治療魔法でも癒やせない君の心12
「おっと、地震か……」
最近では珍しいレベルの揺れ方だった。僕の部屋には物が少ないが、本棚からは大量の本がなだれ落ちてきて椅子などは部屋の端まで移動している。
「速報……震度五か。結構な地震だな。みんな大丈夫かな……」
時刻は夕暮れ、もうとっくに授業が終わってそれぞれ帰路についている頃だろう。電車通学の人はどうだろうかとスマホでニュースを見ていたが、電車が止まりこそすれ脱線やらの大事故は起こっていないようだ。
別に特別誰かを心配しているわけじゃないが、こういうものは被害がなければないほどいいものだ。
その時、僕のスマホが緊急速報とは違う通知を受け取った。それは恋塚からのメッセージだった。
『すげー揺れだったな。オッサン生きてる?』
「あいつは……生きてるよっと」
その後、既読のマークがついて話はぶった切られた。相変わらずだな、あいつとのやりとりは。基本的に別れの挨拶はなく、話が曖昧なまま終わることも珍しくない。
むしろ、この緊急時に真っ先に連絡をくれたのはありがたいことだ。
「綾瀬は……大丈夫かな」
あいつの家は確か数駅は離れていたはずだ。無事に帰り着いていればいいが……。しかし、綾瀬を怒らせて以来まだ連絡はついていない。僕は返事を期待せずに、無事か? と一言だけメッセージを送っておいた。
……数分待ってみたが、やはり返事は返ってこない。
「家にまで行ったら、嫌がられるだろうなあ……あいつ、家族の話とかもあんまりしないし」
独り言が多くなるのは、この部屋にいる時だけだ。よく人は文章を書いて考えをまとめると言うが、僕の場合はじっと考え込むか喋って話を整理するかのどちらかだった。
じっとスマホの画面を眺める。自動スリープ機能が働いていてもう真っ暗だが、そこに映る自分の顔を眺めていた。
「告白されることが多すぎて、女子のやっかみにねえ……」
僕は冬川さんに教えてもらったことを思い出していた。綾瀬の容姿については理解しているつもりだった。それが何を引き起こすのかなんて、ちょっと考えれば分かりそうなものだ。なのに僕は自分のことばかりで一人でいた綾瀬を放置してしまった。
そりゃ、一発ぶん殴られても文句は言えないな。むしろ、綾瀬にこそ、そうして欲しかった。
「いや、もうぶん殴られたか……はは」
あれは効いた。数日経った今現在に至っても僕の胸をえぐり続けている。これがいわゆる、心の痛みってやつだ。僕がこれまで見てこなかった、逃げ続けてきた痛み。こんなものをずっと綾瀬も感じていたのだろうか。あれだけの肉体的な痛みも抱えた上で。
「やっぱりあいつはすげえよ……ヤベー奴だよ」
――お前は、桃華のこと、好きじゃないのかよ……。
そんな冬川さんの呟きを思い出す。どうなんだろう。僕は彼女のことを大切に思ってる。それは間違いない。そうでもなきゃ、必死に希望の道を探そうとはしないし、嫌な能力の行使をそう何度もしたりはしない。……殺してやるなんて、言いはしない。
綾瀬のことは好きだ。ハッキリそう言える。だけど、冬川さんが言った好きの意味くらいは分かってる。それが今の感情と合致しないことも。
「顔は可愛いよな。一緒にいて楽しいし、守ってあげたいとも思う。世間一般の言う好きの条件はクリアしてる」
……ダメだ、分からない。それでも、好きでも嫌いでも彼女のことを救いたいのは本当だ。これだけは何があっても真実だ。
だけど、どうしても彼女の病が付きまとう。痛みに支配された彼女の体と、僕のこの能力はどうしても相反するものだと思う。だって、例え付き合ったとしてキスも満足にできない関係なんて、いつか破綻してしまうに決まっている。
「……ってなんで僕付き合える前提で考えてるんだ! この前怒らせたばかりなのに」
はあ、力が抜ける。
と、その時またスマホが通知を拾った。今度は二件続けてだ。自慢じゃないが、僕は機械の扱いに弱い。だからあまり複雑なことは強いてほしくないのだが、情報社会化の進んだ今ではスマホの一つも扱えないのではやっていけない。世知辛い世の中だ。
「えっと……病院からか。入院棟、本棟被害なし……。よかった」
少し操作に迷いながらもう一件の通知を探していると、先に着信がきてしまった。いや、でも登録していない番号だな……。僕のこのスマホの番号を知ってる奴なんて数えるほどしかいないのに。
まあいいか。出るとしよう。
「もしもし?」
『オッサン? これオッサンの番号だよね!?』
きいん、と耳の奥まで突き抜けそうな高い大声だった。思わずスマホを耳元から離してしまう。
「そうだよ、大島の携帯ですよ。どちらさん?」
『悠長なこと言ってないで、ねえ、学校からのお知らせは読んだの!?』
徐々に霧が晴れるようにその声の持ち主を思い出した。そうだこれは、木崎さんの声だ。しかし、一体何故彼女が僕に電話を……?
