バビロンプロジェクト
第11話 霧の歌姫
 あたりをただ真っ白に埋め尽くす霧の中。  伸びやかな声のアリアが流れて行く。  朗々と、どこかせつなく、どこか哀しく、どこか優しげに。  その歌声は、メサイヤの住人たちの夢の中にも忍び込み、そこに少しだけ別の色を付け加えて行く。  カーマインがその歌声のことを聞いたのは、エリカからだった。 「《霧の歌姫》ってなんだい?」 「あら、知らないの? 最近、けっこう噂になってるのよ」  エリカは少しだけ驚いた顔で言って、夜中、深更を回ったころにあたりに流れるアリアのことを教えてくれた。 「私も一度聞いたけど、若い女性のような声だったわ」 「一度って……聞こえる場所は決まってないってこと?」  問い返すカーマインに、彼女はうなずく。 「ええ。まるで……そうね、街中を歩き回りながら歌っているような感じなの。常連さんたちも、聞こえる時と聞こえない時があるって言ってたし……先日、図書館に本を納めに行った時に、司書のビーンさんは宿直の時にあそこで聞いたって言ってたもの」  図書館は街の中央区にあって、この本屋からは離れた場所にある。  ちなみに、ここの本屋は小さいが品揃えがいいせいなのか、図書館から定期的に注文をもらっていた。  その注文の品を図書館に配達するのも、エリカの仕事だ。 「ふうん。……それって、新しい『人でないもの』が生まれたってことなのかな」  少し考え、カーマインが言う。 「さあ。……わからないけど、私が聞いた話では、声の主は昔行方不明になったオペラ歌手じゃないかって」  言って、彼女は自分が客たちや近所の人々から噂として聞かされた話を口にした。  それは、十年ほど前のこと。  ロンドンのオペラ座で活躍する女性歌手が、休暇中にこの街にやって来た。  その女性は当時、失恋したばかりで、その傷心を癒すために街に来たのだともいう。  彼女が泊まったホテルのフロントは、この街の慣例どおり、彼女に「日が落ちたら外に出てはいけない」と忠告してあった。だが彼女は、どういうわけかそれを守らず、夜中にホテルを抜け出してそのまま、消息を絶ったのだ。  荷物は現金や貴金属ともども、ホテルにそのまま残されていた。  それもあって、誰もがそれは、これまで起こったいくつもの消息不明と同じだと考えた。 「――みんなは、そのオペラ歌手が『人でないもの』になっていて、歌って回っているんだって思っているのよ」  言って、エリカは小さく肩をすくめる。 「でも、行方不明になったのは十年も前よ? なんで今頃って、思わない?」 「それはまあ……」  問われてカーマインは言葉を濁す。  その時、店の表で客の呼ぶ声がした。エリカはそれに応えて、表に出て行く。  彼女を見送り、カーマインは小さく吐息をついた。  店の奥、カウンターの向こうに衝立で仕切られたそこには、丸テーブルと椅子がいくつか据えられ、お茶やおしゃべりを楽しんだり、座って休んだりできるようになっている。  カーマインはその椅子の一つに腰を下ろし、いつものごとく、お茶とお菓子に興じていたところだった。  カップに手を伸ばしながら、改めて今聞いた話を頭の中で反芻する。  そこへエリカが戻って来た。 「エリカは、《霧の歌姫》がそのオペラ歌手じゃないって思ってるんだ」 「まあね」  うなずいて、向かいに腰を下ろす彼女を見やって、カーマインはふと思いつきを口にする。 「『人でないもの』になるのに、十年かかったのかも」 「あれって、なるのに時間がかかるものなの?」 「さあ。……でも、そのあたりのことは、誰にもわからないだろ?」  問い返されて、カーマインは首をかしげて返した。 「それはそうだけど」  エリカは小さく肩をすくめて、クッキーを一つつまむと、口に放り込んだ。  数日後の夜。  カーマインは乳白色の霧が漂う大通りを一人、カンテラを手にして歩いていた。  