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クロスクオリア
2019年3月22日 12:06
投稿カテゴリ : 記事

『CROSS・HEART』Story.3 WHITE NOISE 3-2

「川だ……」
 家に至るまでと全く同じ経路を辿っても見つからないと考えたリセは、少し道を外れることにした。もしそこに何かあったとしたら、昼間の時点で気付いていたはずだからである。
 あまり逸れ過ぎないように気を付けながら歩いていくと、小さな川に出た。橋を架ける程でもないが、なければ通る気も起き辛いであろうという微妙な川幅である。深さは彼女の膝くらいまでであろうか。
「……そう言えば、水を飲みに行ったんだっけ」
 水を飲みに部屋を出た結果たどり着いた場所が小川とは、何だか滑稽だ。
 本来の目的であった喉の渇きは癒えていなかったことを思い出し、少し休憩していくことにする。
 川の淵に膝をつく。黒く流れる水面を覗けば、涼やかな、しかしどこか硬い水音に合わせ、歪んで形の崩れた自分の姿が揺れていた。両手で水を掬うと、零さないようにそっと口を近づける。唇に冷たさが触れ、やがてその温度は喉だけでなく気持ちの渇きも潤していった。
「……もう少しだけ探そう」
 手を降ろし、改めて川に視線を遣る。すると視界の隅に、暗い水の流れのなか、周りの色彩とは明らかに異質な紅い輝きが映った。手を伸ばせばぎりぎり届くか届かないかという距離に、その紅い輝き――――小さな紅玉に細い銀鎖を通したペンダントは沈んでいた。
 心臓が早鐘を打つ。
 誰に言われなくとも直感が教えてくる。

 あれは、『リセ・シルヴィア』のものだ、と。

 驚きで声にならない声が漏れる。どくどくと煩い鼓動を宥めながら慎重に手を伸ばした。
 右手が水に潜る。流れによる抵抗を感じながら、さらに奥へと指を進めた。
 あと少し――――肩を迫り出して限界まで腕を伸ばしきり、ぴりぴりとした痛みが肘を伝う。
 その時、ふいに低い音が鼓膜を震わせた。水の音か。いや、それにしてはまるで、獣の唸り声のような――
 反射的に音が聞こえた対岸に目を向ける。そこに佇んでいたのは、黒い影。そして大きく見開かれた二つの赤い瞳孔。

 ――――ざわりと肌が粟立つ。

 次の瞬間に影は川を飛び越えんと高く跳躍した。

「――――ッ!」

 爪が鋭く光ったと思った刹那、右頬を背後からの風が掠めていった。
 ――前を見れば、矢が片方の赤眼に突き刺さっている。
「リセッ!」
 振り返る間もなく腕を掴まれると、強く引っ張られた。
「こっち! 走って!」
 腕を引かれ足が縺れそうになりながらも走った。乱暴に息を吸って吐く音と、落ち葉を蹴散らす音だけが鼓膜を刺激する。胸が焼けたようになり、喉がひゅう、と鳴った。
 しばらく走ると身を隠せそうな草叢を見つけた。半ば放り込まれるようにしてその裏に隠れる。膝をついたリセは大きく息を吸い込んだ。じっとりと肌に薄く浮かんだ汗が冷え、不快な冷たさが身体に纏わりつく。
「――……フレ、イア」
 恐る恐る隣に目を遣ると、そこには金髪を二つに結った少女が弓を手に、息を整えていた。

「どうして……」
「それはリセが訊かれる側じゃない? 水、わざわざ川まで飲みにきたの?」
 閉口するしかなかった。彼女には下の階に水を貰いに行くといったまま、何も言わずに出て行ってしまったのだから。彼女に――、いや、正しくは『誰にも、何も言わずに』、だが。
「迂闊に水辺に近づくなんて危ないよ? 水を飲みに来た魔物や動物を、餌にする奴らが待ち伏せしてることもあるんだから」
 フレイアは夜空の真上まで昇った月を見上げる。しかしいつの間にか雲が出てきたようで全体は隠れ、厚い灰色の隙間から光が淡く滲んでいた。
「家から出ていくの見えたよ。多分ハール君たちも捜してる。……こんな夜中にどうしたの?」
 つまり、早い段階から跡をつけられていたのだ。彼女なりに理由があると考えてしばらく自由にしてもらえたのだろう。
 うまい言い訳など思いつくはずもなく、今更ごまかすわけにもいかなかった。それに、彼女に嘘をつきたくない。リセは、先刻起こった事を包み隠さず――ただしハールとレイシェルの会話の内容については若干暈しながら――話した。
「……なるほど。自分が現れたせいで周り――って言うかハール君の『今まで』を壊したくないわけだ」
「ハールだけじゃ……」
 レイシェルからは想い人を引き離してしまうし、ココレットも彼とはしばらく会えなくなる。フレイアだって苦労を顧みず同行してくれると言うのだ。
「リセはいい子だね」
 優しげな声。しかし、それとは裏腹にすっと青の瞳が据わった。形の良い唇が、緩く曲線を描く。
「でもさぁ、それって……」

――ガサリ。

 渇いた音が刃物のように会話を断ち切った。互いに目で合図をすると、息を潜める。足音は徐々に近づき、やがて湿り気を帯びた獣の荒い息遣いが聞こえるまでになった。
 影から顔を出さぬよう気を付けながら、フレイアは相手の様子を確認する。
「……悪シュミ」
 双蛾を顰めるフレイア。目に飛び込んできたのは、銀狼だった。多少土で汚れてはいたものの、その立派な毛並は柔らかな金属のように月光を照り返す。美しい――――ただ、頭部が二つあること、目がそれぞれ額にひとつずつしかないことを考慮に入れなければの話だが。
 片頭の目は先ほどの矢で潰れていた。そこから血を流しながらふらふらと揺れており、正常な一方の足手まといになっているようである。
 ふいに、盲目となった頭が痛みで錯乱しているのか敵だと間違えたのか、もう一方に噛み付いた。牙が銀の首筋にうずまり血が噴き出す。躰を共有しているとはいえ危害を加えてきたことには変わりなく、双頭は互いに争い噛み付き合い始めた。
「……リセ、見ない方がいい」
 突然の激しい唸り声に、草叢から覗こうとしたリセを制すフレイア。
「……このままやり過ごして、逃げよう」