WINGS&アイロミームproject(仮)
第九章『嘘と本当の暗夢歌』(後編)
 「━━━━何してんだテメェッ!!」  「は? ……きゃっ!?」  反射的に、俺はヤツの首根っこを掴んで絵美里から引き剥がしていた。ドンッ! という音と共に、松本さんの身体が壁へと打ち付けられる。  「絵美里っ!」  「ぅ……けほっ、けほっ!」  胸を押さえて咳き込む絵美里。顔色は蒼く、また気を失ってしまいかねない様子だった。  「…………チッ」  (…………え?)  その音は、俺の背中側から聞こえてきた。    今のって……舌打ち、だよな……?  それを確かめるよりも前に、つぐみ達が保健室へ辿り着いた。  「エミリー、大丈夫!? それに、今の声……」  つぐみ達の視線は、咳き込む絵美里を介抱する俺から、壁に倒れる松本さんへと、順に移っていった。松本さんは、皆の視線が自分の方へ注がれていることを悟ると、突然、  「うぅ……ひっく、痛いよぉ……!」  「え、ちょ……翔登、一体何があったのさ?」  「いや、コイツが絵美里の首を締めて……!」  「私、そんなことしてないですぅ……! 先輩、なんでそんな酷いウソつくんですかぁ……!」  (コイツ……ッ!)  今ので完全に分かった。  コイツは……松本は今、嘘泣きをしている。状況を目の当たりにしていなかったつぐみ達を手玉に取って、俺一人に罪をなすり付けようとしているのだ。  が、  「そう。 ……それより、何故今貴女がこんな所にいるのか、まずはそれを説明して貰えるかしら?」  割って入ってきた詩葉が、鋭い目付きで問い詰める。詩葉に生半可な嘘は通用しない。少なくとも、詩葉は俺の味方になってくれているようだった。  「あぁ、えっと……急に用事がなくなったので、戻って皆さんの部室に伺おうと思いまして!」  「じゃあ、何で部室じゃなく絵美里氏のいる保健室に?」  「櫻井先輩が心配だったからに決まってるじゃないですか!」  「でも、確か松本さん、春馬君と一緒に居たはずじゃ……」  「あぁ、春馬先輩は別の用事があるからって、先に帰っちゃいましたよ?」  皆からの質問攻めにも、松本は淡々と答えていく。そこに躊躇いや焦りなんかは一切なく、何もやましい事はないぞと、態度で示しているかのようにも見受けられた。  「エミリーの首を締めてたっていうのは……?」  「ふえぇ……だからそれは秋内先輩の言いがかりですよぉ!」  そう言って、また嘘泣きを始める。クソッ……神経を逆撫でされてしょうがない! けど、コイツが嘘をついてる事を示す客観的な証拠がある訳でもない。一体どうすれば……!  「…………ません」  「え……?」    息も絶え絶えなその声は、絵美里が発したものだった。  「翔登さんは……嘘をついていません。 私を、守ろうとしてくれたんです……!」  「絵美里……!」  咳き込んで苦しそうにしながらも、絵美里は必死に声を絞り出した。二人以上の証言が一致し、松本は一気に劣性となった。  「……はぁー」    その小さなため息を、俺は聞き逃さなかった。俺と松本との間に、ピリッとした空気が走る。  「はいはいもーいいです分かりました! ぜんぶ私が悪いですはいおしまいはい終了ぉー!」  「ま、松本、さん……?」  遂に、松本は本性を露にした。戸惑うつぐみ達に対し、彼女は侮蔑の込もった視線を投げる。    「つーか私運悪すぎでしょ。 死んでるかと思って来てみればメガネはケロッとしてるし、もっかい眠らそうとしたらタイミング悪く駆けつけられるし。  ……あーあ、折角"喰暗夢"とかの設定練ってお膳立てしたのに」  「……どういう事なのか説明して貰えるかしら?」  「えぇー? イチから説明しないと分かんないんですかぁー?」  そう言って、松本はヘラヘラと笑う。今この場にいる松本以外の全員の目が、沸々とした怒りの込もったものへと変わっていた。  「んー……まず最初に、その感じじゃどーせ気づいてないだろうし言っときますけど、  ━━━━『喰暗夢』って呪いの話、あれウソなんで♪」    「な、に……!?」  俺を含めた全員が、目を丸くした。  松本は、呪いなんてかかっていなかった……? だとしたら、ヤツは最初から俺たちを騙すつもりで……!?  「んでぇー、いい感じにWINGSに潜入した所で、そこのメガネが付けてるソレ、こっそり奪おうと思ったんですけどぉ」  松本が指差す先。それは、絵美里の手首に付けられたカラフルなミサンガ。 ……そう、工藤さんが所有していたもので、絵美里を昏睡状態にした直接の原因である、あの『業奉糸』のミサンガだ。  「いやぁ、メガネがぶっ倒れたって聞いた時はラッキー! って思ったんですけどねー。 いざ来てみたらフツーに起きてるし。しゃーないからもっかい死んで貰おうと思って、首締めてた所にそこのツンツン頭が来ちゃったから。 もう計画がパァですよパァ!」  「この野郎……!」  こんなに腹が立つ輩は、以前の錦野以来だ。俺は、手を震わせながらグッと小さく握りこぶしを作っていた。チラ、と隣に目をやると、つぐみと夏燐も、俺と同じように両手を強く握りしめているようだった。  「……春馬氏は?」  