Mochizuki's Circle
第3話 忌み児たち
 一八九四年の初夏。  僕は、十二年ぶりに故郷の街メサイヤのセイン駅のホームに降り立っていた。  同じように列車から降りた客の姿はまばらで、誰もみな、足早に改札口へと向かって行く。  その客たちの何人かは、僕を見ると驚いたように足を止め、目を見張り、それから何か見てはいけないものを見た時のように目をそらして、そそくさと歩き去って行く。  彼らがそんなふうにふるまうのは、僕の燃え立つような赤い髪のせいだ。  この街では、僕のこの髪は忌まわしく、不吉なものの象徴なのだった。 『この街の連中は、相変わらずだな』  隣に立つ双子の兄のアビスが、呆れたような嘲笑うような口調で言った。 「……しかたがないよ。この街ではこんな色の髪は不吉だと思われているんだもの」 『おかげで俺たちは、この街から追い出されて、十二年も異国の寄宿舎でくらすハメになった』  僕の言葉に、アビスは小さく鼻を鳴らして返す。 「それは……そうだけど……」  僕は、歯切れ悪く言って、小さく唇を噛んだ。  そう。僕は、この燃えるような赤い髪を忌み嫌われて、六歳の時にドイツの寄宿学校に入れられ、一度も帰ることなく十二年間をそこで過ごした。けれどこの年、僕は卒業した。  卒業後にドイツの大学に通う道もあったし、もちろんそこでそのまま就職して生きて行く道もあった。  けれど。 『戻っておいでなさい』  卒業前、僕の後見人であるアッシュローズ女伯爵ベアトリス様から来た手紙には、そうあった。 『メサイヤの街に一度戻り、将来のことをゆっくり自分の意志で考え、決めても悪くはありませんよ。いえ、あなたには、その権利があります。だから、戻っておいでなさい』  と。  その手紙を見て、アビスも言った。 『俺も、戻るのに賛成だ。……あの時のおまえは、街を出る以外どうしようもなかった。子供で、守ってくれる者もいなかった。けど今は違う。おまえは、十八の大人で、理不尽なことを吹っかけて来る大人とだって、それなりに渡り合えるだろう。なに、嫌になったら、今度こそ自分の意志で出て行けばいいんだ』 「そう……。そうだね」  僕はうなずき、それでも数日悩んで、結局戻ることにしたのだった。 「カーマイン様」  改札を出たところで、僕は呼び止められた。 「ラドックさん」  ふり返った僕は、そこに立つ初老の紳士を見やって思わず顔をほころばせる。  そこにいたのは、アッシュローズ伯爵家の執事ラドックさんだった。 「ご卒業おめでとうございます、カーマイン様。お迎えに上がりました」  律儀に姿勢を正し、頭を下げて言う彼に、僕は笑顔で言葉を返す。 「ありがとうございます、ラドックさん」  彼は――いや、彼だけでなく、アッシュローズ伯爵家の使用人たちは皆、僕がまるで伯爵家の人間であるかのように、恭しく接してくれる。  今も、荷物を持とうとしてくれて、僕は慌てて辞退した。  それへ苦笑して、ラドックさんは先に立って歩き出す。  僕と――相変わらず隣で肩を並べるアビスも、それに従って歩き出した。  もっとも、アビスの姿はラドックさんには見えていないけれど。  彼だけでなく、他の誰にも――たぶん、アビスの姿が見えて声が聞こえるのは、僕だけだ。  アビスの体は、十四年前に壊れてしまったんだ。  そう、十四年前の僕たちがベアトリス様とその父、パトリック様に救われたあの日に。 + + +  一八八〇年の冬。  このメサイヤの街は、例年にない厳しい寒さに見舞われていた。  貧民街では朝になるたび凍死した死体が見つかり、裕福な者たちは昼間でも温かい家の中でじっと息をひそめて過ごしていた。  僕とアビスは、当時四歳の子供だった。  父と三人で、ダウンタウンのはずれにある小さなアパートで暮らしていた。  母は僕たちが生まれてすぐに、亡くなったらしい。  