休日のバスターミナルの隅っこ。首からぶら下げたペンダント時計がご機嫌に揺れる。
「8時前か。早く着けて良かった♪」
この時計、なんとお父さんの形見だよ。スケッチ旅始めた頃、お母さんがくれたの。時刻合わせいらないくらいすっごく精確だから、ちゃんとこれで時間を守りなさいって。
結局守れてないから「ぶーちゃんに真珠あげちゃった」ってむくれてた。ぶーちゃんて⋯⋯、こういうところが可愛いんだよ、お母さんは。
サイコロを手の中でコロコロ転がしながら精神統一⋯⋯。本命は『2』、つまり茨城県大洗町。何度も候補地に入れてるギャルパン聖地に、私はまだ足を踏み入れたことがない。だってサイコロ任せだから!
「今日こそギャルパン! 行くよ! 『2』!!」
空高くサイコロを放り投げる。私の投げ方は、回転をかけずに頭上高く投げたらあとは自然に任せるタイプ。サイコロが太陽と重なって眩しい、へ、へ、ヘックショイ!
カツン! コロコロコロ⋯⋯。
のゎ! どこ!? どこになった!? 目は⋯⋯
「だーっ! 『6』かーっ! また外れた、大洗!」
ガッッカリです。港町・大洗はギャルパンだけでなく、美味しい海鮮をお母さんのお土産にできる最高のスケッチポイントなのに。
「ルールはルールだからね、従いますよ。えーっと『6』ね⋯⋯、ん? 『6』?」
スケッチブックを確認したときにはもう始まっちゃった! 足元に、辺り一面を照らす魔法陣! 目が、目がぁぁぁ、あああ~!
飲み込まれる! そう思った瞬間、『6の目:お父さん』が書き変わった。
『6の目:異世界 』。
🎲
――コォーン、コォーン
ぼんやりする⋯⋯、私は立ってるの? 倒れてるの? 昇ってるの? 落ちてるの⋯⋯? 前後不覚で何も分からない。これきっと夢だ。
ふと、向こうに誰かいるのに気付いた。少年⋯⋯? まだあどけない顔で、口の大きさ以上のペロペロキャンディを口に入れてる。
少年は私を見つけると、オモチャで遊ぶ仔犬のように駆けて寄ってきた。
ふがっ! いきなり突っ込まれるペロペロキャンディ! これ君が舐めてたやつじゃないの!? 苦い、中途半端に甘い! おえぇぇ!
少年はペロペロキャンディを私の口から引っこ抜くと、今度は私の髪にべっとりくっつけてきた。何してくれてんの、このガキんちょは! あ、自慢の髪がよだれとキャンディのせいでベタベタになっちゃった。
私の狼狽ぶりを見て爆笑する少年に、むちゃくちゃ腹が立った。⋯⋯子供でも人にやって良いこと悪いことあるんだよ。いくら温厚な私でもこんないたずらは許せない! とりあえずお前のくわえてるペロペロキャンディ取って、謝らんかぁぁぁい!
🎲
――コォーン、コォーン
心地いい不思議な音。教会の鐘の音みたい。
霧雨かな? 水滴が肌に纏わりつく。
夢が曖昧になって目覚めると、ペロペロキャンディを掴み損ねた手は、空へと向かっていた。私、仰向けで倒れてたんだね。伸ばした手をそっと引っ込めると高い青空と、空飛ぶ小さな影が見えた。首が少し長くて、悠々と翼を広げてる。素直に恐竜だと思った。
髪がべとついてる。夢⋯⋯、じゃなかったんだ? とりあえず身体を起こして、髪はベタベタを使って整えた。あの少年はどこへ行ったんだろう。あぁ、ほらもう顔忘れちゃった。
ここはどこだろう。とりあえず私の周囲にはカラフルなお花がたくさん咲いてる。ところどころに結構大きな水たまりもある。雲が草原に引っかかりそうなほど低く流れてる⋯⋯。
見覚えのない景色に、さすがの私もだんだん不安になってきた。どうしよう、バスで寝過ごして変な所に来ちゃったのかも。サイコロで何の目を出したんだっけ。大洗は出なかったよね。えっと、たしか⋯⋯
「6の目お父さん⋯⋯、異世界 」
は? 異世界 ?
