バビロンプロジェクト
第7話 パトリックの書斎
 パトリック・アッシュローズの書斎は、彼が生きていたころと変わらずきれいに整えられ、それでいてどこか図書館を思わせるようなひんやりとした空気とかび臭さに包まれていた。  カーマインはドアを閉め、室内をゆっくりと見まわす。  部屋の奥には、どっしりとした書き物机が据えられ、その後ろの壁は造り付けの書架になっていて一面びっしりと床から天井まで本が詰め込まれていた。右手奥には寝室へと続くドアがあって、左手奥には出窓がある。 (今ぐらいの季節には、パトリック様はよく、あの出窓に椅子とテーブルを持ち出して、読書を楽しんでおられたものだ……)  子供のころに見た風景が脳裏によみがえり、カーマインはふと胸に呟いた。  書き物机の前の広い空間には、テーブルを囲むようにソファや椅子が並べられており、寒い季節には造り付けの暖炉に火が入れられて温まりながら雑談を楽しんだりできるようになっている。  パトリックは友人も多く、また街の人々からも慕われていたので、カーマインがここにいた二年の間にも、そうした姿はよく見られたものだ。 (なんだか、懐かしいな……)  口元に小さな笑みを浮かべてカーマインは、室内を歩き回り始めた。  最後に、書架に歩み寄るとそこに並べられた本の背表紙に目を向ける。  文字も読めなかった子供のころにはわからなかったが、そこにあるのは各国の伝承や伝説、神話や魔術などに関する本ばかりだった。  英語で書かれたものがほとんどだったが、中には外国の文字で書かれたものもある。  また、歴史や医術、薬学などに関する本もちらほらと見受けられた。 (すごいな……。パトリック様は、これらを参考にして研究を進めていたんだ……)  小さく感嘆の吐息を漏らしながら、彼は胸に呟く。  それから少し考えて、書き物机の引き出しを開けた。そこには、古いノートが何冊か入っていた。  中を見てみると、それはどうやらパトリックが自分の研究をまとめたもののようだ。  主にこのメサイヤの街の怪異現象についての考察が書かれている。  パトリックが見聞きしたことを、時系列にまとめたノートもあった。  ぱらぱらとページを繰ってノートの中身を見ていたカーマインは、ふと手を止める。  考察の中に一つ、気になる文章があったのだ。 『「人ではないもの」は、いわゆる幽霊とは違うのではないかと、私は考えている。幽霊は、死者の魂がなんらかの未練をもって現世をさまよっているものだ。つまり、まず死者の存在が必要となる。しかし、「人でないもの」になったとされる行方不明者たちの死体が見つかったという事実は、この街の伝承にはない』  カーマインは、何度かその文章を読み下したあと、考え込む。  たしかに、子供のころに聞かされた話にも、死体が見つかったというものはなかった。  エリカの祖父にしても、一年前から行方不明だと言ってはいたが、死んだというたしかな証はないようだった。 (でも、それだとますますよくわからない気がするが……)  眉をひそめながらも、彼は更にノートを読み進める。  パトリックはその考察の中で、『人でないもの』を吸血鬼やゾンビなど、昔からなんらかの行為によって普通の人間が変化して仲間になってしまうと言われている怪物と比較し、『人でないもの』もまたそうした人を変化させて仲間を増やすものなのではないかと結論づけていた。  更に彼は、街をおおう霧が、完全なる自然現象ではないのではないか、ともそこで書いていた。 『たしかに、街の東側には湿地帯が広がっており、北側は海だ。地形や気候など、霧を発生させやすい条件は整っている。だが、数ヶ月に渡って霧を観測した結果、昼間の霧は温度や天候などに左右されており、たしかに自然現象だと言えるものだが、夜の霧は不可解な点が多々あることが判明した』  彼はそう考察を展開すると共に、実際に自分が霧を観測した時の詳細な記録もそこに載せていた。  