「春馬? ……あぁ、あのアホの先輩のことですか? あの人なら今頃、西町の方の裏路地でへばってると思いますよ? そうそう! あの人、気絶する時「ぐぇ!?」みたいなチョー情けない声出しててメッチャ面白かったんですよ! あー、動画とか撮っときゃ良かったなー」  「━━━━いい加減にして!」  ドサッ! という音が響いた。つぐみが松本の胸ぐらに掴みかかった際の音だった。きっと今、誰よりも怒りの念を持っているであろう彼女の動きを、誰も止めることは出来なかった。  「こんな事して……何のつもりなの!? 私たちを弄んで、踏みにじって……楽しいの!?」  激昂するつぐみを、俺たちはただ黙って見ていることしか出来なかった。ただ、彼女の心が怒りに震えているということだけは、彼女自身の呪いを通して……いや、呪いを介さずとも伝わっていた。  「……楽しいか、って?」  そんなつぐみの手を、松本はグッと掴み返した。深く俯く彼女の表情は、こちらからは窺えない。  「そんなの……楽しくないに決まってるじゃないですか。 人が苦しんでる様を間近で見ておいて何も感じないほど、私だって外道じゃないんですよ……?」  (え……?)  その場の空気が変わるのを感じた。松本は、俯いたまま続ける。    「でも仕方ないんですよっ! 私にはこの方法しか無いんですっ!  死者の声を聞くことが出来るあのミサンガを使って……私はどうしても、6年前にこの学校で死んだお姉ちゃんと……!」  「6年前……!?」  それは、錦野小雪が聖歌高に在学していた時代。  ……即ち、『聖唱姫の呪い』によって、4人の犠牲者が出た代だ。  この学校で、しかも6年前に亡くなったって事は、まさか……!?  「……なぁ、その"お姉ちゃん"って、もしかして━━━━」  「━━━━なーんて、そういうお涙ちょうだい的な設定でもあれば、もっと面白かったかもしれないんですけどねー! あっははは!!」  「……っ!!」    ……危うく、俺もヤツに手を出すところだった。  コイツは、かつての錦野よりも悪質だ。平気で人の心を踏みにじり、人を傷つけることを厭わない。……最低の野郎だ。  「アタシの目的はぁー、そんなくっっだらないことじゃないんすよ。 もっと壮大! 超ビッグ! アンタらがやってる仲良しごっことは訳が違ェんだよ! あっはは!!」  「……そんな嘘までついて、私たちを否定してまで……それで叶えたい目標って何なの!!?」  「『聖唱姫の呪い』の完全なる消滅」  松本は、いとも簡単にそう言ってのけた。  「…………何、だと?」  「だからぁ、"呪い"の思惑をブッ壊すのが私の目的なの! 呪いによって"卒業式前日に皆死ぬ"ってシナリオが決行されるんだったら、そのシナリオをメチャクチャにしてやれば良い。 例えば……卒業式前日よりももっと前に、『聖唱姫の呪い』にかかった奴をブッ殺しとく……とかね♪」  「そんなの、本末転倒じゃない!」  「いーや、少なくとも意味はありますよ? 呪いそのもののシナリオに大打撃を与えられるんですから。 ま、アンタらはその"生け贄"になってくれればそれで良いんですよ」  「ふざけないでっ!!」  「こっちは大真面目なんですけどねー。 ……てか、いい加減その汚ねェ手離せよこの陽キャ女!!」  「ぐっ!? あ……!!」  鈍い音が響いた。松本がつぐみの腹に蹴りを入れた音だった。床に踞るつぐみ。その隙を見て、松本は保健室から逃げ出した。  「ぐ……こ、のぉ……!」  つぐみは、お腹を抱えながら立ち上がり、松本を追って皆と外へ出た。後ろでは、絵美里が苦しそうに咳き込んでいる。マズい、完全にパニック状態だ。皆が錯綜するなか、立ち尽くす。俺は……俺は一体どうすれば━━━━━      「ま、待って……下さい……!」  絵美里を放ってはおけない。まずは彼女の介抱が先だ。……そう思って絵美里のもとへ駆け寄ろうとする。しかし、そうするよりも前に、俺は絵美里に呼び止められていた。  「あ、あの……」  「……松本のことなら大丈夫だよ。 多分、つぐみ達がすぐに引っ捕らえてくれるだろ」    「い、いえ……そうじゃなくて……」  絵美里はベッドで横になりながら、布団の端をギュッと掴んでいた。そうして、布団で顔の半分を覆いつつ、その瞳を俺へと向ける。  「その……もう少しだけ、側にいてくれませんか……?」  「もしかして、まだ身体の調子が?」  「そうじゃ、ないんですけど……その、不安なんです……」  消え入りそうな声で呟く絵美里。一瞬、俺はどんな風に接してやるべきか迷った。迷ったあげく、黙って彼女の横に座り、そっと手を握ってやることにした。彼女はちょっとビックリした様子を見せながらも、すぐに安心した顔で微笑んでくれた。  「……落ち着いたか?」    「は、はい……。 その、充分すぎるくらい、です……」  布団に顔を埋めて、頬を染める絵美里。……なんか、そういう初々しい反応されると、こっちも照れるというか……。触れ合う手に妙に熱がこもるのを感じながら、俺は頻りに視線をあちこちへと飛ばしていた。  「……あ、あのぉ…………」    「「っ!?」」  二人でビクッ!? と肩を震わせる。 