「木崎さん、どうして僕の番号を?」
『智也君から聞いた! そんなことより、早くして!』
「ちょっと待ってくれよ……電話しながら通知って見れるもんなのか?」
『はあ? そんなこともわかんないの? ほんとおっさんなんだから! とにかく、非常事態なの!』
そうか、ここをスライドすればいいのか。えーと、何々……。
「以前から耐久不足を危惧されていた旧校舎の一部が、今の地震によって倒壊……避難誘導……えっ?」
つい先日まで僕も利用していた旧校舎だ。あの雑草だらけの校舎裏……本校舎から追い出された部活や生徒が集まっていたというあの場所だ。そういえば、あの校舎は確かに随分ボロい木造だったことを思い出す。
『見た? 見たよね? 本当に一角だけが崩れたらしいんだけど……私、大変なことしちゃったかも……』
「木崎さん? 確かに大変なことだけど……それがどうしたっていうんだ?」
『旧校舎に、今綾瀬さんがいるかもしれないの!』
スコン、と頭の中に空白が響いた。今、何と言った?
『友達に、綾瀬さんを呼び出す橋を作れって言われて、一発シメてやるとか言ってて……私、関わりたくないから断ったの。でも結局呼び出されたみたいで……。ねえ、オッサン聞いてる!?』
「木崎、その友達とやらと連絡は?」
『それがないからわざわざオッサンに連絡したんじゃん! ねえ、綾瀬さんと連絡ついてないの?』
「分かった、ありがとう」
僕は返事も聞かずに電話を切った。まだ何かわめいていた気がするが、そんなの待っていられやしない。即座に別の番号へ僕は電話をかける。
「もしもし、叔父さん?」
『おお、浩輝。随分久しぶりじゃないか。今の地震、大丈夫だったか?』
「まだ病院にいるよね? 車借りるよ」
『……おう、壊すなよ』
ありがたい。今だけは不干渉を貫いてくれる叔父さんが本当にありがたかった。
本当なら車やバイクでの通学は認められていないが、そんなことは言ってられない。元々校則違反で停学中の身だ。一つや二つ罪が増えたところで何も変わりはしない。
「綾瀬……帰っててくれよ」
車道のあちこちに、余震を警戒してか車両が放置されているのが鬱陶しかった。途中、何台かにぶつけてしまったが、まあ地震で潰れるよりはマシだと思っていただきたい。後で当て逃げでもなんでも罰は受けるから。
外にはあちこちで混乱が見られた。誰も彼もが家から出てきて周囲を見渡している。学校に向かうまでに、傾いた電柱や崩れた木造の小屋を何軒か見た。それによって焦りはさらに拡大していく。頼むから、頼むから最悪の事態にはならないでくれ……!