父は、ダウンタウンのすぐ隣のウォーター地区にある大きな酒造会社で働いていた。 「本当はもっといい所で暮らせるんだ。それだけの金はある。だが、あいつの思い出のあるここを、出て行きたくないのさ」  というのが酒に酔った時の父の口癖だった。  朝早くから仕事に出かける父は、いつも僕たちのための朝食を用意してくれていた。  僕たちが起きてそれを食べ終えたころに、近所のノラおばあさんが迎えに来てくれて、僕たちは父が帰るまで彼女の家で過ごすのが日課だった。  父が休みの日は、僕たちは三人で朝食を取って、自宅で一緒に過ごす。  夕方になると父は僕たちを連れて、大通りにあるレストラン『サンシャイン』に向かい、そこで食事をしながら自分は酒を飲む。  物心ついて以来、僕たちはずっとそうやって暮らして来た。  けれど、その日の朝は違っていた。 「カーマイン、起きろよ。カーマイン」  どこか苛立ったようなアビスにゆすぶられ、僕は目を覚ました。 「アビス、どうしたの」  眠い目をこすりながら、ベッドから身を起こして尋ねる僕に、アビスは言った。 「父さんが、いないんだ」  真剣な口調だったけれど、僕にはそれがどういうことか、ピンと来なかった。  当時の僕たちは、小さな子供部屋に据えられた二段ベッドで寝起きしていた。アビスが上段で僕が下段だ。  朝はいつも、アビスの方が起きるのが早くて、彼が半分ほど着替えたか、あるいは着替え終わったあたりでようやく僕は起きる。  でもその日の朝は、アビスはすでに服を着替えて洗顔も済ませているみたいだった。  なのに、真っ赤な髪はくしゃくしゃで、鼻の頭に汗をかいているのが見えた。  あとで僕は、それが家中父を探し回っていたせいなのだと知ったけれど、その時にはそんなことは考えもしなかった。 「仕事に行ったんじゃないの?」  僕は、よく考えもせずに行った。途端に、アビスは顔をしかめる。 「バカ! 今日は休みだって、昨日言ってたじゃないか。とにかく、起きろ」  言われてみればそうだったと思い出し、僕はようやくベッドを出て着替え始めた。  苛々しながらそれを待っていたアビスは、僕が着替え終わると引きずるようにして、子供部屋を出る。  そのあと僕たちは、家中を二人で見て回った。  父の寝室にリビング、キッチン、洗面所、母のものをしまってある小さな納戸に、トイレやシャワー室まで。  でも、父の姿はどこにもなく、家の中はただしんと静まり返っているばかりだった。  ただ、キッチンのテーブルの上には、いつものように僕たち二人分の朝食が用意されていた。 「……父さん、やっぱり仕事に出かけたんじゃないのかな。昨日は休みだって言ってたけど、急に予定が変わって、仕事になったんだよきっと」  僕はそれを見て言った。 「だったら、印を置いて行くはずだろ」  眉をひそめて、アビスが言う。  父は、字の読めない僕たちのために、いろんな『印』を考え出した。  たとえば、帰りが遅くなる時にはキッチンのテーブルの上に、赤いハンカチが置いてあるのだ。  突然仕事が入った時は、会社で作っている酒のラベルが『印』で、同じようにテーブルの上に置かれているのが常だった。  でもその日のテーブルの上には、どこにもそれはない。 「すごく急いでいて、『印』を置く暇もなかった……とか」  僕は、じわじわと横腹が痛くなるような奇妙な不安を感じながら、それでも笑って言った。 「……どう、かな」  アビスは、何かを考える目になって、呟くように言う。  だがともかく、僕たちはどちらからともなく、食事しようという話になった。  空腹だったし、火の気のない室内は、ひどく冷え始めていたからだ。  僕たちは、まだ温かい鍋のスープをそれぞれ皿によそい、食事を始めた。  けれど、食事が終わっても、ノラおばあさんが迎えに来る気配はなく、僕たちの不安はますます強くなって行った。  