日が落ちてから外に出てはいけない――それは、この街に住む者の鉄則だ。  それはわかっていたが、彼はその鉄則を守ってはいなかった。  以前、エリカの祖父の消息を知る手がかりを得るために夜間に外に出て以来、時おり日没後にそっと屋敷を忍び出ることがあったのだ。  とはいえ、この夜は目的もなく歩き回っているわけではない。  エリカから話を聞いたあと、彼なりに噂を調べてみて、どうやら《霧の歌姫》の歌声は通りに沿って移動しているようだと理解した。それで、今夜はきっとこのあたりで聞こえるに違いないとあたりをつけて、やって来たのだ。  と、どこからかかすかな歌声が聞こえて来た。  しかもそれは、ゆっくりとこちらに近づいて来るようだ。  やがて、乳白色の霧の向こうからおぼろげな人の姿が浮かび上がって来た。  それは、白いコートをまとった女性だった。  長い金の髪が、まといつくように全身をおおっている。  鮮やかな青い瞳が、ふとカーマインの方に向けられた。 「カーミット? カーミットなのね!」  一瞬浮かんだ歓喜の表情と共に、女性は叫ぶと駆け寄って彼の首にしがみついて来る。 「ち、ちょっと……!」  驚いてカーマインは声を上げた。 「ひ、人違いです。僕は、カーミットさんじゃありません!」  慌てて女性を引きはがそうとしながら、彼は叫ぶ。 「何を言ってるの? その赤い髪! 私が見間違うはずないでしょ!」  女性は顔を上げたものの、そう返すとまた彼にしがみついて来た。 「いや、だから、僕はカーミットさんじゃないんですってば……!」  カーマインが抗弁するものの、女性は聞く耳を持たなかった。 「カーミット、どうしてあの時、来てくれなかったのよ。私を待っているって、この街の大聖堂の前で会おうって、約束してくれたじゃないのよ。私、行ったのよ。ずっとずっと待っていたのよ! それなのに……!」  彼女は、かき口説くようにただ言い募る。 「いや、だから……」  カーマインはなおも反論しようとして、小さく吐息をついた。  彼女はたぶん、自分の赤い髪しか見えていないのだ。  あるいは、そのカーミットという人物について、『赤い髪だった』ことしか覚えていないのだろう。 「……悪かったよ」  少し考え、カーマインはとりあえずそのカーミットとしてふるまってみることにした。 「でも、僕と待ち合わせしてたのなら、どうして荷物をホテルに残したままだったんだい? お金や貴金属まで残してあったって……」 「何を言ってるのよ。あなたが、その方が私たちが駆け落ちしたことがすぐにバレないからいいって言ったんじゃないのよ。……それに、ホテルに残したものは、私の財産のほんの一部よ。あとは全部お金に変えて、ロンドンの銀行に預けたわ。それも、あなたが言ったんじゃないの。そうしろって」  カーマインの問いに、女性は笑って答える。 「そう……だったっけ」  カーマインは曖昧にうなずきながら、なんとなく犯罪の匂いを嗅ぎ取っていた。 「あの……今更だけど、その時のことを詳しく話してくれないかな」  怪しまれるだろうかと思いながら、彼は言ってみる。 「……おかしな人ね。まさか、昔のことを、忘れたっていうの?」  女性は軽く眉をひそめて言ったものの、小さく肩をすくめた。 「まあ、いいわ。話してあげる」  そして、語り始めた。 「あなたはあの時、どうしても断ることのできない縁談が進んでいて、それで私たち、駆け落ちすることにしたのよ。それも、ロンドンから離れたこの街で――」  カーミットの関係者が追っ手をかけるまでの時間を稼ぐため、二人はまず自分たちが駆け落ちしたと悟られないよう、工作したのだという。  女性は休暇を利用して、ロンドンから離れたこのメサイヤにやって来た。  カーミットとは、二日目の夜に、この街の大聖堂の前で落ち合う約束だった。  