車で走ること二十分、僕はようやく学校へたどり着いた。中には少ないがまだ何人か残っていたようで、校門からも人だかりが見えた。
「あっちは……やっぱり、旧校舎か!」
僕は車を止める場所もそこそこに、外へ飛び出す。幸い、火災の気配は感じられなかった。
余震も建物の崩落にも気をつけなければならない。だが、もしも綾瀬がそこにいたら。そう思うと躊躇うことなんてできなかった。
僕は人目を避けるようにして旧校舎の中に入った。一番大きな入り口は何本か柱が折れたらしく、軋みを上げながら崩れつつあったから、反対側の西口の方から探索を始める。
明かりのついていない廊下はどれだけ歩いても先が見えないような気がする。一つ一つ教室を確認するが、人影は全く見えなかった。
「いてくれよ、綾瀬……いや、いない方がいいのか? ああ、くそっ、とにかく無事でいてくれ!」
しかし、探すにしても情報がなさ過ぎる。このまま闇雲に探していても埒が明かない。綾瀬のいそうな場所……いや、綾瀬は先輩に呼び出されたって言ってた。なら、どこにいるかなんて推察しようがない。
……。熟考している間にも、焦りが出たのか足が速くなっている。教室もいくつか見落としているかもしれない。一度そう思うともう自分の現在位置すら分からなくなってくる。
そんなことをしていたから、スマホの着信に気付くのが遅れてしまった。こんなときに、誰だろう。
「っ、綾瀬!」
僕は慌てて電話に出る。通話ボタンを何度も押しそこなってしまった。落ち着け、きっとこれは無事を伝える連絡だ。だから焦るな、僕!
「もしもし、もしもしっ! 綾瀬、無事なのか!?」
『――』
ひどいノイズが聞こえる。その奥から微かなうめき声のようなものが聞こえてくる。それと……なんだ、何か跳ねるような音も聞こえる。ああ、くそ、木崎さんのキンキン声のせいで音量を下げていたんだった。最大にまで音量を上げて耳を潰すほど強くスマホを押し付けた。
『――痛い……寒いよ、大島さん――あはっ……ちゃんと、言えた……』
「綾瀬、どこだ! 今どこにいる!」
『ああ、大島さんの声だ――……――ごめんね、約束、守れな――でも、こうなってよかったのかも……』
馬鹿が! この期に及んで何を言ってるんだ! そんな今にも死にそうな声で……。待て、死にそうな? そんな話を最近聞かなかったか?
『――』
また、ノイズしか聞こえなくなる。その奥で綾瀬の吐息が聞こえる。それと、なんだ、この音は……。
――ピチョン、ピチョン
「水の音……水道……トイレ、か?」
『だから……ごめんねって。言えた……良かった。聞こえてるかな、大島さん……』
「聞こえてる、聞こえてるぞ! 今すぐに行く! だから堪えるんだ、綾瀬!」
耳にスマホを押し付けたまま、僕は階段を駆け下りる。建物が崩落したのなら、きっと一階に綾瀬はいるはずだ。
そして、僕は見た。銀色の風をまとった白い翼を。あれこそ悪魔、綾瀬の魂を奪っていこうとする存在……! その背を逃すまいと僕は速度を上げた。
『死にたいって言ってたの――様が、叶えてくれたのかな。なら、これも当然なのかな……』
お前はそれでいいのか。知るか、知ったことか、僕がそれじゃよくないんだ!
『あ……もう何も……ばい、ばい』
無情にも、声が途絶えた。そして、スマホが落下して滑っていくノイズ。その瞬間、僕はスマホから何かの温もりのようなものが抜け落ちていくのを感じた。僕は今まで感じたことのないほどの激情が湧き上がってくるのを感じた。それはもちろん、綾瀬に対してだ。
何が、何が神だ! この世界の神様なんてくそったればっかりだ! そんなものに殺されるな。どうしても死にたいのなら。
「僕が殺してやるって、そう言っただろ……! それまでに、勝手に死んでんじゃねえよ……!」
やがて、旧校舎最後のトイレにたどり着いた。もう銀色の風は見えないが、中に入るまでもない。入り口が半分瓦礫で埋まり、二階の床が三割ほど抜け落ちてるのが分かった。
そして、その端に、彼女の姿はあった。
「綾瀬!」
落ちてきた瓦礫に押しつぶされたのだろう、彼女の体に食い込むほど強く、下半身全体に覆い被さっていた。その周囲は見てるだけでめまいがしてきそうな程の量の血に濡れている。
綾瀬の肌は土や血にまみれてなお、美しいほどに白かった。上半身が細かく上下していて、目はつぶられていた。額から流れる血に濡れた顔からは、常の笑顔なんて欠片も感じ取れない。
「綾瀬……」
これが、こんなものがお前の求めた幸せだったのか?