立ち上がると私の360°、Fantasfic の謎のトップイラストレーター、Arthur が描いた絵画のような湿原だった。
Arthur は、Fantasfic ユーザーなら誰もが知っている不動の累計トップ。黎明期に数点の作品を残して忽然と消えた。ホントにホント、私もArthur の作品を初めて見たときは鳥肌が立ったの。だってあの絵は誰にとっても異世界そのもので、人の想像力の向こう側の絵だったから。
景色を見回す私の首から、油の切れたロボットみたいな音がする。驚きすぎでおかしくなったかな。
向こうの空から落ちてる光は何だろう。まさか滝? エンジェルフォール! 滝壺がないんだ! じゃぁ、その奥の山脈はどんだけ高いの? エンジェルフォールを見下ろしてるじゃん!
なんてこと⋯⋯。聖水のような滝から続く山々には新緑が萌えて、草原の花々は春色の絵の具を撒いたように一面に咲き誇ってる。風がそよげば甘い香り⋯⋯。全部全部、私が今まで感動してきた景色の美しさをはるかに超えてる。
水たまりに映える碧い空の中を、光の玉がスケートするように滑り踊る。まさか、あれって妖精!? そんな水たまりがそこら中に点在していた。
ついに頭がパニくった。瞳がついていかない。どこを見ればいい? こんな宝石箱をひっくり返したような世界のどこを!? Arthur 、まるであなたのイラストの中に飛び込んできたみたい⋯⋯。
異世界 が現実味を帯びてきた。
どどど、どうしよう。出口は? 帰り道は!?
とりあえず近くに落ちていたリュックから、愛用のスケッチブックとペンを取り出した。
落ち着こ。一回落ち着こ。
しばらく私は我も忘れて、ここがどこかって事も考えずに、必死にペンを動かすしかなかった。
🎲
どのくらいスケッチブックに向かっていたかな? 集中すると時間を忘れるのは私の悪い癖。
一息ついてスケッチブックから顔をあげると、あれだけいた妖精達の姿がない。なんでだろ。雨が降るのかな。
ビチャ。
雨? 違う、後ろ⋯⋯。
「ひっ」
目が合った。
⋯⋯オークさん? こんにちは。お、お、お邪魔してます。そこの水たまりを潜って来たの? 体中の剛毛が、泥に濡れてますよ。
背丈は優に私の倍以上、腕の太さは私の胴回りくらい。棍棒とか武器は持ってないけどそんなもの必要なさそう。体重は多分t 単位だろうけど、走って逃げ切れる気なんてこれっぽっちもしないよ。
こ、来ないで。
夢の様な世界に来たと思ったら、この落差は何? 下顎から上に向かって生える鋭い牙が2本、キラリと光る。
私、多分あれに喰われて死ぬんだ。
こんな時に、今日はちゃんと帰るっていうお母さんとの約束を思い出した。ごめん、門限どころか命が⋯⋯。喰われてすぐに死ねるならまだマシなのかな? こんな考えができるうちは、まだ余裕があるのかな。
ビチャ。
一匹だけじゃない! 少し離れた沼からまた這い上がってきた。
二匹のオークがゆっくりと、確実に、獲物 を逃がさないように、二足歩行でジリジリと包囲網を狭めてくる。そんな⋯⋯、もう⋯⋯。お母さん⋯⋯、お母さん⋯⋯。
「ウオオオオオオオオオオオォォォォ!!!!!」
突然の咆哮に息が止まる。
もうダメ。あまりの音量に体が一瞬で硬直して、耳の奥には激痛が走る。平衡感覚も無くなり、世界が揺れる。目からは涙が溢れて、瞬きすらできない。けれども、目が離せない。
結局オークさん的に私まであと一歩というところに来るまで、指一本動かせなかった。震える唇から、かろうじて魂が悲鳴を上げる。
「あ、あぁぁ、た、た、たす⋯⋯」
タスケテ⋯⋯。