自ら姿を消したと思われないように、荷物は全てホテルに置いて、彼女は約束の場所へと向かったのだという。  けれど。 「あなたは、現れなかったわ。私は、そのまま待って、待って、待ち続けて――」  女性はそこでふと、言葉を途切れさせた。 「待ち続けて、そして……そして……どうしたのだったかしら……?」  ふいにその目が茫洋とかすみ、どこか遠くを見るまなざしになる。 「……そう、あの子が来たのよ。リコリス……私が面倒を見ていた、あの子……。あなたからの伝言だと言って、ワインの瓶を私に差し出した……」 「ワインの瓶?」  眉をひそめて問い返すカーマインに、彼女はただぼんやりとうなずいた。 「そう……あなたが、少し遅くなるから、これを飲んで待っていろって言ったって……。私、どうしてリコリスがって思ったけど……でも、そのころには、寒くて、手足が冷え切っていて、少しでも温まりたいって思ったから……だから、そのワインを飲んだのよ。そしたら……そしたら……」  途切れた言葉のあとから、目にも鮮やかな赤いものが、女性の口元から溢れ出した。  それは口元から顎を伝って、白い喉元へ流れ落ち、白いコートの衿と胸元を汚す。 「……!」  女性は小さな苦悶の声を上げると、口元と胸元を押さえて、その場にうずくまった。 「だ、大丈夫ですか?!」  思わず声を上げ、カーマインが駆け寄る。  が、その時には女性はすでに、力なくその場に崩れ折れたあとだった。 「しっかりして下さい!」  カーマインはその体に手をかけ、小さくゆすぶる。  と、カッと見開かれたままだった女性の目が、動いた。  小さくまたたきすると、彼女は身を起こす。そして、「ああ……」と低い声を漏らした。 「私……あの時、死んだのね……。おかしいわね。それなのに、ずうっとただ霧の中を彷徨い歩いていたような気がするわ」  呟いて、立ち上がる。  カーマインの方をつと見やって、小さく首をかしげた。 「……ごめんなさい。あなた、カーミットじゃなかったのね。赤い髪以外、全然似てないのに、どうしてそう思ったのかしら。不思議だわ」  半ば呟くように言って、女性は踵を返す。 「あの……どこへ行くんですか?」  思わず尋ねるカーマインに、彼女は足を止め、ちらりとこちらをふり返った。 「さあ……。でも、そうね。カーミットとの約束の場所へ行ってみることにするわ」  答えて彼女は、再び歩き出す。  カーマインは、軽く目を見張ったまま、その背を見送った。  女性の姿は、すぐに濃い霧に飲み込まれ、見えなくなった。 ×××  翌日。  メサイヤの名士の一人、カーミット・マイヤーズの死が報じられた。  彼は、十年前までロンドンのオペラ座の支配人をしていたという。  だが、もともとはこのメサイヤに古くから続くマイヤーズ家の長男で、支配人を辞めたあと、同じメサイヤの名家の女性を妻として、当主の座を継いだのだった。  その彼が、その日の朝、冷たくなって発見されたというのだ。  医師は病死だと診断したというが、その胸元は吐き出した血によって赤く染まっていたという。  一方で、彼がロンドンから伴って来て養女としていた女性、リコリスが、「カーミットは殺されたのだ」とも口走っており、警察が調査中であるとも新聞は報じていた。  ちなみに、新聞に載せられた写真の彼は金髪だった。  それを目にしたカーマインが首をひねったのは、言うまでもない。  ともあれ。  その日から、《霧の歌姫》の噂はぴたりと止んだ。  ただ、大聖堂の前あたりからは、今でも時おり夜になると、美しい歌声が聞こえるという――。
2

コメント

織人文
コメント、ありがとうございます。
読んでいただけて、うれしいです。
ミルキークイーン
なんで人でない者になって出てくるまでに10年かかったのか・・・。謎が深まる。
  • 3156EXC