシュがうなずいて、ぼくを抱きしめる。  響いて来る彼の心臓の音は、羊水の中の、光のパルスを思い出させる。  ――温かい。  彼の腕は、まるであの水槽の中の、羊水のようだ。  ぼくは、すっかり安心して眠りに就く。  今度は、どんな夢を見るのだろう? そしてナッシュは、どんな夢を? 目が覚めたら、見た夢を、全部ナッシュに話してやろう。  そんなことを思いながら――。                            1989年/初稿                           2003.4/改稿
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