繋いだ手を反射的にほどいて振り返ると、そこには地面にへたり込んだままこちらを見上げる工藤さんの姿があった。  ま、まさかずっと此処に……!? 完全に空気と化していた彼女を尻目に、絵美里とイイ感じの雰囲気に浸っていたんだと思うと、顔から火が出そうな位恥ずかしいッ……!  俺と絵美里は、それを悟られないようにと、オーバーリアクションで以てその場を誤魔化そうとした。  「え、えーと! 絵美里は、もう大丈夫そうだな!」  「は、はい! ご心配をおかけして、すみませんでしたっ!」  「……」  工藤さんは、おふざけのような俺たちのテンションに何の反応も示さなかった。そこで初めて、俺は彼女の瞳が深刻な色を持って震えているということに気がついた。工藤さんは、泣きそうなほど弱々しい声で、  「……それ、返して、下さい…………」  「え……?」  "それ"とは、絵美里の手首にある『業奉糸』のミサンガのようだった。俺と絵美里が戸惑っていると、工藤さんは尚も震えた声のまま、  「私が……ミサンガを持ってたから…………櫻井先輩に、ミサンガを渡したから…………全部、私の、せい、で…………」  「く、工藤さん……? ……きゃっ!?」  それは、あまりにも一瞬の出来事だった。工藤さんは、襲い掛かるように絵美里の懐へと飛び込むと、手首をグイッと掴んで無理やりミサンガを抜き取った。おい! と俺が声をかける頃にはもう、工藤さんは背を向けて保健室を後にしてしまっていた。  「どうしたんだ、一体……」  キョトンとしながら、誰もいない廊下を見つめる。ふと絵美里の方へと目を向けると、彼女は心配そうな瞳で、さっきまで俺が見ていた方へと視線を注いでいた。  「工藤さん……」  微かなその声は、外から響く運動部の掛け声に混ざって消えた。ギュッと胸の前で握られた両手が、彼女の心情を物語っていた。  ……俺は、どうすれば良いのだろう?  不安で押し潰されそうな彼女の心に、俺はどう寄り添えば……  ━━━━プルルルル    その時、不意に着信が鳴った。慌ててスマホを取り出して、画面を見て、俺は思わず絵美里と顔を見合わせた。そこに表示されていたのは━━━━  「…………江助?」  ~~~    「━━━━はぁっ。 はぁっ」  アイドル研の連中との鬼ごっこから数十分。明菜は、最後の砦とも言うべき場所で身を潜めていた。……校長室。まさか、一生徒がこんな場所に身を潜めているとは誰も気づくまい。ざまあみろ、と口端で呟きながら、明菜はドアの横に座り込んだ。  「……だから言ったんだ。 下手に動くのは止めろと」  重みのある男の声は、部屋の中央から聞こえてきた。眉間に皺を寄せる彼……滝沢は、ため息を吐きながら、  「……何があったかは聞かないが、お前を退学にはさせんよ。 しかし、お前の行動が露見すれば、私はおろか、お前の生活にも支障が出る」  「……っせーな。 分かってるよンな事……」  「本当に分かっているのか? お前の選択は、お前が本当に望んでいた事か?」  「うるせーって言ってんだろっ!!」  ドン! と激しく音が響く。血相を変えて滝沢を睨みながら、明菜は言った。  「私はッ! 現状維持したままグズグズしてるお前とは違う! 私の手で新しい道を切り開く!  ……もうウンザリなんだよ、おじいちゃんの昔ばなし聞かされんのは! とっととこんな下らない遊戯終わらせて、私は解放されたいんだよ……ッ!!」    その叫びは滝沢に向けられたものであったが、明菜が項垂れていた為に、その声は床へと溶けていった。そうして最終的に、明菜はその場にしゃがみこんですすり泣き始めてしまう。  「全く……自分の学生生活を犠牲にしてまでやるべき事ではなかろうに……」  明菜に背を向けながら、老人はため息をつく。その皺がれた瞼の奥に覗く瞳は、黒く渇いていた。  「前に進んだり、運命に立ち向かおうとしたり……そういう事はな、歳をとると次第に出来なくなっていくものなんだよ……」  ~~~  『━━━━先輩、アイドル研のメンバーなんですよね……?  ……お願いしますっ! 私のこと……助けて下さい!』    初めて彼女に声をかけられたのは、新会長の山栄田が全校集会を開いた日の、放課後のことだった。WINGSのメンバーでも、部長の翔登でもなく、彼女は俺を……春馬 江助を頼ってくれたのだ。  『今の話、他の人には……』  『……まだ話してません。 でもっ! アイドル研の皆さんなら、この"呪い"のことについて知ってるかもしれない、って聞いたことがあったので……』  『でも、じゃあ何で俺に……?』  『それは……初めて見た時から、春馬先輩って優しそうな人だな、って思ってたから、です……』  頭のてっぺんが、フワッて気持ちよくなるのを感じた。俺は、彼女に信頼されている。他の誰にも相談出来ないようなことを、唯一俺にだけ話してくれた。  ……だったら、俺が"男"として取るべき行動はひとつ。  『……分かった、俺が何とかする。 松本さんがこれ以上呪いで辛い思いをしないよう、俺が全力でサポートする。 ……だから、俺に任せて!』  ……多分俺は、カッコつけたかったんだと思う。感じのいい、可愛い後輩に頼りにされて、舞い上がっていたんだと思う。  