どれぐらい時間が過ぎたころだろうか。  アビスが言った。 「父さんを、探しに行こう」 「でも……」  僕はためらう。  だって、探すって、いったいどこを?  それに、父はただ仕事に行っただけかもしれないじゃないか。ノラおばあさんが来ないのは、父が慌てすぎておばあさんに話すのを忘れたとか、おばあさんが持病のリュウマチで家から出られないとか、そんな理由かもしれないじゃないか。  そんな僕の気持ちは、アビスにも伝わったらしい。 「まずノラおばあさんの所に行って、父さんから何か聞いてないか尋ねて、それから……マチスさんの所に行ってみよう」  そう言った。  マチスさんは、父と同じ会社で働いている人だ。  この近くに住んでいて、僕たちも何度か会ったことがある。昨日父さんが、今日はマチスさんも休みだから、午後から一緒にポーカーをやると話していた。  きっと、アビスはそれを思い出したのだろう。  僕たちは、二人で手を取り合うようにして、家をあとにした。  ノラおばあさんはいつもどおり、元気な姿で家にいたけれど、父からは何も聞いていないと言った。  マチスさんは、僕たちの話を聞いて、わざわざ会社に電話をして父が仕事に来ているか訊いてくれたけれど、その結果わかったのは、父は会社にいないということだった。  それを聞いて、僕たちの不安はますます募って行った。  僕たちはそのあとも、父が行きそうな所を訪ねて歩いた。  行きつけの居酒屋やレストラン『サンシャイン』、近所のパン屋さんなどなど。  けど、どこにも父の姿はなくて、誰も父を見たという人もいなかった。  そうするうちにあたりは、暗くなって来た。 「アビス……。どうしよう……」  途方にくれて彼を見つめる僕に、アビスは僕の手をぎゅっと握って言った。 「とにかく、家に戻ろう」 「……うん」  そうだ。僕たちができることは、実際もう、それぐらいしかなかったのだ。  僕たちが帰ると、家の中は真っ暗で、朝でかけた時のままだった。  父が一度でも帰って来た気配はない。  そこへ、僕たちのことを心配して、ノラおばあさんがやって来た。火の気の消えた暗い家の中を見て、おばあさんは僕たちに自分の家に来るよう言ってくれた。  でも、僕たちはそれを断った。  だって、もし父が戻って来て僕たちがいなかったら、きっと心配するだろうと思ったから。  それを聞いておばあさんは、それじゃあと、温かいスープとパンを僕たちのために持って来てくれた。  これは、心底ありがたかった。だって僕たちは二人とも、すっかり冷え切ってしまっていた上に空腹だったのだから。  それから何日が過ぎても、父は戻って来なかった。  僕たちは最初、家に残っていた食料やノラおばあさんが持って来てくれるもので、なんとか食いつないでいた。  食料が尽きると、家の中をあちこち探してみつけたお金で、パンや調理しなくても食べられる果物を買った。  でも、日にちが過ぎるにしたがって、お金はなくなって行き、そしていつの間にかノラおばあさんも僕たちの様子を見に来なくなった。  これについては、ずっとあとになってグレン・タイドウに脅されて、しかたなくやめてしまったのだと教えられた。  グレン・タイドウは、この街の名士だ。  この街が、アッシュローズ伯爵家の領地になる以前からいた市民の中でも古い家柄で、当時は市長をやっていた。  この街の古くからある因習の数々を信じ、守り続けている人々の一人……というか、その頭だと言ってもいいだろう。  これもあとで知ったことだけど、僕たちが生まれた時、グレンは両親に僕たちのどちらか一方、あるいは二人ともを街の外に捨てて来るように言ったのだそうだ。  なぜって、多胎児は不吉だから。ましてや、忌まわしい赤い髪を持つ僕たちは、不吉中の不吉。このまま街におけば、きっと災いを招く――そう彼は言ったんだそうだ。  