僕は、そっと彼女の隣でしゃがみこむ。というより、力が抜けてしまってそうせざるを得なかった。まだ綾瀬は生きている。だが、どう見ても……。もう。何も。できることはなかった。
こんな傷、治したことはない。僕の能力の最大の欠点として、治せる傷に限りがあるというものがある。例えば体を真っ二つにされた人間を治せるか、という話だが、論理的には可能でも、おそらくその傷口をつなげている間に僕自身が痛みに耐え切れなくて死んでしまうだろう。
綾瀬は死ぬ。僕の目の前で。僕は何もできないまま、彼女が絶望のまま死ぬ様を見ていることになる。こんなはずじゃなかった。僕は約束したのに。笑顔のまま殺してやるって、そう約束したはずなのに。
「お前の救いは、本当に死だけだったのか……? 僕じゃ、ダメだったのか?」
ああ、こんな時になって僕はやっと確信した。僕は彼女のことが好きだった。彼女だけの特別になりたいと、そう思っていたのだ。
視界がぐにゃりと歪み、ボロボロとこぼれて来る涙を止めることができなかった。
そんな時に、僕はあの約束を思い出す。誰も綾瀬を助けてくれなかったら、一緒に死んでやるという心中の約束を。それは今じゃないのか。もう、彼女のためにできることなんて、僕にはそれくらいしかないんじゃないのか。
……本当に、そうなのか?
――これで終わりだ。僕らの物語はここで終わる。絶望のまま、死にゆく彼女を抱えて、僕は自分の無力さを思い知った後悔に呑まれて、彼女が骸となるのを見届けるだけだ。
そう、あの冬に綾瀬と来世への転生について話をしたのを思い出したのは、こんな局面だからだ。魔法がどうとか、綾瀬はそんなことを言っていたな。もう今の体が嫌で仕方ない、殺してやりたいと。それなら、今のこの状況は確かに彼女の望み通りとも言える。
……本当の本当に、そうなのか? そうじゃないはずだ。違うはずだ!
「……ぁだ」
それは僕の願望が生んだ幻聴だったのだろうか。だが、確かに聞こえた。
「いやだ……死にたくないよう。私は、楽に……幸せに、なりたかった……だけ……」
その瞬間、ぷちりと何かが切れた音を聞いた気がした。僕は迷いなく、彼女の体を力強く抱きしめた。
足がちぎれた。背骨が砕けた。頭に破裂しそうな熱量を感じるのに、全身にぞっとするほど冷たい悪寒がはしる。
それは全て幻覚、しかし、真実彼女の痛みだった。やはり無理だったのだ。こんな傷を治すなんて。ここで僕も綾瀬も死んでしまう。
「……」
目の前に、灰褐色の髑髏をかぶり、身の丈ほどの大鎌を持った銀髪の少女の姿を見た。まるで僕らが死ぬのを待っているような佇まい。ああ、ようやく姿を見ることができた。
こいつが悪魔。人の死をすすり食らう悪魔なのか。
そこで僕が思い出したのは……あの、くそったれなゲームの話だった。あの救いのない、奇妙な転生ゲームとやら。
誰かに助けなんて、甘えていた。口を開けて待っていれば訪れるなんてどの嘘つきの言葉だ。誰かが、じゃない。僕が綾瀬を助けるんだ! 例え死んでしまったとしても……!