それでも俺は、『松本さんを救う』という責務はちゃんと果たすつもりでいた。松本さんの為に……そして、何よりも自分の為に。翔登や、皆がやっているみたいに、俺も何かを成し遂げてみたいと思ったのだ。  それなのに━━━━    ~~~  「━━━━何だよ、それ…………」  『……だから、松本明菜は俺たちを騙してたんだよ。 お前だって、アイツから酷い仕打ち喰らったんだろ?』  電話越しに聞かされた真実に、俺の頭は真っ暗になった。  人気のない裏路地に腰を落としながら、俺は翔登に電話をかけていた。松本を家まで送る途中で、ふいに俺の記憶が途切れていたからだ。でも、翔登に話を聞いて……松本が、櫻井や和田辺に酷いことをしたという事実を知らされて、何となく…………松本に危害を加えられたことを、思い出してしまった。  「じゃあ、さ……松本は元々呪いで苦しんでなくて、俺を信頼してもいなかった、って、事かよ……?」    数秒の沈黙の後、翔登は『あぁ、そうだ……』と告げた。最後の希望が、あっけなく壊されたみたいな感覚だった。  『……さっきつぐみ達が戻ってきたんだが、松本には逃げられたみたいだ。 あの野郎……ひっかき回すだけひっかき回して、雲隠れしやがって……!』  『……でも、これだけの被害を出しているのだから、タダでは済まされない筈よ。 私たちの証言次第では、退学処分にさせる事だって……』  電話の向こうで、翔登や稲垣たちが話している。声を聞くだけでも、皆がピリピリしているのが感じられた。  (じゃあ……やっぱ本当なんだ……)  一人だけ、ポツンと置いていかれているみたいだった。皆が怒りを露にする中で、俺はただ一人、怒りではなく悲しみに暮れていた。  俺は、誰かを救うって目標すら達成できないのか……? 嘘をつかれて騙されて、惨めに項垂れることしか出来ないのか……?  俺は、自分の信念すら最後まで貫きとおせないのか……?  「━━━━嫌だ」  『……江助?』    気づけば俺は、鞄を抱えて立ち上がり学校の方へ向かって歩いていた。  「俺は、松本のことを助けるって約束したんだ! だから……その責任は最後まで果たす! これは男の意地だ!」  『なっ……何バカな事言ってんだ! お前はアイツに騙されてたんだぞ!?』  「でも、それにも何か理由があったかもしれないだろ! いや……もしかしたら全部、呪いのせいで無理やり行動させられてたのかもしれねぇし!」  ……分かってる。こんなのはただのこじつけだ。  ……それでも俺は、最後まで自分の意志を貫きたかった。ここで折れたら俺は、ずっと中途半端に誰かの影に居続けるだけの男になってしまう。皆頑張ってるのに……俺一人だけ何も出来ないでいるなんて、そんなの嫌だ。  『……ねぇ、江ちゃん』  電話口から聞こえる声が変わった。和田辺だ。  『あの子は、江ちゃんや私の大切な友達を傷つけたんだよ……? 私は、それを許せない。  それでも……江ちゃんはあの子の肩を持つっていうの?』    和田辺の声は、いつもよりワントーン低い。怒りを堪えているのがすぐに分かった。  ……それでも、ここで怯むわけにはいかなかい。例え翔登たちと対立したとしても、俺は、俺自身の信念を守り抜く。  「だったら……俺がちゃんと叱る! 皆を傷つけたことも、皆に嘘をついたことも、全部反省させる! だから……だから頼むよ皆!」  ~~~  『……頼むから、アイツの事は俺に任せてくれ! 俺自身の力で、けじめを付けさせてくれ……! お願いだからさ……!』  電話の向こうで響く江助の叫びに俺は、正直驚きを隠せなかった。江助がこんなに必死になって何かを頼むなんて、今まで無かったからだ。何がそこまで江助を駆り立てているのかは分からない。……けど、江助が本気なのだということだけは、俺やつぐみ達にも伝わっていた。  「……私からも、お願いがあります」  「……絵美里?」  声は、後ろから聞こえてきた。絵美里はいつの間にかベッドを抜け出ており、俺たちのすぐ近くまで来ていた。    「……私も、工藤さんに伝えにいかなきゃいけないことがあるんです。 だから、行かせて下さい」  「でも、絵美里ちゃんはまだ身体が……」  「それは、江助さんだって同じですよ」  絵美里は、スマホを持つ俺に微笑みかけた。それは俺ではなく、電話の向こうの江助に向けられたもののように感じた。    「松本さんから一番最初に話を聞いたのは、江助さんなんですよね? だったら、松本さんのことを一番よく知っているのは江助さんな筈です。  ……私が、工藤さんのことをよく知っているのと同じように」  ……あぁ、そうか。俺は無意識に呟いていた。  さっき、工藤さんが無理やり絵美里のミサンガを奪って走り去っていった理由が、俺にはずっと分からなかった。……けど、絵美里には分かるんだ。彼女へどう接してやれば良いのかを、唯一理解しているんだ。  きっと、松本と江助の間にも同じ関係がある。だからここは、彼に任せた方が良いんじゃないか。……絵美里はきっとそう言いたいんだろう。    『頼むよ翔登っ! 俺に……俺にやらせてくれ!』  「お願いします、皆さん……!」  江助と絵美里の声が重なった。