でも両親はそれを断った。  そのあと母が死んで、グレンはそれも僕たちのふり撒く災いの一つだと言った。  当時の父は、怒ってそんなグレンを追い出したらしいけれど、その後も彼からの脅しや嫌がらせは止まなかったらしい。  ともあれ。  そうやって大人たちから見捨てられた僕たちは、食べるものもなくなり、薪も底を尽き、凍ったように寒い家の中でたった二人、身を寄せ合って何日かを過ごした。  そんな中、街に大雪が降ったんだ。  何もかもを真っ白に埋め尽くして、凍り付かせてしまうような大量の雪が。  僕とアビスはベッドの上でかき集めた毛布をまとい、二人で身を寄せ合ってなんとかその寒さを凌ごうとした。  けど、何日もまともに食事していない僕たちの手足は氷のように冷たくて、どこにも熱なんてないありさまだった。 「カーマイン、眠っちゃだめだ」  ふっと意識が遠のいて行きそうになる僕を、アビスがかすれた声で呼び覚ます。  でも次第にその声も小さくなり、僕の意識はそのまま引きずり込まれるかのように、暗がりの中に落ちて行った。  次に目が覚めた時に僕がいたのは、アッシュローズ伯爵邸の一室にあるベッドの上だった。  もっとも、目覚めた時にはそこがどこで、いったい何がどうなっているのか、全然わからなかったけれど。  その僕に、優しく僕があのあとどうなったのかを説明してくれたのは、ベアトリス様の父のパトリック様だった。 「君たちのことを教えてくれたのは、ダウンタウンの教会のマイク神父だよ。話を聞いて私は、執事と下男を連れて君たちの家に向かったんだ」  マイク神父の名前に僕は、きっとノラおばあさんが神父に話してくれたに違いない、と思った。  僕たち一家は、日曜ごとにきちんと礼拝に通っていたけれど、マイク神父はグレン・タイドウと同じで僕たちのことを嫌っていた。  他の子供たちには笑顔で話をするのに、僕とアビスには声をかけてくれたこともなかったし、父に対しても尊大な態度だった。  今になって思えば、当時父が消えたことはすぐに近所の人たちには知られていたに違いない。  ましてや、ノラおばあさんは善良な人だったから、僕たちが子供二人だけでとても困っていることを神父に話さないはずはなかった。  けれど結局、彼は僕たちに救いの手をさしのべようとはしなかったのだ。  距離からいえば、パトリック様たちよりも神父の方がよほど近い場所にいる。なのにあの大雪の日、彼は直接僕たちを助けるかわりに、ダウンタウンから離れた場所にあるこの屋敷に来て、ベアトリス様とパトリック様に僕たちのことを話したのだ。  きっと彼からしてみれば、それでも僕たちに対する最大の譲歩だったのかもしれないけれど。  ともあれ僕は、そのおかげであの外と変わらない寒さの家から助け出され、温かなこの屋敷のベッドに横たえられ、死の淵から救い出されたのだ。  そう、少なくとも、僕は。 「……残念だが、君のお兄さん、アビスは助からなかったんだ」  僕が助けられたいきさつを語ったあと、少し間を置いて、パトリック様は言った。 「え……? でも……」  僕は、その言葉にとまどう。  だって、僕の目にはその時、パトリック様の隣に立つアビスの姿が見えていたから。 『カーマイン、残念ながら、俺の体はダメだったみたいだ』  そんな僕に、アビスが話しかけて来た。 『俺の体は壊れて、この人たちに土の中に埋められてしまった。今の俺は、魂だけの存在だ。だから、たぶん他の人には見えないし声も聞こえないんだと思う』  驚いて、目を丸くしている僕の頭に、パトリック様の手がそっと乗せられた。 「心配はいらないよ。これからは私が君の後見人だ。……もちろん、お父さんの行方も探させるから、今はただ元気になることだけを考えていなさい」  そうしてパトリック様は僕の体に布団をかけ直すと、静かに部屋を出て行った。  