Mochizuki's Circle
第1話 メサイヤ
 私がその街のことを知ったのは、友人の口からだった。 「霧の街、と呼ばれているらしい」  彼はそう言った。 「霧の街? それなら、このロンドンだってそうだろう。……いや、地形的に霧の湧きやすい街は、みんなそうだ」  私は小さく肩をすくめて返したものだった。  実際、たいしたことのない自然現象や景観を大袈裟に謳って「○○の街」と称している都市はけっこうあった。  子供のころ、旅行好きの父に連れられて、英国だけでなく欧州のさまざまな場所に行ったことのある私は、そうした自分の経験則からその街もおそらくは、そう称しているだけの都市に違いない、と決めつけたのだ。  だが、彼はかぶりをふって言った。 「それが、聞きしにまさる霧の多さらしいんだ。街は一年のほとんどを霧に覆われているという。しかも、夜になれば霧はなお深くなり、伸ばした自分の手の先が見えないほどだと聞くよ」 「それはそれは。たいしたものだ」  私はそれでもまだ、その話がただの誇張されたものだと思っていた。だから、茶化すように笑って答え、再び肩をすくめてみせる。  そんな私に、彼は真面目な顔で言った。 「今度ぼくは、その街に行ってみようと思っているんだ。いろいろと、興味深い街のようだからね」  そしてそれが、私と彼の交わした最後の会話となった。  その二日後、彼は旅に出たのだ。  そのまま彼は、二度と戻って来なかった。  下宿の女将に告げた行先は、北の街メサイヤ。  そう、そここそが、彼が私に話した『霧の街』だったのだ。  友人が姿を消して、半年が過ぎたころ。  私は彼の唯一の家族だったその妹に頼まれて、彼を探すためにメサイヤの街を訪れていた。  ロンドンはようやく秋の気配が立ち始めたころだったが、北に位置するこの街はもう初冬といっていい寒さだった。  ロンドンを出る前に、この街のことはざっと調べてあった。  友人の話を聞いた時は、ただ霧が多いことを売りものにした地方都市かと思っていたが、なんとも気味の悪い曰くのある街だった。  四百年前、この街は一度滅んだのだという。  魔女として告発された貴族をかくまったという嫌疑をかけられ、当時の領主は投獄。街は住民ともども火をかけられて燃やされ、廃墟と化した。  しかも廃墟となったその場所には、さまざまな怪しい噂が飛び交い、次第に人が近づかなくなって行ったのだという。  それが再び街となったのは、二百年前のことだ。  現在の領主であるアッシュローズ伯爵家の当時の当主が、国王の命を受けて三十年がかりで街を復活させたのだそうだ。  だが、復活したのちも、この街には怪しい噂がつきまとっている。  その最たるものが、街を常におおっている霧だ。  街の住人たちはそれを、自然現象ではなく、四百年前に無残に焼き殺されたかつての住民たちの呪いによるものだと信じているらしい。  そして、夜になるとその霧の中を、人ではない何者かが徘徊しているとして、絶対に外に出ようとはしないのだという。  だが、それを信じないよそ者たちは、夜間に出歩いて行方不明になる者も多いらしい。  実際、図書館で新聞記事を調べた限りでは、この十年で八人もの旅行者が行方不明になっていた。 (……まさか、な)  彼もまた、その一人に数えられることになるのだろうかと、記事を読みながら私は唇を噛んだものだった。  ともあれ、その日私はメサイヤに到着し、駅からほど近い場所にあるホテルに腰をおちつけた。  ちなみにそのホテルは、かつて友人が泊まったのと同じ所だった。  なので私はホテルの従業員に話を聞いた。友人の写真を見せて、彼を覚えていないかと尋ねたのだ。 「ええ、覚えていますよ」  フロント係の青年は、写真を見るなりうなずいて言った。 「半年ほど前に来られたお客様ですね。……夜外に出てはいけないと注意してさしあげたのに、外出されてそのまま……。おそらく、霧の中の『人でないもの』たちに連れて行かれてしまったのでしょうね」  彼は、鎮痛な面持ちで、そんなふうに続けた。 