死か……そうだ。どうせ、死ぬのなら。
「ミネルカアアアアアアアアア!!!」
来世にワンチャン、かけてみようか。そのふざけた力で、このふざけた現実を変えられるならば。僕は喉も千切れよとばかりに叫んだ。声が裏返ろうと枯れ果てようと、僕は叫びを止めなかった。
「悪魔だってマフィアだって総理大臣だって殺してやる! 僕が見つけ出して望みどおり殺してやる! だから今! 僕に奇跡をよこせ! 綾瀬以外なら誰だってぶっ殺してやる! 僕の命を捧げてもいい! だから頼む……!」
痛みに、涙が止まらない。既に全身の感覚は麻痺しつつあった。ただただ巨大な痛みに押しつぶされるだけだった。
だが、腕の中にある温もりだけは、今もなおそれを失いつつあるその体の感触だけは、手放さない。
「全能の神なんだろう、だったら僕の叫びくらい聞き取れ! 他の何も望まない、何を課されてもいい、今、この傷を治すだけの力をくれ!」
瞬間、全身をのこぎりで切られているような痛みが、消えた。壊れた水道の奏でる音も、遠くに聞こえていたサイレンの音も、全てがかき消された。
そして、浅い呼吸を繰り返す綾瀬の体を抱いたままの僕は、あの真っ白い空間にいた。
「ふー、神様に出張させるなんて、不届きな人間なの」
現実というものを無視した生命体。カエルのような着ぐるみ。指先が膨らんだ手であたかも疲れました、とでも言いたげに額をかいている。
ああ、これだ。こんな奇跡があるならば。この力さえあれば……!
「それで、君は転生ゲームに参加する、ということでいいの?」
「……ああ、してやるさ。悪魔を殺せばいいんだろ。やってやる、そんなことくらい!」
「で、どうするのん?」
「……綾瀬の、来世を……痛みも何も無い、幸せなものにしてくれ。報酬の前借りだ。僕は絶対にゲームをクリアするから……。綾瀬の未来を守るって、約束したんだ……。頼む……」
だが、無情にもミネルカは首を横に振る。
「それはルール違反なの。報酬はゲームクリア者にしか与えられないの。例えその女を今すぐゲームに参加させたとて、数秒後に死んでしまうだけなの。そんな無駄なことを、ミネルカはしないの」
……ああ、そうか。神だなんだと言ってもやはり彼女を救ってはくれないのか。だったら。やはり僕が綾瀬を救うしかないではないか。
「それか、今、君の力を使い果たしてその女を生かして……でもそうなると悪魔を殺すことはできないの。君にむごい死に方を与えることもできないの。これは困った事態なの」
ああそうだろう、そうだろうともさ。だったら。
「お前は言ったな。試しに超能力を与えてやると。だけど僕にはもう超能力があるから与えることはできないと」
「そうなの。貴様みたいな選ばれし特別なチート野郎は滅びるといいの」
「だったら……そのチートを、僕の今ある力を、強化しろ」
若干の間が生まれた。ミネルカはその大きな瞳をパチクリと瞬きさせる。
「……それなら、できるの。でも、君が嫌っていたその力は、より強く魂に結びついてしまうの。何度生まれ変わろうと、決して離れることはなくなってしまうの。それじゃあ意味がない、と君は言ったはずなの」
「構わない。たとえ記憶が引き継がれようが、どんな生き地獄に意識を放り込まれようが、もういい。何千回だって繰り返してやる。それで、できるんだな? やれるんだな!?」
「答えはもちろんイエスなの。万能の神に不可能はないの」
だったら。両手は綾瀬を抱きしめたまま、視線だけでミネルカを貫いた。
「やってくれ。今すぐに……綾瀬の命が、消えてしまう前に。約束する。僕はどうなってもいい。でも僕が必ず、綾瀬の未来を幸せなものにする……。だから、お願いだ……。いずれ死んでしまうとしても……こんな終わり方、あんまりだ……」
「……承知したの。言っておくけど、これは例外なの。特別なことなの。だから一度だけ、チャンスをあげるの」
ミネルカの話は続く。未だ綾瀬から流れる血が、苦痛にうめく声が、今の僕の希望だった。