二人の声が真剣なものだと分かるからこそ、俺やつぐみ達は、顔を合わせて困惑した。  「翔ちゃん……」  「……分かってる」  小さく頷く。ここは、俺が決断しなければならない場面だ。    江助を行かせるのはリスクが高い。ヤツがまた何をしでかすか分からないからだ。  同時に、絵美里もまだ本調子に戻った訳じゃない。身体のことを考えれば、まだ寝かせておいた方が良いだろう。  ……けど、二人は真剣だ。その思いは嘘偽りじゃない。 それを理解した上で、俺は━━━━      「……松本のことは、江助に任せる。 工藤さんのことは、絵美里に任せる。 二人を説き伏せて、必ず俺たちの所へ連れてきてくれ。 ……頼む」  『……!』「……!」  江助と絵美里の、嬉しそうな息遣いが重なった。  ……後は、二人を信じて待つだけだ。GOサインを出すという重要な役割を果たし、俺は肩から力を抜いた。俺がやれることは、これで終わりだ。  「……私はさ」  江助と絵美里が何か言うよりも前に、つぐみが重い声で俺たちに割って入った。  「正直言って……まだ納得いってない。 松本って子には私からも言いたいことが山ほどあるし、エミリーにもまだ休んでて欲しいって思ってる」    惑聖恋(マッドセイレーン)を介するまでもなく、つぐみの気持ちは痛いほど伝わってきた。困惑し、皆が顔を伏せるなかで、「でもね……」とつぐみが言葉を続ける。  「……私、江ちゃんとエミリーのこと、信頼してるから! だから……二人ならきっと、私よりも上手くやってくれるって、そう信じれるんだ」    「つぐみさん……!」  絵美里の顔に笑顔が戻る。つぐみは、皆を代表してコクンと大きく頷いた。  「江ちゃん! エミリー!  ……あとは任せるからね!」  『……ああ!』  「はい……!」  江助が電話を切るのと、絵美里が保健室を出ていくタイミングが一致した。二人、メンバーの欠けたアイドル研究部の面々は、険悪なムードから一転、どこか穏やかな空気感さえ生まれていた。  完全下校時刻まであと30分弱。  今この場に居ない四人の物語が、始まろうとしていた。  ~~~  「ウゥッ……グスッ……」  思えば、逃げつく先なんて知れていた。  冬美にとっては、オカルト研の部室だけが唯一の自分の居場所だったのだ。  「私……先輩に……ウゥ……」  冬美は、真っ暗な部室の隅で踞りながら、静かに泣いていた。彼女の手には、件のミサンガが強く握りしめられている。指の隙間から覗いたミサンガの端は、彼女が溢した涙でほんのりと湿っていた。  ━━━━コン、コン  「ッ……!」    ノックの音に、冬美の肩はビクリと大きく震えた。ドアの向こうの人物は、部室に鍵かかかっていない事に気がつくと、ゆっくりとノブを回して部屋へと入った。夕暮れ時の光が、開かれたドアの隙き間から射し込んで一筋の線を描いていた。  「……工藤さん? 居ますか?」  優しく響くその声に、冬美は返事を返さなかった。 ……いや、返せなかった。身体が震えて、いつものような調子で声を発せなかったのだ。  「…………」  絵美里は辺りを軽く見回すと、ふぅ、と小さく息を吐いた。そして、冬美がそこに居るということを知ってか知らずか、どこか遠くの方へ語りかけるようにして、  「……これは、私の独り言です。 誰に話すわけでもない、ただの独り言」  真っ暗な室内で、絵美里の声だけが響く。冬美はそれを、部屋の隅で小さくなりながら聞いていた。  「私、ずっと自分のいる意味について悩んでたんです。 オカルト研究部の部長、WINGSの一員……そういった役職が与えられているというのは、確かに幸せなことかもしれませんけど、でも、"意味"とは違うんです。 自分にしか出来ないこと、自分だけの信念……そういったものを、私はずっと探し求めていました」  冬美は、まだ黙ったままだった。  「……その時、工藤さんが持っていたミサンガの力を知って、「これだ!」って思ったんです。 『降霊堕(コールレーダー)』の力を使って、過去のWINGSの人たちから直接話を聞くことが出来れば、きっとそれが呪いの解明に繋がる。 WINGSの皆さんに貢献できる!  ……そんな風に考えて、躍起になっていたんです、私」  あはは……という乾いた笑みは、薄く広がる闇へと吸い込まれていく。絵美里は、本を朗読するような調子で続けた。  「……だから、私がミサンガの力を使って倒れたのは、自業自得なんです。 工藤さんには、何の責任も……」  「アゥ……そ、れは、違う…………!」  ようやく、冬美は声を絞り出して絵美里の声を遮った。この瞬間、絵美里の言葉は独白という体裁を失い、冬美へ向けられたものへと変わった。  「ゥ……先輩が、ミサンガの力に目をつけたのは……私が、それを隠しもってた、から……。 元凶を作ったのは……私、だから……」  「確かにそうかもしれません。 ……けれど、少なくとも私は、「私が倒れたのは工藤さんのせいだ」……なんて思ったりしてませんよ」    「でも、私はッ……!」 ガタガタッ! という大きな音がした。徐に冬美が立ち上がったことで、椅子の上に積まれていた本の山が崩れたのだ。 線上に散らばった本が、二人を隔てる。