それを見ると、たしかに夜間の霧は温度や天候をまったく無視して、常に周囲が見えなくなるほど大量に湧いていることが読み取れる。 (……こんな調査までしていたのか。だが、たしかにそうだな)  ノートを読みながら、カーマインはここに戻って来た最初の夜に、あまりの霧の濃さに驚いたことを思い出した。  ちなみに、彼が入っていたドイツの寄宿学校の周辺も、霧の多い地域だった。だが、街中であれほど濃い霧を見ることはあまりなかった。  それが、ここでは常にあたり一面が真っ白になるほど濃い霧が漂っている。 (それに、夜の霧の中に姿を消した者たちが、昼間まったく姿を見かけないというのも、考えてみれば奇妙な話だな……)  ふと、カーマインは胸に呟いた。  山中や深い森の中ならば、霧のせいで道に迷って行方不明になるというのもわかる。  ドイツでも、そういう話はよく聞いた。  だが、都市の中なのだ。それも、ロンドンほど大きな街ではない。  それに、行方不明者の中には、エリカの祖父のような老人や女子供も混じっている。そういう者たちが、いくら霧のせいで道に迷ったと言っても、それほど遠くに行けるとは思えない。  かといって、死体が見つかるわけでもない。 (そういえば、『人でないもの』っていうのは、そもそもいつ誰が言い出したことなんだろう?)  あれこれ考えていて、カーマインはふと思った。  そうして彼は、子供のころに近所に住んでいたノラおばあさんから聞かされた話をいくつか思い出す。  日が落ちてから外に出た人が、濃い霧の中で誰かとすれ違って奇妙な呟きを聞く話だとか、日暮れ時に湧き出した霧の中に行方不明になった母親の影を見た人の話だとかいったものだ。  つまり、『人でないもの』らしきものと遭遇した人々がいたということだろう。  カーマインは別のノートを手に取った。  そちらは、パトリックが見聞きしたこの街の怪異を時系列にまとめたものだ。  もっとも、年代の古いものには赤インクで、ベアトリスの祖父や曽祖父らが残した資料に同じ話があるといった注釈が施されている。  カーマインは椅子に腰を下ろすと、それらの記録を拾い読みし始めた。  子供のころから何度も同じ夢を見ていて、大人になったある日、その夢が現実になった女性の話や、何年も音信不通だった夫が戻って来た翌日、寝室を見たらベッドの上に白骨があった話。宿の人間が止めたにも関わらず、夜間に外に出て行方不明になった男を、駅で見かけた人の話などなど。  奇妙な話が、一同に並んでいる。 (こうやって見ると、この街って本当に奇妙な出来事が多いんだな)  ノートを閉じて、小さく吐息をつきながら、カーマインは思った。  なにしろ、多い時には一ヶ月の間に五つも奇妙な出来事が起こっているのだ。  むろん、事件とまでは言えないものもある。だがそれにしても、多い。 (魔女をかくまった罪で火を掛けられて、一度は滅びた街……。そのまま、長らく放置されて、アッシュローズ家が再生させるまで、廃墟と化していた呪いの街。でも……)  かつてこの街に住んでいた人々の無念の想いが、こうした怪異を生んでいるのだと言う人々もいる。  あるいは、「魔女をかくまった」のは冤罪ではなく、本当のことで、だから当時市民と共に焼き殺された魔女の呪いで、この街はこうなったのだと言う者も、いくらかはいた。  けれど。 (本当に、そうなんだろうか……)  パトリックのノートを読むうちに、カーマインの胸には、そんな思いが芽生えていた。 (何かもっと、根本的な原因が、この街にはあるのかもしれない……)  胸に呟き、彼は更に他のノートも手に取った。そして今度は、むさぼるようにそれを読み始める。  エリカの祖父の行方を知る手がかりになればと、ベアトリスに言われるまま、ここの鍵を受け取った彼だったが、いつしか残された記録に魅了され、のめり込んで行くのだった――。