「君がその子に課した余命、残り半年間。……その子が死ぬと決めた冬まで。その期間だけ君の力を強化してあげるの。人間のちっぽけな痛みの許容量を、大幅に上げてあげるの。そいつが受けている痛み程度、余裕のよっちゃんなの。熊に殴られたって死ななくなるの」
ただし、と僕に向かって指を突きつける。
「君には、間違いなく、漏れはなく、半年後に絶対に死んでもらうことになるの。そして、来世からはただ人を癒すだけの奴隷になってもらうの。人材の浪費はよくないことなの。つまり、好きなように来世を過ごせるという権利を、手放すということになるの。そして半年後、もし悪魔を殺せていなかったら、その瞬間に君には過去の誰よりも、ひどい死に方をしてもらうの。それはもう、大変なことなの」
「その程度、構わないさ」
「これは禁忌とも呼ぶべき奇跡なの。貴様ごときの命で死の痛みを受け入れようというのだから、当然の代償なの」
ああ、そうだろうさ。だがそのくらい、覚悟の上だ。僕は今この瞬間、傍観者であることをやめたのだ。あとはただ、どう転んでも破滅の未来に向かうだけだ。だが、そこに彼女の幸せがあるのなら。僕は迷わず突き進む。
「やってやるさ……死ぬ気で悪魔を見つけ出して、殺してやる。その後はどうなったっていい」
「……ふ、ふふふ。おかしな人間なの。これは本来なら思い描く来世のために頑張るゲームなの。だが君は、それを捨てて今を選択しようとしているの。未来を掴むゲームで、未来を捨てるということになるの。その矛盾した望み、大いに気に入ったの」
そして、満を持してミネルカは言い放つ。
「ここに、大島浩輝の転生ゲームの参加を認めるの。同時に、その矮小なる能力の強化を授けるの」
ふわりと、ミネルカの腕が振るわれる。それはいつかのように僕の中へ光を送り込んできて……やがて、収まった。
「ちなみに、いいことを教えてあげるの」
「……なんだよ」
「今その子を見捨てれば、確実に悪魔が寄ってくるの。死体に群がる蛆虫のように。そうした時点で、君はゲームクリアなの。今ならまだ、生き地獄に放り込むことだけは勘弁してあげるのん」
この世界に来る寸前に見た、銀色の髑髏面を思い出す。だが僕はそんな囁きを、鼻で笑った。そんなことに、なんの意味があるというのか。
「そんなことするもんか……誰にだって、させるもんか。もう絶対に、僕は、綾瀬を見捨てない……! 僕が、助けるんだ!」
そう、絶対に。もう綾瀬のためだけじゃない。特殊な能力を持って生まれた使命感などではない。ただ僕のために、そうするのだ。僕が愛した人を救うために、行動を起こす。
そう思うと、いくらでも力が湧いてくるような気がした。なんだってできる、彼女のためなら、どんな無茶でもこなせそうな。そんな気がした。
「じゃあ、せいぜい頑張るの。うーん、これは久しぶりに、退屈しないで済みそうなの」
あまりにあっけなく、ミネルカは消えた。その瞬間、あの猛烈な痛みが帰って来る。それはどこまでも止めどなく、僕は意識を留めておくのに精一杯だった。
だが、耐えられる。まるで四肢が欠損しては再生して、また千切れるのを繰り返しているような感覚だ。これが、寿命の強化。痛みの許容量が増えるということか。
永遠にも感じられる苦痛の濁流の中、僕は必死に綾瀬の体を抱きしめていた。こんなもの、綾瀬の感じてきた痛みを思えば、地獄でもなんでもない。
「……っは、残念だったな。悪魔さん」
依然として、そいつはまだそこにいた。仮面越し、しかも身じろぎ一つしない大鎌の少女、悪魔の感情は読み取れない。だが、死から逃れた僕らには手出しできないようだった。
「こいつの魂はお前にはやんねえよ……。僕が、守る。守りきってみせる」
そう言うと、大鎌の少女はさっと後ろに振り返る。その拍子に見えたのだが、彼女はなんと、仮面と長い銀髪、それに大鎌だけが宙に浮いた状態だった。体に値する部分は、夜闇より深い漆黒で覆われている。僕は一体なぜ、彼女を女性だと認識したのだろうか。
「……死は。いずれ訪れる。痛みの使徒は、必ずやってくる」
それは、悪魔にはまるで似つかわしくない、鈴を転がしたような綺麗な声だった。痛みの使徒? それは僕が勝手にそう呼んでいるだけの造語だ。一体なぜ悪魔が……?