日も暮れ始める時間、外よりも薄暗い小さな部屋の中で、もの悲しさを纏った両者の視線が静かに交差していた。  ~~~    「━━━━何なんですか? 一体」  明菜は、苛立ちを隠せない様子のまま吐き捨てるように言った。    彼女は今、学校の屋上に居た。理由は簡単……ある人物に呼び出されたからである。  正直なところ、明菜は呼び出しに応じる気は一切なかった。行ったところで、下らない文句や罵詈雑言を並べられるだけだと分かっていた。それなのに……明菜が指定された場所に律儀に足を運んだ。それは、目の前で彼女と対峙する男……春馬 江助の送ってきたメールの文面が、あまりにも滑稽で、しかし明菜の心を大きく揺さぶったからだ。  「『今から屋上に来てくれ。 俺はまだ松本さんのこと信じてるから』……ですか。 先輩、自分が何されたのか分かってます? スタンガンですよスタンガン。 それで『まだ信じてる』とか馬鹿すぎでしょー」  猫を被ることすら止めて、へらへらと笑う明菜。それでも江助は、怒りで表情を歪めるようなことはしなかった。  「馬鹿でも良いよ……俺は、本気で信じてるんだ。 松本さんは悪い人じゃないって。 一度でも俺のことを信じてくれた人だって!」  「ッハ! アレですか? 少年マンガの主人公気取りですか? さっむ……イライラするんで今すぐ止めて欲しいんですけど」  江助は、僅かに苦い顔をした。彼は、明菜の本性を知る前に気を失った。それ故、彼女のこの豹変っぷりにまだ付いていけてないのだ。「自分は悪い子だ」と、自らの態度で示そうとする明菜のことを、それでも江助は心の奥底で信じようとしていた。  ……たとえ自分に嘘をつく形になろうと、最後まで信じようと決めていた。  「こんな事したのもさ、何か理由があるんだろ? 皆を救うためとか、呪いを打ち破る方法を探すためとか、そういう……」  「━━━━お生憎さまですけどぉ」  残忍な顔つきで、明菜は江助の希望的観測を遮った。  「私はただ、WINGSとかいうウザッたらしい連中が苦しむ様を見て楽しみたかっただけですから! 怨恨とか信念とか、そーゆうクソみたいなモン私はなんにも持ってませんし! 私は、自分のためにしか動きませんから♪」  「なんで……」  「なんでって……そんなの私が聞きたいですよ……」  え……と、江助は思わず小さく息をつく。  「幼い頃に両親を亡くして、身寄りのないまま育ってきた私が……人との接し方なんて分かる筈ないじゃないですか……!」    江助の表情が変わる。  「松本さん……。 じゃあ、やっぱり━━━━」  「━━━━なーんてウッソでーす! ウチの親まだ死んでませーん!」  「っ……」  感情の波が左右から押し寄せて、江助は息を詰まらせた。苦い顔の江助を前にして、明菜は愉快そうに口端を歪める。  「まー、ウチの両親は大昔に夜逃げしてるんで、実質死んでるようなモンですけどねー。 親代わりになってくれてたおじいちゃんも、アタシの事とか全然興味無さげな感じだったし。 "愛情注がれてない"ってのは、あながち間違いじゃないかも。 アッハハ!」  江助はギュッと唇を噛み締める。苦痛に耐えるようなその表情は、かえって明菜の加虐心を刺激するだけだった。    「ね? もう分かったっしょ? 先輩が信じようとしてる相手がいかに救いようのない人間かって事が! アンタのやろうとしてる事の無意味さが!!」  「…………」 江助は黙ったままゆっくりと顔を上げた。怒りか、あるいは悲しみか……どんな無様な表情で来るだろうかと期待していた明菜だったが、その予想は呆気なく外れた。  ━━━━江助の瞳には、まだ"信念"という名の光が宿っていたのだ。  「もう止めようよ、松本さん。 ……いや、明菜」  「はぁ? 今さら何ですか? もう取り返しのつかない状況になってる、ってこと分かって……」  「嘘をつくことを、だよ。  ━━━━君は、自分自身に嘘をついてる」  「っ……!?」  ピクリ、と明菜の眉が動いた。あれだけ饒舌に江助を貶めようとしていた彼女が、そのたった一言で、足場を崩されたかのように揺らいだのだ。  夕暮れに染まる学校の屋上。降り注ぐ陽の光と同じように真っ直ぐな男の視線が、揺れ動く女の視線を掠め刺していた。    ~~~  「でも、私はッ……! せ、先輩をき、傷つけた……。 アゥ……たとえ、先輩が許したとしても……その、事実は、消えて無くなったり、しない……」  「……それじゃあ、終わりがありませんよ? 工藤さん自身が自分を許せないままじゃ、きっと誰も救われません」  「でも……でもぉ……!」    乱雑に広がる本の境界の向こう側で、冬美は目尻に涙を浮かべながら踞った。  ……絵美里の言っていることが分からない訳じゃない。けれど、自分がどうすれば良いのか分からないのだ。どうして自分を許せないのか……それが、冬美自身にも分からなくなってしまっているのだ。  「ウゥ……ウゥゥ……」    分からない……分からない……。  混乱で真っ白になる頭を抱え、冬美は呻いていた。夕陽すら射し込まない暗室に、彼女の掠れた声だけが響く。  「……冬美さん」  その沈黙を破って、絵美里はなおも優しい声で語りかける。