バビロンプロジェクト
第8話 日が落ちたあとに
 日が落ちて、あたりが暗くなるのを待って、カーマインはそっとアッシュローズの屋敷を忍び出た。  パトリックの書斎に初めて足を踏み入れてから、半月後のことである。  パトリックと、そしてそこに残されたベアトリスの祖父や曽祖父ら、先人の研究成果である古いノートの山や文献類を読み漁ったあと、カーマインがたどり着いた結論は、実際に夜外に出て『人でないもの』と遭遇してみなければ何もわからない、ということだった。  もっともそれは、パトリックたち先人も考えたことであり、彼らもまた何度か夜間に外に出てあちこちを歩き回ってみたことがあるようだった。ただ彼らは、不幸にもと言うべきか、『人でないもの』だとはっきりわかるものと遭遇したり、言葉を交わしたりしたことはなかった。濃い霧の中で黒い影が自分の横を通り過ぎて行くのを目撃した記録はあったが、それが果たして人間なのか『人でないもの』なのかは判然としなかったようなのだ。  とはいえ、カーマインの目的は彼らの鼻を明かすことではない。  そうではなく、エリカの祖父の消息について、何か手がかりが得られないだろうかと考えたのだ。  外は、乳白色の霧が渦巻き、伸ばした自分の手の先すら見えないありさまだった。だが、そのわりにはさほど湿気は感じられない。  カーマインは手にしたカンテラで足元を照らしながら、まずはエリカの書店のある方へと向かった。  あの日の再会以来、何度もたどっている道だ。さすがに、この霧の中でも迷うことはない。  書店へ向かう途中、霧の向こうにゆらりと人の影が射し、やがてゆっくりと近づいて来て横を通り過ぎて行くことが、何度かあった。 (……夜中に、歩き回っている僕のような人がいるのか? それとも、この影こそが、『人でないもの』なんだろうか?)  カーマインは、すれ違って行く影を横目で追いながら、そんなことを考える。 「こんばんわ」  何度目かに、そう声をかけてみたが、相手からの反応はなかった。声が返るわけでもなければ、会釈が返って来るわけでもない。  だが、それをして即座に『人でないもの』と決めつけることもできない。夜中に出歩いていることを、他人に知られたくない人物なだけかもしれないからだ。 (実際、もし普通の人間だとしたら、他人に見られるのはバツが悪いだろう。それに、僕のことを『人でないもの』だと思っている可能性もあるし)  彼は胸に呟き、ひたすら歩を運ぶ。  やがて彼は、書店にたどり着いた。  もちろん入口のドアは閉まっている。ただ、まだ起きてはいるのだろう。二階の窓には明かりが灯っていた。  とはいえ、エリカを巻き込むつもりはない。  店の前で足を止めたカーマインは、周囲を見回した。  ズボンのポケットから磁石を取り出し、方角をたしかめる。  あのあとも何度かエリカから話を聞いて、彼女の祖父が店の前の通りを北に走り去ったことが確認できている。  彼は、磁石をポケットに戻すと、北を目指して歩き出した。  ちなみに彼は、昨日、明るいうちに書店の前の通りを北に歩いて、この周辺の地理や風景を頭に叩き込んでいた。なので、方角さえわかれば、たとえこの濃い霧の中であっても、迷うことはないはずだった。  しばらく歩くと、ぼんやりと灯る明かりが見え始めた。  それは、家の軒先に吊るされたカンテラで、まるで誰かが来るのを待っているかのように見える。  近づいて行くと、その明かりのおかげか、そこが短い階段のある玄関ポーチになっていることがわかった。しかも、階段に腰を下ろすようにしてうずくまる、黒い影も見える。 (ここは……昨日の昼間見た時は、誰も住んでいない空家だったはずだ……)  カーマインは、わずかに眉をひそめて、胸に呟く。  だが、ともかく、そこにいる人物に声をかけてみようと、彼は更に近づいて行った。 「こんばんわ」  できるだけ明るく穏やかに、声をかける。  と、うずくまっていた人物が顔を上げた。  どうやら、中年の男性らしい。ただ、帽子を目深にかぶっているせいでか、顔ははっきりとはわからなかった。 「やあ、こんばんわ」  穏やかに言葉を返して来る相手に、カーマインは更に言った。 「少し、お話してもいいですか?」 「ああ、かまわんよ」  うなずいて、相手は上着のポケットからパイプを取り出す。  それを見てカーマインは、相手は普通の人間らしいと判断して、思わず小さく苦笑した。  男はパイプに火をつけると、大きくタバコを吸って、煙を吐き出した。 「ここで、何をしているんですか?」  カーマインが、それへ尋ねる。 「中に入れてもらえるのを、待っているのさ」 「え?」 「ちょっとばかし人を探しに行っている間に、閉め出されちまったのさ」  驚いて目を見張る彼に、男は答えて自嘲気味に笑った。 「閉め出されたって、いったい何があったんですか?」  再び尋ねるカーマインに、男は小さく吐息をつく。 「さて。……何が始まりだったのかねぇ。今となっては、よくわからんが……」  言いさして、男はつと後ろの建物をふり返った。 「ここは、俺がやってる居酒屋だ。そう……まずは、俺の友人で義弟でもある男のことから話そうか。あいつはもともとは、この店の客でな。しょっちゅうやって来るうちに、妹といい仲になった。やがて二人は所帯を持って、この近くで書店を開いたんだ。