治療魔法でも癒やせない君の心09
「で、結局どうなったの?」
「ああ……そのまま、今度こそ真実の証言が始まって、事態は解決。宮代先輩は停学処分になったらしいよ。平井先輩は厳重注意と反省文」
「それなら、どうして大島さんは学校来られないの?」
あの騒動から数日後、よく晴れた金曜日の午後、僕はとある病室にいた。とはいっても、僕が何か体調を崩したわけではない。学校を休んで診察を受けにきた綾瀬が気分が悪いと倒れてしまったため、別室で寝かせているのだ。僕はその付き添い、といった所だ。
「それはね、校内でタバコを吸ってたのがバレた。というか自分で言ったからだよ。二週間の停学だってさ」
「でも、佐々木先生が助けてくれたんじゃないの?」
病室で一人、というのはひどく心を沈ませる。だからなるべくこうして話しかけながら意識を逸らせるのが有効だ。もちろん、会話もままならないほど苦しんでいれば別だが。
「それがね、安室先生の話が引っかかってね。あの人は真実を話せば自分はそれを信用するって、断言してくれたんだ。今時珍しい熱血教師じゃないか。そんな人の前でバレなかった、ラッキーって逃げるのはなんだか違う気がしてさ。喫煙自体は認めたんだ」
「馬鹿正直だねえ、自分で罰を受けにいくなんて」
「佐々木先生にもそう言われたよ。でも悪いことばかりじゃないんだぜ。今度からどうしてもガマンできなくなったら自分の部屋に来いって言われたんだ。何か、秘密の部屋みたいなのがあるらしいよ。その時は電話してくれ、だってさ」
ふーん、不良だあ、と綾瀬はあいまいな返事をしながら目を閉じた。これはまたどこか痛んでいるのかもしれないな。実は、綾瀬が病院で不調を訴えるのは珍しい。まるで事務報告のように痛みの推移と薬の効き具合を報告して帰っていく。それがいつもの綾瀬の診察だった。
それが今日は帰宅もままならないほど痛むという。これは尋常ではないと思い、僕は能力の行使を決めた。
さりげなく点滴の針を確認するフリをして彼女の腕に触れる。じりじりと炎に手を置いているような感覚だ。あまりに強い痛みは熱とほとんど変わりはない。それはすぐに全身の骨に伝達して、今にも体を崩そうとしているような。今日の綾瀬の痛みはいつもより数段ひどい。ああ、辛い。彼女と触れ合うこの瞬間だけは、いつも本当に辛い。
僕は痛みをなるべく表情に出さないよう気をつけつつ、彼女に言った。
「ご飯、ちゃんと食べたほうがいいぞ。いちいち点滴打たれるのも面倒だろ」
「食べても吐いちゃうんだもーん……。最近湿気が多いからかなあ、ちょっとしんどいや。でも、大島さんといると、なんだか痛みが抜けていくみたい、ふふ」
まあ、実際に痛みを吸い取っているのだが。しかし、そんなことまで関係するのか。確かに常人でも湿気や天候しだいで体調は変わる。綾瀬の場合はそれが顕著なのかもしれないな。
「……でも、ちゃんと言って良かったと思うよ。よく言ってくれたねって褒められさえしたからな。あの安室先生の嬉しそうな顔見ただけで、間違ってなかったと思うんだ」
「うん。そうだねー。正直なのはいいことだよね」
そこで、一度話が途切れる。ここで僕の説明タイムは終わりだ。だが、綾瀬にはまだ言いたいことがあるらしく、口に出すのを躊躇っているような雰囲気があった。だから僕も黙ってそれを待っていた。
「ねえ、大島さん。いなくなっちゃったり、しないよね」
「ただの停学だって。少ししたら戻れるさ。ま、今後はちょっといい子にしてないとだけどさ」
綾瀬はよく学校を休む。それは春からずっとのことだった。当然だ、元々まともに学校に来られる体ではないのだ。保健室登校のような形でも出てこられるだけ上等だろう。しかし、そんな登校頻度の少なさが綾瀬に友達がいないことの一因であることを知っている僕としては、言葉を濁したいところだった。
「……学校に普通に行くのって、こんなに難しいことだったんだね。ねえ、私も大島さんも、もう通えなくなったら、どうする?」
笑いをにじませながら綾瀬はそんなことを言った。それはいつものようなおふざけめいた口調ではあったけれど、その奥に本気の心配を見たような気がした。
「大丈夫さ。きっとすぐいつもどおりになる。僕も綾瀬も。そんな大事じゃない」