「夜に外出するなと注意した? つまり、君は彼が夜外に出て行くのを見かけたということか?」  私が問い返すと、彼はかぶりをふる。 「最後にこのお客様を見たのは、警備員のルクスです。私はこのお客様が到着された時に、夜間の外出について注意させていただきました。当ホテルに宿泊されるお客様には、全てそうさせていただいておりますので」  言われてみれば、彼はたしかに私にもチェックインの時、同じことを告げていた。  なるほどとうなずき、私は問う。 「それで、その警備員は友人を止めてはくれなかったのか?」 「もちろん、お止めしましたとも。この街には、夜外に出て行こうとしている者を引き止めないような者はおりません。……ですがお客様は、駅に落としものをしたようなので、それを探しに行くと言って、ルクスの制止もきかずに、出て行ってしまわれたのです」  フロント係の青年は顔をしかめたまま、かぶりをふって言った。 「そしてそのまま……二度と戻っては来られなかった。……ルクスを責めないで下さい。彼はお客様をホテルの門前まで追って行ったのですから。でも、それ以上は……」  それ以上は、自分もまた危険だからできなかった――と言うのか。  青年の話では、友人は朝になっても戻らず、このホテルの支配人が警察に連絡したのだという。  それでこの街の警察も一応、捜索はしたようだ。ただ、警察もどうやら友人がみつからないと最初から思っていたふうだった。  そう、それについては、友人の妹も言っていた。 「彼ら、話にもならないのよ。夜外に出て行方不明になった者は、『人でないもの』に連れて行かれたのだとか言って、あからさまに探してもムダって態度なんですもの」  だから、私に探しに行ってほしいのだと、彼女は言ったのだ。  青年に礼を言って自分の部屋に戻りながら、私はどうしたものだろうかと考えていた。  あたりはすでに暗くなり始めていて、廊下に面した窓のガラス越しに外を見やれば、乳白色の濃い霧があたりを包み始めている。  『人でないもの』云々はともかく、こんな状態では地の利のない街を歩き回るのは無理だろう。  とりあえず今日は休んで考えをまとめ、明日、警察と駅に行ってみることに決めて、私は部屋の中へと入って行った。  翌日。  朝食のあと、私はまず、街の警察へと足を運んだ。  受付で名前と用件を告げ、友人の事件を担当した刑事と話したいと言うと、受付にいた青年は気の毒そうな顔をしながら中年の刑事を呼んでくれた。  私は現れた刑事と挨拶を交わし、友人が消えた日のことを聞いたが、そのほとんどは昨日のフロント係の青年の話と変わらなかった。  捜索は夜が明けてから行われたようだ。  ホテルから駅までの間を丹念に、人海戦術で探したという。  だが。 「何分、目撃者が一人もおりませんでね」  刑事は気の毒そうな顔で、小さく肩をすくめて言った。 「昼間ならまだしも、夜間はこの街の人間は外に出ませんからな。それに、その夜もいつもと変わらず霧が深かった。もし外に出ていた者がいたとしても、よほど近くにいなければ、他人の姿を見とがめるのは、無理だったでしょう」 「駅は、どうなのですか? 彼は、駅へ落としものを探しに行くと言って、ホテルを出たのでしょう? なら、駅で彼を見かけた者がいるのではないですか?」  私は訊いた。  時刻表を見る限りでは、駅に最後の列車が到着するのは、ぎりぎり日の暮れる前だ。  それよりあとにも、ここの駅を通過する列車はあるが、停車するものはない。  そう、まるで、「夜間に出歩くのは危険だ」という禁忌をよそから来る者たちにも徹底させるかのように、列車でさえもが夜には止まらないのだ。  むろん、最初の列車が到着するのは、夜が明けて太陽が顔を出してからである。  だがさすがに、駅には宿直の者ぐらいはいるのではないか。私は、そう考えた。  刑事は、小さくかぶりをふって答える。 「宿直をしていた駅員は、誰も来なかったと言っています。……むろん彼も、夜になると外に出ない。