……小さい店だが、それなりに繁盛してて、仕事が終わるといつも二人でうちに飲みに来ては、楽しそうに書店のことを話してくれていた」  男は、過去を懐かしむような口調で語る。 「やがては子供もできて、あいつらは、本当に幸せそうだったよ。そう……あの時までは……」 「あの時?」  問い返すカーマインに、しばしの沈黙のあと、男は口を開いた。 「二人目の子供が生まれたばかりのころだ。最初の子供――男の子だったんだが、その子がいなくなっちまったんだ。暗くなったら外に出てはいけない、そう俺もあいつらも、口が酸っぱくなるほど言っていたってのに、あの子は二人が目を放した隙に、夕方、外に出たらしい。たまたま戸締りをしていた近所のばあさんが、霧の中に消えて行くのを見たって言うんだ。むろん、俺もあいつらも近所の連中も、みな必死に探したさ。だが結局、あの子はそのまま消えちまった。……そのあと、妹はすっかりふさぎ込んでしまってなあ。あんなに明るくておしゃべりな女だったのに、笑いもせず話しもせず、ただ黙って自分の部屋に閉じこもって過ごすようになった。そして、半年ぐらいしたころだったか……首を吊って死んじまったのさ」  男の口元には、どこかやるせない笑いが小さく浮かんでいる。  カーマインは、痛ましい話に、小さく息を飲んだ。だが、続きを聞かずにはいられない。 「残されたあなたの友人と、二人目の子供は、どうなったんですか?」 「どうにもなりゃしないさ」  尋ねる彼に、男は肩をすくめる。 「あいつは悲嘆にくれて、一時は自暴自棄になってたが、まだ赤ん坊の二人目の子供――そっちは、女の子だったんだが、その子を放っておくわけにはいかない。だから一人で育てながら、なんとか店を続けた。だが、見ていられないぐらい人が変わってしまってはいたな。最初の子の行方知れずも妹の死も、全部自分のせいだと、よくそう言っていたよ。俺の店に来ても、楽しそうじゃなかったし、いつもベロベロに酔っぱらって撃沈って感じだったからな。――だから俺は、せめてあいつの息子を取り戻そうと思ったんだ」 「え?」  最後に低く呟かれた言葉に、カーマインは思わず男を見やった。  その視線の先で、男は小さく口元をゆがめる。 「ある日の夜、俺は外に出た。……濃い霧の中、あいつの息子――俺にとっても甥になる、あの子の名前を呼びながら歩いた。どれぐらい歩いたあとだったか、小さな手が、俺の手に触れるのに気づいてふり返ってみたら、そこには子供が立っていた。最初は、あの子かと思ったが――すぐに、そうではないことに気づいた。あの子より小さかったし、何よりその子供は女の子だったんだ」 「まさか、その子は……」  カーマインは、ふいに思いついて言いかけた。  男がうなずく。 「ああ。普通の人間じゃなかった。『人でないもの』だったんだ。頭から血を流して、うつろな目をして俺を見上げて、女の子は言ったよ。『おじさんも、私を殺すの?』ってな。俺はむしょうに怖くなって、女の子を突き飛ばして逃げた。走って走って……気づいたら、自分の店の前――つまり、ここに立っていた。ただなあ……おかしいんだ。店の中に、入れないんだよ」  言って、男は小さく苦笑した。 「入れないんだ。……店の鍵は持ってたはずだったが、いつの間にかなくなってた。どれだけ外からドアを叩いても、中に向かって怒鳴っても、誰も応えてはくれない。ドアは開かない。……それで俺は、ずっとここでこうして、ドアが開くのを待っているのさ」  その言葉に、カーマインはふいに背筋が冷たくなるのを感じた。  この男は、人間ではない――ふいに、そう悟る。 「あ、あなたは……」  何者なんだ、と問おうとして、彼は唇を噛みしめた。 (おちつけ。……それよりも……)  彼は、自分で自分に言い聞かせると、小さく唾を飲み込み、改めて口を開く。 「あなたの名前を聞かせてもらっても、いいかな」 「俺か? 俺はハーディだ。よいどれ亭の主のハーディ、そう呼ばれていたよ」  男の答えに、カーマインは軽く眉根を寄せた。そして、もう一つ問う。 「じゃあ……いなくなった子供の名前は?」 「イーサンだ」  男の口から出た名前に、「ああ……」とカーマインは低い吐息を漏らした。それは、エリカの祖父が姿を消す前に叫んだ名前だ。 「あなたは、その後、イーサンに会えたんですか?」 「いや」  男は、悲しげにかぶりをふる。 「霧の中を、何度か探しに行こうとしたが、いつも途中で道がわからなくなって、しかたなくここに戻って来ることの繰り返しだ。……時おり、ここを通りがかる者もいるんで声をかけてみるが、たいていの奴は返事もしないでただ通り過ぎて行くだけでな」 「……そう、ですか」  うなずいて、カーマインはここに来るまでの間に、霧の中ですれ違った影のような人々のことを思い出した。 (あれはやはり『人でないもの』で、普通は人と話したりはしないものなのかもしれないな……)  胸に呟いて、彼は改めて男――ハーディをふり返る。 「話を聞かせていただいて、ありがとうございました。ハーディさん。僕は、そろそろ行きます。……いつか、中に入れるといいですね」 「ああ。ありがとうよ」  ハーディはうなずいて、口元だけで笑った。  それに会釈を返して、カーマインは踵を返す。  しばらくの間、背中にハーディの視線を感じながら、彼はそれでもふり返ることなく南へ――エリカの書店のある方角へとただ歩き続けるのだった。