僕はいつものように一歩引いて答える。いつからだろう、綾瀬と話す時のこの距離感が出来上がってしまったのは。綾瀬もその返答を聞いて眉をひそめたから、きっと彼女にも伝わってしまっていることだろう。
だが、綾瀬はそんな僕を許してくれるらしく、話を変えてくれた。
「どうしてあの時、こんな問題になるかもしれなかったのに、出て行ったの? 普通に助けを呼びに行くだけでよかったのに……」
それは、どうして僕がこんな目にあわなければいけなかったのか、という質問だろうか。
「僕の信条のために、かな」
「信条? 大島さんにしては大層なことを言うね」
「うるさいな。僕にだってそのくらいはあるんだよ。僕はさ、痛みが嫌いなんだよね」
ピクリと、綾瀬が体ごと僕のほうへ寝返りをした。僕が腕に触れたままなので、その距離感に少し戸惑う。
「大島さん、病院の人なのに血がだめなの? それで精神科に?」
「よく間違われるけど、僕はただの雑用係だからね。痛みが嫌いっていうのは……そうだな、今回の件で言うなら、僕は誰かが襲われていたことに怒りや正義感を覚えたわけじゃないんだ」
「ふうん?」
「人を襲おうという精神が許せなかった。痛みを人に与える心理が分からない、というか、理解したくもないんだ。だってそうだろ? 平気で人を傷つける奴なんて、僕は理性ある人間だと認めない。嫌われて当たり前だ」
綾瀬の表情は変わらない。だから何の感情も読み取れなかった。もう平静を保つには限界だ、と僕は綾瀬の腕から手を離した。やがて訪れる平穏な感覚。痛みを吸い取りすぎただろうか、少しめまいがする。
代わりに、綾瀬に痛みが戻ってしまったのだろう、かすかに顔をしかめて身じろぎをした。
「……でも、その人だってそうしたくてしてるわけじゃないかもしれないよ? 仕方なく、誰かを傷つけることなんて、誰にでもあるんじゃないの?」
「そんな状況になったら、おとなしくバンザイして降参すればいい話さ。正当防衛だって、復讐だって、同じことさ。まあ……僕自身、それを堪えられるわけじゃないんだけどさ。だから、そんな僕も、僕は嫌いだ」
「……大島さんが、そんなことを言うんだ」
そうぽつりと綾瀬がつぶやいたのが聞こえた。しかし、それは僕宛の言葉ではなかったらしく、綾瀬は違う言葉で問いかけてきた。
「自分が嫌い……そんな時、大島さんはどうするの?」
その口調には珍しく真剣みが帯びていた。僕らの会話では珍しいことだ。いつも重たい空気にならないよう、綾瀬が気を遣ってくれているのもあるが、こんな風に互いに踏み込むことは控えていたはずなのだが。
「……分からない」
僕はあの時、確かに反撃しようとした。それは僕の最も嫌う行動のはずだった。それをしてしまう短気が、本当に嫌いだ。でもそれも自分だ。切っても切り離せるものではない。
じゃあどうするか。
「きっと、そんな自分も自分なんだって、納得するしか。好きになってあげるしかないんじゃないかな」
「……そっか。痛みは、嫌いか……」
綾瀬は薄く笑みを作った。だが、その目は悲しげな光に揺れている。
「私は好きだよ、大島さんのこと」
そんな台詞を、どうして彼女は切なげに、心底悲しそうに言うのだろうか。
「そりゃ……ありがとう。僕も綾瀬は嫌いじゃないぜ」
「素直に好きって言えよー」
そう言って、伸ばされた腕。それを僕は思わず避けてしまった。しまった、とは思った。でも、もう痛みの許容量がいっぱいいっぱいだったのだ。痛みを避ける本能が、体を動かしてしまった。
恐る恐る綾瀬の顔をうかがうと、きょとんとした目と目が合った。
「今のは、違う。急にくるからさ、びっくりしちゃったんだ」
言い訳もやや早口になってしまい、説得力がない。だが、能力のことを説明するわけにもいかず僕はそれ以上何も言えなかった。
「……大島さんは、私に触れるとき、いつも辛そうな顔をするんだね」
それはいつかも聞いた、あの言葉だった。
「そ、そんなことない! ただ、僕は」
言っている最中に、綾瀬の綺麗な目じりに涙がにじんだ。それを見て、僕は言葉を間違えたことを悟った。きっと今のは綾瀬なりのフォローだったのだ。茶化して全てを流そうとしてくれたのに、僕はムキになってしまった。
それでは綾瀬に触れるのが嫌だと言外に認めているようなものではないか!