駅構内にある宿直室にずっといたと言っていますから、ご友人が駅に入って来たとしても、それ自体には気づかなかったかもしれませんな」 「駅の宿直なのに、構内を見回ったりしないんですか?」  私はいささか呆れて問うた。 「見回りは、日が落ちる前に行っているようですな。構内といっても、完全に外と切り離されているわけではないですからな」  答えて刑事は、駅ができたばかりのころ、宿直していた駅員が行方不明になって以来のことだと付け加える。  その話に私は、改めて困惑した。  この街はまるで、霧とその中に棲むという何者かに支配されてでもいるかのようだ。  そのあとも私は刑事から、できる限り事件に関する話を聞いたが、結局何も得るところはなかった。  そう、昨日、フロント係の青年から聞いた以上の収穫はなかったのだ。  次に私は、警察がこれでは駅で得られる情報は何もないに違いないと思いながらも、予定どおり駅に向かった。  駅ではちょうど当時宿直だったという駅員と会うことができたが、やはり新しい情報はなかった。警察で聞いたとおり、彼は当日の夜、駅には誰も来なかったことを告げると共に、自分は日が暮れたあとは宿直室から一歩も出なかったと続けたばかりだった。  駅を出ると、私はその近くにあるレストランへと入った。  すでに昼を少し過ぎたところで、空腹を感じていたためだが――それ以上に私は途方にくれていた。  ロンドンを出る時、私はこの街へ実際に来て警察で話を聞けば、少しは詳しいことがわかると信じていたのだ。  それなのに、これではロンドンを出る前とさほど変わらない。  ……これから、どうすればいいのだろうか。  食事をしながら、私は考えを巡らせた。  そして、食べ終わるころに考えついたのは、友人がたどったであろう道筋を同じ時間にたどってみよう、ということだった。  彼がホテルを出た時間については、最後の目撃者である警備員のルクスの言葉から、だいたいのところがわかっている。  ホテルから駅に向かう道筋については――細かい路地などを使えばきっと、いくつかあるのだろう。だが、友人はこの街の人間ではないし、もちろんこの街に特別詳しかったわけでもない。つまり、ホテルから駅に向かう大通りを使った可能性が高い。  同じ道筋を同じ時間にたどってみたところで、手がかりなどないのかもしれない。  ましてや、彼が姿を消してから半年も過ぎているのだ。  だがそれでも、これぐらいしか方法がないのだと、私は心に決めていた。  その夜。  私は友人が出発したのと同じ時間に、ホテルをあとにした。  警備員のルクスには、やめた方がいいと止められたが、私はその制止をふりきり、外に出る。  建物の外は、一面乳白色の濃い霧におおわれて、たしかに自分の踏み出すつまさきさえ見えないありさまだった。  それでも、昼間、頭に叩き込んだ地図を思い出しながら、駅に向かって歩き出す。  しばらく歩いていると、すぐそばをゆっくりと黒い影が通り過ぎて行くのが見えた。 (……通行人がいる? 夜は誰も外に出ないんじゃなかったのか?)  私は思わず眉をひそめる。  しばらく行くと、また人影らしいものが近づいて来るのが見えた。 「こんばんわ」  私は、思い切って声をかけてみる。  だが相手は立ち止まることも、ふり返ることもなく、そのまま私の横を通り過ぎて行った。 (聞こえなかったのか? それとも、夜外に出ていることを知られたくなくて、聞こえないふりをしたのか?)  私は更に眉をひそめて、その人影を見送る。  そのあとも、何回か人影とすれ違ったが、やはり声をかけても反応はなかった。  そうやって歩き続けるうち、右手にぼんやりと駅らしい姿が見えて来た。  駅の建物は、まるで濃い霧の中でも見分けやすいようにと配慮されているかのように、全体が黒いのだ。  そして、まるでその駅への道標でもあるかのように、右手の曲がり角には一本だけ黒く塗られた街灯が、水銀灯の白い光を放っている。  私はその光に導かれるかのようにその角を曲がり、今度は正面に見えるようになった駅の黒い影を見据えながら進んで行った。  やがて、駅舎の前へとたどり着く。  