治療魔法でも癒やせない君の心10
さっきまであんなに晴れていたのに、今空は青みを帯びた鉛色に染まっていた。かなたに見えるオレンジ色の夕日などほとんど積み重なった雲にまぎれて見えなくなっている。
屋上から見る町はまるで灰色の大きな獣が横たわっているかのように暗い影を落としていた。
「……あっつ!」
指先に強い衝撃にも似た熱を感じてタバコを取り落とす。今日でもう何度目のことだろうか。足元には既に少なくない本数のタバコが死んだように転がっている。
「何を僕は間違えたんだ?」
さっきから、僕はそのことをずっと考え込んでいた。綾瀬の感情が爆発した、すぐ後に病院の屋上までやってきた。ここは一般の人は立ち入り禁止とされているため、考え事をするには都合のいい場所なのだ。
僕は何度も何度も綾瀬の言葉を反芻する。そのたびに心が折れそうになり、うめき声と共に紫煙を揺らした。
彼女は一体僕の何に失望し、何を求めていたのか。いつまで考えていても僕には分からなかった。
まず、触れられるのを僕が咄嗟に嫌がったのが起爆点なのは分かる。その理由は僕以外には説明しても分かってもらえないことだが。
「いっそのこと、本当のことを話しちまうか? 僕には特別な力があるって、そのせいなんだって……」
いや、それは悪手だろう。到底信じてもらえるとは思えないし、信じてくれたところで、彼女の言う、ただの患者扱いをしていることになってしまうかもしれない。
それに……僕と触れている間は安心できると、そう言ってくれた彼女の喜びを踏みにじってしまうような気がした。まるでクリスマスに靴下をかざる子供に、サンタなんていないんだよと告げてしまうような。
「嫌われた……んだろうな。綾瀬に」
僕が全てを後回しにしたせいで、綾瀬に無理を強いてしまった。その結果がこれである。そりゃあ綾瀬としては文句の一つも言いたくなることだろう。
「綾瀬は、本当に自分の体が憎かったんだ」
だけど自分である。きっと、だからこそ悩んでいた。それを僕が突き放したんだ。自覚がどうあれ、彼女を否定するようなことを言った。自分の病気で自分の体を傷つけている彼女を、痛みの使徒だと言って罵ってしまったのだ。
そのことを思うと、気持ちが深く沈んでいく。少しでも気を紛らわそうと、また新しいタバコに火をつけた。
僕には何も直せない。骨折を治す力がある。癌の進行を止める超能力がある。そんな力が嫌で逃げてきた。それなしで人の助けになろうと努力もしてきた。でも、何年もかけても女の子一人の心も救えない。能力がなければ絡まった糸さえ解くことのできない、そんなちっぽけな存在だ。
「挙句の果てに、力に頼って人を救った気になって、しっぺ返しを食らうなんてな……情けなくて涙が出るぜ」
我ながら、同情の余地もない。結局僕は、綾瀬桃華という人間を見ていなかった。病にばかり目が行って、痛みを感じ取れるからといって、何もかも分かったような気持ちでいた。なんてことはない、自分を格好良く見せたかっただけのことだ。
彼女の悩みを、不安を、辛さを、何一つとして考えていなかった。地図の上からマジックで島を塗りつぶして、本当にその島を消した気になっていたのだ。
それが彼女に苦しみを、痛みを与えていた。ならば、今件における痛みの使徒は、間違いなく僕だ。むしろ僕以外の誰が悪かったのか、という話だ。
そこまで考えが行き着いた頃には、夕日は沈み辺りはすっかり暗くなっていた。喉もカラカラで、手持ちのタバコの箱も空になってしまっている。
その時、ガチャリと扉が開く音がした。
「……冬川さん」
「おう……。何やってんだ。こんな場所で」
それは、綾瀬の主治医である冬川先生だった。風貌は陰のあるイケメン、といった感じで、髪は綺麗な七三分けだ。あまり口数の多い方ではないが、人から話を引き出すのが上手い、いわゆる聞き上手と評判の先生である。
綾瀬の治療に携わっているから、僕らは病院内でもよく話をすることが多かった。過去形なのは、今ではもう僕らは根本の治療を諦めてしまっているからだ。少なくとも、僕はそう思っている。
だから医療的な対処を冬川さんが、私生活のフォローを僕がと担当がなんとなく決まっているため、会うことは他の先生より多かったが、普段接触はなんとなく僕の方から避けてきた。だって治療を諦めた彼はまるで敗残者で。それは僕の鏡合わせのような存在だったから。