誰もいなくなると、僕は改めてアビスの方へと目をやった。 「魂だけの存在って……アビスは、幽霊になってしまったの?」  尋ねる僕に、アビスは苦笑する。 『たぶん、そういうことだろうな。俺にも、そのあたりは、よくわからないや。ただ、おまえを一人で置いて行けないって思ったら、いつの間にかこんなことになってたんだ。……大丈夫だ。俺はずっと、おまえの傍にいるから』 「うん」  僕はうなずいた。  幽霊だって言われても、怖くはなかった。  むしろ、生まれた時から一緒のアビスが傍にいてくれることに、安心感さえ覚えていた。  僕がドイツの寄宿学校に入ることになったのは、その二年後のことだ。 「ごめんなさい。わたくしに力がないばっかりに……。あなたを命の危険にさらさないためには、もうこの方法しかないの」  自分の居間で、寄宿学校のことを告げたあと、ベアトリス様はそう言って僕に謝ったものだ。 「それって……」  驚く僕に、同室していたパトリック様が付け加える。 「この二年間、グレン・タイドウは君を街から追い出せと、ずっと言い続けていたんだよ。カイレン大司教に引き渡し、悪魔の手先かどうかをはっきりさせろともね」 「そうですか……」  僕はそれで、納得してうなずいた。  カイレン大司教はこの地方を統括する教会の大司教で、グレンとは縁戚関係にあって仲がいい。そして、魔女として告発された人々を調べる異端審問官でもあった。  それにしても……と僕は思う。  グレンはどうしてそこまで、街に伝わる因習を信じ、僕を不吉な存在だと信じ続けているのだろう。  伯爵邸でくらすようになって僕は、地上にはいろんな髪の色や肌の色の人間がいることを知った。  僕の髪の色も、この街では珍しいけれど、イギリス全体ではそんなに珍しいものではないらしい。  僕がそのことを問うと、パトリック様はこの街の歴史について教えてくれた。  それによれば。  四百年ほど前、この街は一度滅びたのだそうだ。  当時、この街に魔女の疑いをかけられた貴族が逃げ込んだという噂が立った。  実際には、その貴族が逃げ込んだのは隣の街だったのだけど、当時のこの街の領主ライアド伯爵とロンドンの教会を牛耳る大司教は仲が悪くて、大司教はライアド伯爵を陥れるためにその噂を鵜呑みにしたふりをして、街に軍隊を差し向けたのだという。  その結果、伯爵は魔女をかくまった罪で投獄され、街は住民ともども火をかけられて燃やされるという恐ろしい運命にさらされた。  街はそののち廃墟となって、怪異の噂がいくつも流れ、次第に人の近づかない場所になって行ったそうだ。  それを再び都市として復興させたのが、代々、女性が当主を務めるアッシュローズ伯爵だった。  二百年前、「女が伯爵だなんてあり得ない」と侮辱された当時のアッシュローズ女伯爵は、伯爵にふさわしい力を示せと復興の命を下した王の期待に見事に応え、この街を見事によみがえらせた。  そしてここは、アッシュローズ伯爵家の領地となった。  ただ、この街には今も、四百年前に焼き殺された当時の市民たちの怒りや恨みの念がそのまま残っていて、さまざまな怪異を巻き起こし続けているのだともいう。  たしかに僕も、父やノラおばあさんから怖い話をいくつか聞かされた覚えがある。  たとえば、霧の夜には外に出てはいけないと。  霧の中には人ではない何かが潜んでいて、人間を襲ったり、時にはどこかへ連れて行ってしまうからと。 「でも、夜になると、いつも霧が出ているよ?」  その話を聞いた時、僕は思わずそう問い返したものだ。  実際この街は、霧が多い。海に面しているのと、周辺に湿地帯があるのが原因だとは思うが、夜になると窓の外が見えないほど濃い霧に包まれることも、珍しくはなかった。 「そうさね。だから、夜は外に出てはいけないということさ」  ノラおばあさんは、そんなふうに言っていたものだ。  