だがそこも、乳白色の霧に包まれていて、何も見えなかった。  いや……駅の前に、人影があった。 「こんばんわ」  私は、また無視されるだろうかと思いながら、声をかけた。  と、その人影がこちらをふり返る。 「ダグラス! ダグラスじゃないか!」  人影は、私を見るなり声を上げた。  その声は、忘れもしない、友人のものだ。 「テッド、君なのか?」  私は半信半疑で問い返し、そちらに駆け寄る。  だが、すぐ傍まで寄っても、彼の顔は見えなかった。  いや、顔だけではない。着ている服も帽子や靴も、全て黒い影のままだ。 (……いったい、どうしたわけだ?)  私は訳がわからず、顔をしかめる。  いくら霧が濃いといっても、相手はすぐ近くにいるのだ。顔や衣服の見分けぐらいは、つくはずだ。  私は、手にしていたランタンをそちらにさしつけようとした。 「やめてくれ、ダグラス。明かりはだめだ」  それへ友人が鋭く制止する。 「なぜだ? このままじゃ、君の顔が見えない」 「明かりを向けても、見えないよ」  問い返す私に、彼は言った。 「ぼくはもう、君と同じ世界の人間ではないからね」 「同じ世界の人間じゃない? いったい、どういうことだ」  驚いて私は、問い返す。  彼は小さく肩をすくめて言った。 「ぼくは、この街の人々の言うところの『人でないもの』になってしまったのさ」 「人でないもの……」 「ああ。……あの日、駅に落としものを探しに行ったぼくは、ここで『人でないもの』にでくわした。もっとも、その時には駅員だと信じていたけれどもね。落としもののことを話したら、一緒に来いと言って手を取られて――気づいたらぼくも、同じものになっていた」  淡々と語る彼に、私は思わず尋ねる。 「人でないものとは、いったいなんなんだ?」 「さあ、なんなんだろうね。……ぼくを引き込んだ人は、人間だった時は駅員だったらしいよ。毎日、構内と駅の周辺を巡回してる。彼とはたまに話すけど、それ以外の人とは会っても話したことはないんだ。たいていの人は、自分のことに夢中だから」  また肩をすくめて、彼は答えた。 「自分のことに夢中?」 「そう。……ただ街の中を歩き回っていたり、何かや誰かを探していたり、ずうっと誰かや何かを呪い続けていたり、腹を立てていたり……ね。人間に戻る方法を探し続けている人もいるよ」  彼は言って、小さく笑う。 「君は、何をしているんだ?」 「落としものを探しているんだ」  みたび問えば、彼はさらりと答えた。 「妹への土産をね、うっかり駅で落としてしまって」  この街に降りる前、たまたま乗り換えのために降り立った小さな街で、彼は妹への土産に真珠のブローチを買ったのだという。  ブローチは、小さな箱に入っていて、彼はそれをいつもの癖で、コートのポケットに入れていたのだそうだ。  この街の駅に降り立った時、彼はコートを脱いで腕にかけていた。どうやらその時、ブローチはポケットからころがり落ちたらしい。  すでに日が落ちてからそのことに気づいた彼は、慌てて駅へと向かったというわけだ。 「……そうだ。君、よかったらぼくの落としものを探してくれないか? 見つけたら、妹に届けてほしい。ぼくにはもう、無理みたいだから」  ふいに思いついたように、彼が言う。 「それはかまわないが、君は戻って来られないのか? その……たとえば、探しものがみつかったら、人間に戻れるとかじゃないのか?」  私は、思わず言った。 「どうだろうね」  彼は、寂しげに笑って返す。 「元駅員の彼はね、最初に会ったころより、口数が少なくなってるんだ。……少ないっていうか、人間の言語を忘れて行っているみたいな感じだね。時々、ぼくのことがわからないこともあるし。他にも、ずうっと同じ場所にぼんやり立ってるだけの人とかもいるから……きっと、時間が経つと完全に人間とは違うものになってしまうんじゃないかとぼくは思ってる」 「そんな……」  私は、愕然として呟いた。  目の前にいる彼は、私の知っていた彼と少しも変わらないように感じる。  