「今日、桃華が来てな。ひどく落ち込んだ風だった。お前、何かやらかしたんだ」
桃華と、彼は下の名前で綾瀬を呼んだ。それだけの仲にあるということだ。僕が彼を避けてきた理由はそんな嫉妬だけでなく、この冬川先生の踏み込み方にもある。触れられたくない場所をあっさりとなんてことはないというように突いてくる。
「ええ、まあ、ちょっと。ケンカのようなものです」
「そんな風には見えなかったけどな。彼女に怒ってるような様子はなかった」
「綾瀬はその辺が上手いんですよ。そう……だから僕にも、分からなかった」
「それは言い訳か?」
彼は決して、なあなあで許してはくれない。五年前、僕がこの病院に来てからの付き合いで、雑用係を始めたばかりの僕にはひどく厳しかった。どんな些細なミスも許されはしなかった。
最初はそれが苦手だったが、医療に携わる者はどんな形であれミスは許されない、という話を聞いてからは納得できるようになった。冬川さんは恨み辛みで動くような人ではない。至極冷静で、本当に患者のことを大切に思ってくれる人なのだ。だからこそ、こと綾瀬の件に関しては余計に苦手なのだが。
蛇足だが、彼自身ミスは多い。その度にしっかり反省し同じミスはしなくなるのだが、やはりどこか抜けている。そんな所にかつては愛嬌を感じたものだ。
「……言い訳ですよ。悪いですか。ええ、悪いでしょうね。謝りにもいけずにこんなところでタバコふかして頭を抱えてるだけですよ。そりゃあ冬川さんは綾瀬からよおく話を聞いて一発ぶん殴ってやりたいことでしょうねえ」
少しでも皮肉を言ってやろうと思ったが、まるで形になっていなかった。
「大した話は聞いてない……聞くことができなかった。五年経ってもまだ、あいつは上辺の話しかしてくれない」
「冬川さんで信用されてないなら、僕なんて……」
「お前のことばかりだ。ここ数年、あいつが話すのは。……悪い、火くれるか」
僕は手持ちのライターをそっと彼の口元に差し出す。身長差がかなりあるので、大きく腕を上げる形になってしまう。
「冬川さん、何年か前に禁煙したって言ってませんでしたっけ?」
「さんきゅ……ああ、やっぱこれだな。いや、そうなんだがな、今日の話を聞いていると吸わずにはいられなくてな」
「……なんの、話をしたんです?」
訊くのに、少し、いや大きな勇気を必要とした。冬川さんはまた一吸いして暗くなり始めた空に向かって煙を吐き出した。それはきっと、ため息を隠すためのものだった。
「ひどいことがあって、大切な人を傷つけて、傷ついた……そんな話だ。当たり障りのないことで俺との会話を拒んできたあいつが、珍しく弱っていたよ。落ち込み方で言うと、もう試す薬がないと告げたあの日以来かもしれん」
その話は……僕と冬川さんの禁忌にも近い話だ。僕と彼が諦めてしまったあの日。そういえば、彼はあの日どんな気持ちで彼女に絶望を突きつけたのだろうか。ふと、そんなことが気になった。
「なあ、浩輝」
随分久しぶりに下の名前で呼ばれた気がする。
「この間、学生の時のツレと飲んだんだけどよ。こんな話をした。ガン告知をする時の医者の気持ちについてさ。もう治る見通しはなくて、延命処置しかできないと告げる時、どうすればいいと思う? そんな話だった。『お前は精神科医だから、そんなことなくていいよな』なんて言われたよ」
僕の返事を待たずに始まったその話は、まるで彼の独白だった。
「確かに精神病には死に至る病気ってのは少ない。だが同時に、理解されずに希望を失って自殺していく患者を何人も見てきた。病気によって死ぬのと、絶望によって死ぬこと。そこにどんな違いがあるんだろうなって思うんだよ」
「それは……やっぱり、別物じゃないんですか? 本人の意思がどう、というか……」
「そうだな。同じ病気にかかってもちゃんと生きていく奴は生きていくし、死ぬ奴は死ぬ。そういう意味じゃ外科の奴らの言うことも分かるんだ。だがな、他の病気が肉体を殺すものなら、精神病は意思を殺すものだと思うんだ。当人次第と言われたって、病気であることに違いはないんだが、仕方ないと思えるさ」
