バビロンプロジェクト
第4話 アビス
 屋敷の中に入って、アビスは小さく吐息をついた。  いつもよりも濃い霧が渦巻く夜。『人でないもの』の気配を察して彼は、弟の体を借りて外に出た。  そこで出会ったのは、死んだ自分の子供を探し続ける母親の成れの果て――自分が死んだことも、『人でないもの』と化したことも忘れて、ただ子供たちを探し続ける哀れな女だった。  女は一応記憶を取り戻したようだが、あくまでも自分の妄執にすがりつくことを選んだらしい。 「それもまた、一つの道だよな」  呟いて、彼は薄く口元だけで笑う。  そもそも、自分にあの女をどうこう言う資格があるのだろうか、とも彼は思うのだ。  なにしろ彼もまた、死者だという点では彼女と変わらないのだから。  そう、彼、アビス・カーバンクルは十四年前にすでに死んでいた。  双子で赤毛という、この街の禁忌を二重に背負って生まれた彼と弟のカーマインは、生まれてすぐに母を失い、父親に育てられた。  だがその父も、二人が四つの時に突然姿を消した。  大人の助けを借りることがほとんどできなかった二人は、次第に食料もそれを手に入れるための金も尽きて行き、とうとうある大雪の日に寒さと飢えで瀕死の状態に陥った。  神父から知らせを受けた領主、アッシュローズ伯爵家の者たちによって、窮地を救われたものの、それはアビスには遅すぎるものとなった。  そう、同じように助けられたものの、アビスの肉体は冷たくなったまま、息を吹き返すことがなかったのだ。  けれど、魂は神の元に行くことを拒んだ。 「……アビス、君は神様の御許に行くつもりは、ないらしいね?」  弟以外の目に見えることがなくなったはずのアビスに、そう問うたのは、アッシュローズ女伯爵ベアトリスの父、パトリックだった。彼は、優秀な神学者であると共に霊能力の持ち主でもあって、霊を見たり話したり、場合によっては追い払ったりすることもできる人物だったのだ。 『だって、あいつをほっとけないだろ。俺たちは、この街じゃ異端児なんだ』  アビスは、そう返したものだ。 「これからは、我々アッシュローズ伯爵家の人間が、彼を守るよ」  パトリックはそれへ、穏やかに言った。 『ああ。そのことには、感謝する。だが、この街に古くからいるグレンのような人間は、たぶん、伯爵家の御威光なんぞ、へとも思ってないだろう。だから、やっぱり俺はあいつの傍にいるよ』  アビスは再び返した。  その言葉に、嘘はなかった。  この街の名士であるグレン・タイドウは、彼ら兄弟を生まれた時から目の仇にしていた。古くからの街の住人は、グレンに賛同する者も多い。また彼らの多くは、心底ではアッシュローズ伯爵家を街の領主と認めていない。  そんな中に、弟を一人残して行くのは、彼にはためらわれることだったのだ。  彼の言葉を聞いて、パトリックは小さく吐息をついた。 「大人びたことを……。まあいい。だが、もし君が他人をむやみと傷つけるようなことをするなら、私が力づくで神の御許に追い払うからね。そのことを忘れないでいなさい」 『ああ』  釘を刺されて、アビスはうなずいたものだ。  そのパトリックも、今はもういない。八年前に病を経て亡くなった。  アビスとカーマインはその時、ドイツの寄宿学校にいた。  彼らが助けられた二年後、グレンからのカーマインを街から出すか大司教の元に送るかしろとの頻繁な催促に、とうとうアッシュローズ親子は抗いきれず、カーマインをドイツの寄宿学校にやることにしたのだった。  だがそれは、カーマイン自身が考えたとおり、とても有意義なことだった。  たしかに厳しい規則や規律はあったし、生徒のほとんどは裕福な家庭の子供たちだったから、生まれについてあれこれ言われることもあった。  それでも、赤い髪を忌み嫌われることもなく、双子の兄がいたことを気味悪がられることもない日々は、カーマインにとってはずいぶんと穏やかで心安らぐものだったに違いない。  そんな弟の姿を見るのは、アビスにとっても安堵することだった。  そんな中、彼は弟が眠っている時にその体を借りるすべを覚えた。  パトリックの死は、二人にとっても衝撃だった。遠く離れてくらしているとはいえ、そのころにはすでにその人は、父にも等しい存在となっていたのだから。  だがもう一つ、アビスにとっては衝撃的な出来事が、そのあとに待っていた。  パトリックの死からほどなくして、ベアトリスから父の行方について知らせる手紙が届いたのだ。  そう、ベアトリスは二人を助けたあとずっと、彼らの父を探させていたのだった。  