しかし、その疑問を挟む間もなく、大鎌が弧を描いて振るわれた。空気の裂ける音を確かに聞いた気がした。
驚いて目をつぶってしまう……だが、何の衝撃もやってこなかった。
恐る恐る目を開けると、悪魔の姿はもうそこにはなく、綾瀬に圧し掛かっていた岩盤が綺麗に真っ二つに割れていた。
「助けて……くれたのか」
何故だろう。死を回避したからだろうか。
いや、そんなことはどうでもいい、早くこの場を離れなければ!
「綾瀬……動かすぞ」
返事はない。当然だ。あれだけの痛みだ、僕の能力の行使で失神していない方がおかしい。しかし、呼吸も平常に戻っているのを見ると、途端に安心してしまった。
僕は彼女を抱き上げると、やっとの思いで背に担ぐことに成功する。ちょうどその瞬間だった。初震ほどではないが強い縦揺れが起きた。
「くっ……重いな」
あまり女性にこういうことを言うもんじゃないが、意識のない、それも自分より背が高い人間一人はやはり重い。こんなことなら、体だけは鍛えておけばよかった。
「……大島さん」
「くっ……綾瀬、目覚めたのか」
そう思ったが、彼女の声はまだどこか胡乱気だ。
「私、死んでたはずなのに……どうして? なんだか……気持ちいい。ここ、天国なのかな……」
「……ただの夢さ」
僕は口を開くのもやっとだったが、それだけ返した。一歩一歩が本当に重たい。
「そっか、夢か。久しぶりに、とってもいい夢だなあ。大島さんの背中、温かい……。ねえ、聞いて。私、天使に会ったんだ……今度、話を聞かせてあげるね」
そうして、また綾瀬は口を閉ざした。今もまだ僕の体は綾瀬の痛みを吸い取り続けている。意識が落ちたのはきっとそのせいだ。そうに違いない。
「次の夢ではきっと……ちゃんと、僕も話してやるからな」
旧校舎を抜けて、僕はとにかく明かりの見える方へと歩いた。一歩進むたびに、痛みは遠のいていく。これが治癒が進んでいるからなのか、僕の体が限界なのかは分からなかった。
「大島君!」
遠く、灰色のスーツ姿の女性の影が見えた。あれは、安室先生か。隣にいるのは、良かった、保険医の佐々木先生だ。
「ひどい血……早くテントに!」
「これは、おい! 急患だ! 布団を一つ空けろ!」
わらわらと、何人もの人が集まってくる。それを見て、ああ助かったんだ、という安堵が生まれた。二人に話しかけようとして、ひどく口が重たいことに気付く。
「僕は……だから……の、を」
「なんだ? いや、いい。喋るな。誰か! 担架を持って来い!」
遠く、サイレンの音が聞こえる。これは、救急車か。いや……なんでもいい。この先生たちがいるなら、後はどうにかしてくれることだろう。
「綾瀬を、よろしくお願いします……僕は、なんとも、ありま、せ……」
すとん、と意識が落ちていくのをどこかでぼんやりと感じた。騒ぎ立てる周囲の声も段々遠のき、僕は暗闇へ沈んでいく……。
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