冬川さんはクールな人だ。普段はあまり感情を露にすることはない。だが今、彼の指に挟まったタバコは震えていた。久しぶりに話したが、随分溜まるものも溜まっていたようだ。
「だがな……桃華の病、線維筋痛症は別だ。あれはバケモノだ。外科医や整形医の目をすりぬけ、患者の肉体も精神をむさぼり食らう、バケモノだ。確実な治療薬も治療法もなく、その素性さえ未知とされている。今後の研究に期待? ふざけるな、今磨り減りつつある命があるんだぞ!」
屋上の格子をガンッ、と殴りつける冬川さん。その背になんだか哀愁めいたものを覚える。その拍子に、かすかな酒の匂いを感じ取った。
「ちょ、ちょっと冬川さん。もしかしてあんた酒飲んでます?」
「だから! 懸命な対症療法と周囲の理解、心のケアが大事なんだ! 俺にやれることは全部やった! お前はどうだ、浩輝!」
「いや、だから火! あんた今火持ってんですよ!」
「それでも、諦めるしかなかった……もう治せない患者に、俺たち医者がやれることはなんだ? 患者に嘘をつくことか? 真実を伝え絶望に落とすことか? 俺は今でも夢に見る。あの日、全てに絶望したような空っぽな瞳を。だが、そんなあいつがお前といる時だけは楽しそうに笑っていた。それなのに……何、あいつを傷つけてんだ!」
頭に強い衝撃と遅れてくるじんわりとした痛み。殴られたのだ、とやや遅れて気がついた。
「お前は、俺たちの希望なんだ! 俺が諦め、桃華もきっと諦めちまった未来を実現できるかもしれない、希望なんだよ……。そのお前が、あいつを追い詰めるなんて、どういう了見だ、ああ!?」
宮代先輩グループの時とはまるで違う、肉体よりも心をえぐるような一撃だった。だから僕は立ち上がることもできずに、酩酊した冬川さんを見上げた。曇天を背中に纏った冬川さんは、まるで自分が殴られているような顔をしていた。
「あいつはっ……。もう、生きている意味がない。そんなことを言いやがった。今までありがとうございました、もう終わりにします、だってよ! 俺は……俺は、そんな言葉のために頑張ってきたんじゃない。あいつに光を与えてやりたかった。それをお前は……最も光に近いお前が!」
がつ、がつ、と硬い革で作られた靴が僕のお腹を、足を、何度も蹴り上げる。彼の皮膚に触れていない僕には、彼にどんな痛みがあるのか、どんな気持ちなのか。察することもできない。そうだ、そうすることができなかったから、今回失敗したんじゃなかったか?
「あの目は、死人の目だった……。たかが学生の恋愛ごときで、そう言ってやりたかった。だがちげえ。あいつにとって生きてる意味は、本当にお前だけだったんだ。そのお前が、どうして一緒に学校行ってねえんだよ……なんで、あいつを助けてやらなかったんだ」
「いっつ……学校で……? あの、綾瀬に何かあったんですか?」
「何もなきゃあいつがあんなこと言うわけねえだろうが! くそっ……頭いてえ……」
綾瀬の身に何かあったのか? 今日のあの痛みようは、そのせいなのか? だとしたら僕は、とんでもないタイミングでとんでもないことをしてしまったことになる。
焦りのままに、立ち上がり様に冬川さんの服の襟を掴みあげた。まるで必死にすがりついているようにも見えたことだろうが、同じようなものだ。
「教えてください。今だけは患者のプライバシーなんて言ってる場合じゃない。分かってるでしょう!?」
「それは……うぷっ」
急激に冬川さんの顔が青くなり、頬が膨らんだ。いや、これもしかして……。
「うおおおええっ!」
「うわっ!」
ほぼ液体状の吐瀉物が降りかかってくる。深酒とタバコを併飲した冬川さんはすっかり目をまわしてしまい、そのまま動かなくなった。
「ちょっ、くそっ! 誰か……宿直の先生! もしかして冬川さんだけじゃないだろうな……!」
結局その日は、酔いつぶれた冬川さんの対処に追われて終わってしまった。久しぶりだが、なんというかまあ、相変わらずな人だった。
「ちくしょう……お前は、桃華のこと、好きじゃないのかよ……」
僕に肩を借りて歩く冬川さんは、そんなことを何度も何度も、繰り返し言っていた。
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