彼女は、散らばった本のギリギリ手前まで歩みを寄せていた。  「冬美さんは、私がミサンガを着けて倒れた時も、私が保健室で松本さんに襲われた時も、私の側に居ましたよね。 ……だから、私が苦しんでいる様子を、意図せず間近で目撃してしまう羽目になってしまった」  「……」  冬美は目を背けたが、絵美里は構わず続けた。  「もしかしたら……冬美さんは、無意識のうちにそれらを『自分のせいだ』って思い込んでしまっているんじゃないでしょうか? だから、対処法が分からずに感情が右往左往してしまっている……『意図しない自分の罪』を許せなくて」  「っ……!」  恥ずかしい、と冬美は思った。  自分が何で苦しんでいるのかも見失って、絵美里をはじめとしたWINGSの人たちにも心配をかけて……さらに、絵美里に自分が秘めていた本当の気持ちを言い当てられてしまった。……これじゃ、駄々をこねる子供とその母親みたいだ。冬美は、そんな自分が恥ずかしくて、悔しいとさえ感じた。  ……それ故、だろうか。  彼女は、ほんの少しだけ、前を向く覚悟をした。  内に秘められた本当の気持ちを受け入れて、その上で、自分に出来ることを成し遂げようとするように。  「……こ、このミサンガは、私が、持ってます。 ……私が、霊を降ろす依代に、なります……」  「話を聞いて下さい冬美さん……! 冬美さんは何も悪いことなんてしてない。 だから、そうやって自ら罪を償おうとする必要なんて……」  「罪滅ぼしじゃ、ないッ……!」  それは、冬美には似合わない、気迫の籠った声だった。薄暗い中で漂う小さな埃が、彼女の声と共に舞い上がった。  「ゥ……私なら……先輩みたいに倒れたりしないで、ちゃんと霊を喚べる。 だから今度は……私が、この力で先輩を助けたい……! 私に出来ることを、やりたい……!  これが……これが、私の本当の━━━━」  ~~~  「━━━━これが私の本当の姿だって言ってんじゃないですか! 馬鹿の癖に知ったような口聞かないでくれます!?」  怒り狂ってまくし立てる明菜に、それでも江助は穏やかな表情のままで相対した。  『自分自身に嘘をついている』……江助は、その言葉の意味をこう説明した。  「確かに、知ったような口かもしれない。 ……けど、もしもさっきの明菜の話が本当なんだとしたら、さ……ずっと寂しかっただろうな、って思う。  家族に愛されなくて、寂しくて……そのせいで、ちょっと捻くれちまって。 『悪い子』になることでしか自分を保てない。 ……そんな風になっちまったんじゃないのか?」  「だからぁ! お前なんかに私の何が分か……」  「━━━━分かるよ! だってお前、ずっと寂しそうじゃねえか!」  「……っ!」  江助の気迫に、明菜は身じろいだ。  悪態や怒りとは違う、「叱られている」という感覚。それは、気迫の割に温かく、胸にじんわりと響くものなのだと彼女は知った。こんな経験は、彼女にとって初めてだった。  「自分の心に嘘ついてまで悪者になろうとすんなよ……! そりゃ、悪いことはしちゃ駄目だし、皆に後でちゃんと謝るべきだろうけどさ……」  江助はそこで一度言葉を切ると、頭を軽く掻きながら言った。  「少なくとも……俺は最後までお前の味方でいるから。 ほら、俺って馬鹿だからさ……お前の猫被りも、腹黒さも、嘘も、全部引っくるめて信じるよ。 ……だから、もう寂しがらなくて大丈夫だ」  「っ……!」  喰暗夢(クライクライム)。  それは、明菜によって生み出された、架空の呪い。  "悪夢を喰らい、悪夢を喰らわせる"というその力は、明菜がでっち上げたいい加減なものだった。  ……しかし、本当に悪夢を抱えていたのは、他でもない明菜自身だったのだ。孤独という悪夢に苛まれ続け、"慟哭"と"罪"を重ね続けた彼女は、いつしか自分の心までも嘘で塗り固め、本当の気持ちを見失ってしまった。  そんな彼女の心を動かしたのは、バカ正直で騙されやすい、一人の青年の誠実さだった。彼は、彼女を貶すでもなく、嘘を破るでもなく……その"嘘"ごと彼女の心を受け入れた。彼女を苛む悪夢は、彼によってすっぽりと食い尽くされてしまったのだ。  「……まさか、私が喰われちゃうなんて……」  「え……?」  江助が首を傾げている間に、明菜は大げさにピンと伸ばした足を振りながら、ゆっくりと江助の方へ近づいていった。彼女の前にできる影が、次第に江助の影と重なってゆく。  「先輩……一度しか言わないので、よく聞いてて下さい」  「へ? お、おぅ……」    「……私、こんな気持ち初めてです。 誰かに叱られて、その上で優しく私を包み込んでくれて……。 家族愛……って言うんですかね? こういうの。 味わったことも無いクセに、私今、そういうあったかい気持ちで満たされてるんです」  明菜は、ふぅ……と息を吐いた。まるで、胸の奥底に漂っていた重い空気を押し出すかのように。  「……多分ですけど、私、これからもいっぱい嘘つきます。 悪態もつくし、暴言も吐くと思います。 "嘘"は私を外の世界に繋ぎ止めてくれる大事な私の一部だし、悪い子な"本当"の私も、私の大事な一部ですから」  「……ああ。 俺もそれが良いと思う!」  江助が笑うのに合わせて、明菜も笑った。