おちついた口調で話し、時おり小さく笑うその仕草も声音も、以前のままだ。  二目と見られない化け物になったわけでも、人の言葉が通じない魔物になってしまったわけでもない。  ただ、影のような姿に変わってしまっただけだ。  それさえ元に戻ればきっと、人に戻れるのではないのか。  そんなふうに思えるのに。 「いったい、どうして……」  思わず口から出た呟きに、彼は困ったような顔をする。 「さあ……。ぼくにも、よくわからないんだ。元駅員の彼と言葉を交わしてしまったせいかもしれないとも思うけど……違うのかもしれない。ただぼくは霧の中、気がつくとここにいて、落としものを探しているんだ」  人に戻る方法はないってことなのか……。  私はまた、愕然として思う。  おそらく、そんな方法があるならば、この街の人間はあそこまで夜外に出ることを厭いはしないだろう。  私がそんなことを考え、呆然と立ち尽くしていると、ふいに霧が先程からよりもなお濃く渦巻き、まるで私と彼の間を遮るかのように視界を真っ白に埋めた。 「テッド!」  私は思わず、友人の名を呼ぶ。 「ダグラス。妹に……」  彼が、かすかに私の名を呼び、何か伝えようとしているのが聞こえた。  だが、言葉は聞き取れない。  やがて、全てはどこまでも白い霧に飲み込まれ、何も見えなくなった――。  私は、そのまま意識を失っていたらしい。  気がついた時には、あたりはすっかり明るくなっていて、心配そうな顔の駅員が私の肩をゆすぶっていた。  場所は、駅の玄関口へと続く低い階段の一画だった。  駅員によれば、私はその階段に座り込んだまま意識を失って――というか、眠っていたという。  私は駅員に礼を言って立ち上がり、ホテルに向かって歩き始めた。  ホテルに戻ると、従業員たちはみな、驚いた顔で出迎えてくれた。  おそらく、私も友人同様に二度と戻らないと思われていたのだろう。  ホテルで朝食を取りながら、私は昨夜のことを思い返してみた。  何もかもが、夢だったような気がする。  だが一方で、夢にしてはひどく鮮明で生々しかったとも思う。  食事のあと、私は部屋でしばらく眠った。  改めて起きて、ようやくすっきりした頭で、このあとのことを考える。  これ以上、この街にいてもしかたがない、と思った。  ただ、友人の落としものはできれば探してやりたい。  私はホテルを引き払い、再び駅へと向かった。  半年も前のものがあるだろうかと思いながらも、とりあえず駅で、落としものについて尋ねる。  すると。 「もしかして、これではないですか?」  さほど迷うことなく言って、窓口の駅員は小さな箱を差し出した。 「今朝、同僚が玄関前の階段で拾ったと持って来たものです。……階段の所で眠っていた男性がいたので、その人のものではないかと言っていました」  言われて私は、思わず目を見張る。  それはまさに私のことだが、当然その時私は友人の落としものを手にしてはいなかった。  中を確認するよう言われて、私は箱を手に取り、蓋を開ける。  ビロードの台の上に収められていたのは、大粒の真珠があしらわれた銀細工の花のブローチだった。  友人は、どんな形のものだとも言っていなかったけれど、おそらくこれに違いないと不思議な勘が働いて、私は思った。 「……これです。ありがとうございます」  うなずいて、私は箱の蓋を閉める。  ブローチの入った箱を手に、私は改札を通ってホームに入った。  ロンドンに帰ったら、彼の妹に私の見たもの聞いたものをありのままに話そう。そして、この箱を渡してあげよう。  そんなふうに思いながら。  ほどなくやって来た列車に、私は乗り込む。  やがて動き出した列車の窓の向こうに遠ざかって行く街は、霧一つなく明るく晴れ渡っていた。  だが、私のまぶたの裏には、霧の中をゆっくりと通り過ぎて行く黒い影と、もう戻れないのだと笑った友人の顔がいつまでもこびりつき、離れないのだった――。
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