もっとも、ノラおばあさんが僕たちに気兼ねして、教えてくれなかった話もある。  この街では、双子や三つ子などの多胎児や、極端に赤い髪や黒い髪の者、黒や褐色の肌の者は忌み嫌われるということを。  それを僕が漠然と知ったのは、休日に父に連れて行かれたレストランでの周囲の客たちの反応からだ。  パトリック様は、言った。 「……ほんの五十年ぐらい前までは、多胎児は一人を残して全員殺すか街の外に出すのが、暗黙のルールとされていたんだよ。また、赤毛や黒髪、黒や褐色の肌の者は殺されるか街から追い出されるかするのが、普通だった。いや、それ以外でも、街の人々から異端であると決めつけられると、追い出されたり、ひどい仕打ちを受けることが当然のことのように、あった」  そして、小さく溜息をつく。 「タイドウ氏は祖先を遡れば、廃墟となる前のこの街の領主だったライアド伯爵家の傍流に行きつく人物でもある。だから、この街への思い入れも、人一倍強いのだろうね」 「なにしろ、わたくしのことでさえ、生まれた時に黒髪であるのを見て、街の外の修道院に入れろと言ったぐらいですからね」  ベアトリス様が、肩をすくめて付け加えた。 「……そんなことを……」  僕は、あまりの徹底ぶりに、言葉をなくす。  だって、ベアトリス様は生まれた時から、この伯爵家の跡継ぎだ。  そんな方に、そんなことを言うなんて。 「もちろん、私も妻もそんな言葉に従ったりはしなかったけれどもね」  パトリック様は、苦笑と共に言う。そして、小さくかぶりをふった。 「だが、今度は断りきれなかった。彼は、そもそも君の父親が姿を消したのも、君たちが呪われた子供だったからだと言い張るんだ。それに、カイレン大司教の元に送られれば、君は確実に魔女として告発され、処刑されるだろう。それよりはまだ、寄宿学校に行く方が、ずっといい選択だと私たちは考えたのだよ。すまないが、この決定に従ってもらえるかね?」 「……はい」  問われて僕は、うなずいた。 「僕にとってはそれは、願ってもないことです。だって、僕のような者が、外国の学校で学ぶことができるなんて、なかなかない機会だと思いますから」  それは、本心だった。  伯爵家でくらすうち、僕はなんとなく、父が酒に酔ってよく言っていたことは、ただの夢だったのだろうと思うようになっていた。  たぶん実際には僕たち一家は、それほど裕福ではなかったんだと思う。  本当に裕福だったなら、父はきっと僕たちを連れてこの街を出ていたに違いないと思うのだ。  また、日中、父のいない間はメイドを雇うことだってできたと思う。  でも父は、どちらもしなかった。  ちなみに、父の行方はいまだにわかっていない。  もしかしたら、父はもうとっくに死んでいる――誰かに殺されて、どこかに埋められているか、海の底にでも沈んでいるんじゃないかって気が、僕はしている。  ともかく僕は、こうしてメサイヤの街を離れ、遠くドイツの寄宿学校で学ぶことになったのだった。 + + +  駅のコンコースを出ると、駅前の車寄せに止められた伯爵家の馬車に、僕はラドックさんと共に乗り込んだ。  もちろん、アビスも一緒だ。  僕たちが乗り込むと、馬車はゆっくりと走り出した。 「お荷物は、すでに屋敷に届いておりますよ。……お部屋は、以前と同じ場所に用意させていただいております」  ラドックさんが言って、改めて僕を見やる。 「それにしても、本当に大きくおなりになって。……ご主人様がご覧になったら、きっと驚かれますでしょう」 「……そうだね」  僕は、穏やかにうなずいた。  ベアトリス様もきっと、ずいぶんと美しくおなりに違いない。  僕は、少しだけ逸る気持ちを抑えながら、外を流れる景色にただ目をやった。
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