二人はもう、手を伸ばせば届くほどの距離にまで近づいていた。  西日で赤く染まる屋上。その眩い光を背中いっぱいに受けながら、明菜は宣言した。  「……これが、私の本当の気持ちです! 嘘も、本当も、ぜーんぶひっくるめて私なんです!  だから……覚悟して下さいねっ?」    ~~~  「……これが、私の本当の気持ち、です……! 助けられるだけじゃなくて、助けたい! 私……絵美里先輩の力になるためなら、ちょっとだけ、頑張ってみたい……!  だ、だから……覚悟して下さい……フヒッ」  暗闇に包まれるオカ研の部室。その暗い世界で一人、その瞳に輝きを宿しながら、冬美は言った。  彼女はもう、散らばった本の山を越えていた。絵美里が越えようとしていたそのバリケードを、自分の力で踏み越えたのだ。それは、冬美にとって初めての"勇気"であった。  「……そんな風に言われたら、拒否なんてできませんよ、もう……!」  絵美里の表情は、暗闇の中では窺えない。しかし、彼女が絞り出したその声が微かに震えていることから、冬美は彼女の表情を察することができた。  ふと、冬美の手に温かな感触が宿る。絵美里が冬美の手をとったのだ。絵美里は、繋いだその手をぎゅっと握りしめながら囁いた。……その一言に、ありったけの感謝と喜びを込めながら。  「冬美さんの力、貸して下さい。 ……貴女の心の奥にある"本当の気持ち"は、私たちを支えるのには充分すぎるぐらいのもの、ですから……!」  ~~~  「「…………あ」」  屋上に続く階段を下りるとそこは、オカ研の部室などがある三階の廊下と繋がっている。絵美里と軽く手を付き合わせながら部室を出た冬美は、そこで江助の腕にピッタリと身体をくっ付けながら歩く明菜と対面した。両者の間に、どんよりとした気まずい空気が流れる。  「……ッ!」  まず動きを見せたのは冬美だった。いつも人との関わりを恐れて影に隠れるばかりだった彼女が、今はその身体全体で絵美里を擁護するように、バッ! と両手を広げて立ち塞がっていた。それを見た明菜は、片眉を上げながら笑うと、  「はぁ~? 何ですかそれ? 私に対して敵意ムンムンなのは良いですけど、そんなんで威嚇してるつもりだってんならちゃんちゃら可笑……痛っ!」  明菜の言葉は、江助の軽いチョップによって遮られた。うぅ~……と、恨めしそうに見上げる明菜に対し、  「ほら、悪いことしたんだから、やらなきゃいけない事あるだろ?」  「……分かってますよぉ」  分かりやすく口を尖らせながら、明菜は江助から身体を離し、  「その……保健室では、えっと……流石にちょっとやり過ぎました。 だから……ご、ごめんなさい……」    居心地の悪そうなその謝罪をうけ、絵美里と冬美は目を見合わせる。それから、冬美は苦い顔になり、絵美里はクスッと笑みを溢した。  「……その様子だと、ちゃんと江助さんが説得してくれたみたいですね。 私は、もう気にしてませんから大丈夫ですよ」  「アゥ……わ、私はまだ許してない、から……。 もし、また絵美里先輩に危害を加えようとしたら……私が、呪う……!」  睨みを効かす冬美。一方、明菜はゆっくりと顔を上げると、一転して元の残忍な表情に立ち戻り、  「ッハ、何それ馬鹿じゃねーの? つーか、私の方こそ許しを乞う気なんてさらさら無いですし。 そ・れ・にぃ……」  そう言うと、明菜はクルリと身を翻し、そのまま江助にギュッと抱きついた。  「私にはセンパイという唯一絶対の理解者が居ますから! ね、セ~ンパイッ♪」  「ちょ、おい明菜……!」  えへへ~、とあからさまに身体を擦り寄せる明菜。江助は、叱ろうとしながらも満更じゃなさそうな様子だった。またしても、二人で目を見合わせる絵美里と冬美。しかし今度は、二人ともが息を合わせたかのようにクスッと笑っていた。四人を渦巻いていた重たい空気は、いつの間にか消え去っていた。  ~~~  「━━━━様子を見に来てみれば……こりゃ大層なハッピーエンドだこと」  「むうぅ……これじゃ、二人が行くのを拒んでた私が悪者みたいじゃんかぁ……」  「まぁまぁ、二人とも上手くやってくれたみたいだし、結果的にはつぐみの信頼が正しかったってことだろ」  三階に続く階段の踊り場で、俺たち皆は絵美里や江助たちの様子を遠くから眺めていた。何を話しているかまでは分からないが、二人それぞれの側にいる後輩たちの様子から、事が円満に解決したのだろうという予想はつく。きっと、この後四人は俺たちに良い報告を持ってきてくれることだろう。  「……それじゃあ、私たちは部室で待ってることにしましょうか」  「絵美里ちゃんに、色々話聞かないとだねぇ~」  「春馬氏のあのデレデレ具合にも、しっかりツッコまねば」    「はいはい。 そんじゃ、アイツらに気づかれる前に戻るぞ」  コツコツと、階段を下りていく六人の足音が静かに響く。三階では、尚も四人の喧騒が微かに響いている。夕暮れ時の真っ赤な日差しに染まりながら、俺たちの長い長い波乱の一日が、ようやく幕を下ろしたのだった。      END
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