結論から言うと、父はすでに死亡していた。  幼かった二人は当時何も知らなかったが、手紙によると父親はずっとグレン一派からの嫌がらせを受けていたらしい。  嫌がらせは、食料品などの必要なものを売ってもらえないといったことから始まって、暴力や脅し、事実無根の噂を流すなど、さまざまだった。  ただ幸いなことに、父親が働いていた会社の社長や同僚たちはそれに与することがなく、また近所の昔から彼を知っている人々もそれまでと変わらない付き合いを続けてくれた。だから彼はまだ四年間をそこで踏ん張ることができたのだろう。  だがあの日、彼はとうとう耐えきれなくなって、双子の子供たちを置いて、街を出たのだ。  理由は、彼が働く会社が、グレン・タイドウの従弟の手に渡ったためだった。  それはまだごく内々の決定で、他の従業員たちには知らされていなかった。けれど、二人の父親にだけはそれが知らされ――彼は嫌がらせが職場でまで行われるだろうことに恐怖して、街から逃げ出したのだった。  ベアトリスは、人を頼んでこうしたことを調べさせていたのだったが、手紙にはその人物からの報告書も同封されていた。  それによれば。 「あいつらが生まれてから、俺はずっと女房の遺言どおり二人を守り、育てて来た。だが……あいつらさえ生まれなけりゃ、俺はこんな苦しい思いをすることはなかったんだ。……そう思うと、一緒に連れて街を出る気にはなれなかった」  父親は、東の小さな街で日雇い人夫として働いていたおり、同僚に酒の席でそう語ったという。  だが、それからほどなく彼はその街を出た。そのあとは、イギリス中を転々として過ごし、最後は酒で身を持ち崩して死亡した。ある日、まるで浮浪者のように、汚い路地裏のゴミの中で冷たくなっているのが発見されたそうだ。 (……どうせ、こんなことだろうと思ったよ、親父)  手紙を読み終えて、アビスは胸の中に苦く呟いたものだった。  四つの子供で、肉体があったころにはわからなかったが、そのころにはアビスも、大人たちはさまざまな顔を持っているものなのだと理解するようになっていた。  一般的には清廉潔白な人物だと思われている紳士が、実際には背徳的な趣味を持っていたり、逆に悪辣非道だと思われている人物が、実際にはとても勤勉実直な人物だったりすることなど、実はたいしてめずらしいことではないのだと、知るようになったのだ。  それは、魂だけの存在であるがゆえに、どこにでも入り込み、人々の真実の姿を目にすることができるからでもあったが、彼がまるで肉体があった時と同じように、日々成長しているからでもあった。  なので、父親が自分たちを置いて姿を消した理由に関しては、うすうすこんなところではないかと、彼なりに考えている部分があった。  ベアトリスからの手紙は、いってみればそれがただの推測ではなかったと肯定されたに等しかった。  むろん、だからといって衝撃を受けないわけではない。自分たちは捨てられたのだという苦い思いが、胸に広がって行く。  それでも。事実がはっきりして、よかったのだという思いもあった。  ただ。 (この手紙は、あいつには見せられないな)  胸に呟き、アビスは手紙を火にくべた。  そう、カーマインには見せられない。  彼の方が、人を信じる気持ちは強かった。父親のことも、いまだに「いったい何があったんだろう」と心配げに語ることがある。また、子供のころのことを、懐かしげに話したり、父親を慕っているそぶりを見せた。  そんなカーマインがこの手紙を読めば、強い衝撃を受け、深く傷つくだろう。  アビスは、彼のそんな姿を見たくなかった。  そんなわけで、カーマインは今も父が突然姿を消した理由を、知らないままだった。  自分の部屋に戻ると、アビスはもう一度吐息をついて、まとっていた上着を脱いだ。  その下は、寝間着のままだった。  上着をハンガーにかけると、広いベッドに滑り込む。 「すまないな。……おまえの体、返すよ」  低く言って、彼は目を閉じた。  弟の肉体から、アビスの魂がするりと抜け出す。  中空に浮かんだまま、彼はベッドに横たわる弟を見下ろした。  おそらく、アビスが生きていて成長したら、こんなふうだっただろうという赤毛の整った顔立ちと長身を持つ十八の少年。それがカーマインだ。  だが、その寝顔はどこか幼く穏やかで、さっきからのアビスが借りていた間の冷たさや険しさはどこにもない。 (たぶん、俺の体が壊れてなかったとしても、俺はきっとこんな顔で眠ったりはしないんだろうな……)  そんなことを思いながら、アビスはゆるやかに魂をひるがえし、弟の傍を離れて行った。