狭い室内に二人の沈黙が沈殿する。だがそれはただの沈黙ではない。火のついた導火線をじっと見つめているような間だった。そして爆弾は、破裂する。
「そうだよね、大島さんは痛いのが嫌いなんだもんね」
「違う、綾瀬。僕が言ってるのはそういうことじゃない」
「違わないよ! だから私を嫌ってるんでしょ。私なんて、痛みの固まりみたいなもんだもんね! 人間じゃないんだもんね! だったら! ……だったら、こんな風に優しくなんて、しないでよ。自己満足のためだかなんだか知らないけど、私に触れないでよ……!」
それは的を射た言葉ではなかった。しかし、ある意味で僕を固まらせた。自己満足。確かにそうかもしれない。僕は生まれ持った能力を嫌いだなんだと言いつつも、人を治していい気分にならなかったかと言えば、完全に否定することはできない。
だってこの今でさえ、僕はしんどそうな彼女を見てまさしく自己満足のために痛みを吸い取っていたのだから。自分はこれだけの処置をしました、という言い訳のカルテ作りでもしているかのように。あまりに自分勝手に。
病気とは痛みだけが全てではない。痛みが与える心へのダメージもじっくりと慮るべきなのだ。僕はそこを、誤った。
そんな深読みのための時間さえ、火に油を注ぐだけのものだった。
「何だったの……? 私の希望も絶望も、なんだったんだろう。大島さんは家族よりも私に寄り添ってきてくれてたのに。私の、希望だったのに。いつか言ってくれたよね。私も誰かの希望だって。じゃあ、大島さんにとってはなんだったの? 私は所詮、ただの患者でしかなかったの? 一緒に高校に来てくれたのも、ただの気まぐれ?」
綾瀬の言葉は止まらない。止められない。
「……一緒に死んでくれるなんて約束も、きっと嘘だったんだ。そんな人、いるわけなかったんだ……。お父さんと同じ、嘘つきだ……」
彼女が感情を押し殺す人間だということは分かっていた。それが爆発しないよう心がけてきたつもりだった。だが、まさかこんな所で爆発してしまうとは。
……。なんだ、本当に何なんだ僕は。何故こんなときにまで冷静な傍観者になろうとしているんだ。彼女はここまで自分を見せてくれているのに、何故向き合おうとしないんだ!
「……何も、言ってくれないんだね。大島さん。辛い時は辛いと言えと言ったのは、大島さんなのに」
「……。ごめん」
「謝って欲しいんじゃないんだよ。私は。ねえ、大島さんが私と一緒にいて辛そうなことくらい、知ってるよ。何年も前から知ってるよ! それでも一緒にいてくれたってことは……ねえ、それは私の、勘違いだったのかな」
言葉を終えた途端、彼女の目からぽろりと雫がこぼれた。僕が彼女の涙を見たのは、二度目のことだった。それも、今回は僕が泣かした。
「ごめん……ごめんね、大島さん。今日の私、なんだか変みたい。今言ったの、忘れて。怒鳴ったりしてごめん。ごめんね……」
今回ばかりは、泣いている子にだけ使える『おまじない』も、使えそうにない。だって、きっと痛んでいるのは彼女の心だ。僕には、その痛みを消してあげることができない。
「私だって、痛みを強いるこの体が、私自身が大嫌いだよ。好きになんてなれないよ。でも……だったら、せめて誰かには、好きでいて欲しかっただけなの……。誰に理解されなくても、大島さんならって、そう……」
激しく動いたせいか、点滴のチューブには血が逆流してしまっていた。僕の視線を綾瀬が追って、そっとナースコールのボタンを押す。
「綾瀬……僕は、お前が」
「いや。やめて……お願いだから、今そんなこと言わないで。私本当に、大島さんのこと信用できなくなっちゃうよ」
確かに、今そう言った所で欺瞞以外のなにものでもない。
「あは、あはは。今日は本当に私、ダメみたい。ありがとね、一緒にいてくれて。もう大丈夫だから、帰っていいよ」
ダメだ、その笑顔はダメだ。それは全てを受け入れて我慢するときに浮かべるものだ。つまり、今爆発するほどに感じている彼女の痛みを無視するものだ。
その感情を飲み込むな。せめて全て僕にぶつけてくれ。お前のために、そして僕のためにそうしてくれ。そんなに僕から離れないでくれ。
僕はそんなことを言いたかった。
だが、今まで他人から距離を取った会話しかしていなかったせいか、声にならない。どうでもいいことならスラスラと言えるくせに、こんな大事な時僕は何も言えないのだ。だがせめて、これだけは伝えたかった。
「綾瀬……僕は、お前のこと、嫌ったりなんてしてない」
「うん。ありがとう。じゃあね、大島さん」
病室のドアが開き、看護師が入ってくる。僕らの時間は、終わりを迎えてしまった。
「さよなら」
綾瀬は、またね、とは言ってくれなかった。