治療魔法でも癒やせない君の心06
そして、男子生徒を保健室まで送り届けた僕らを待っていたのは、やけに日焼けしたロングヘアの女保険医だった。前髪は目を覆い隠すほどで、打って変わってすっと通った鼻筋が爽やかなのが印象的だ。
「あの宮代に一発カマしたんだって? そりゃいい」
「かますって……別にケンカしたわけじゃないですよ」
ちょっとした騒動ではあったが、俗にいう喧嘩ではなかった。
「それになんで知ってるんですか? 今さっきのことですよ?」
「この子、二年の平井だろう? いつも宮代に泣かされて保健室に来るからね。覚えてしまったよ。傷が見当たらないということは君たちが助けたんだろう。そのくらいは察しがつく」
「それを先生は黙って見てるってわけだ」
「……そうは言うがね、では私にできることはなんだろうね。平井はそうだね、言わば宮代のライバルでいるつもりなのさ」
「ライバル?」
「先に手を出したのがどっちかは知らないけど……顔を突き合わせればケンカしているらしいよ。そしていつも負けて帰ってくるのさ。事情が事情だからどちらが学校に報告することもなくてね。宮代も表立って何かしているわけじゃない」
それは。イジメというのもひどい勘違いだったのか。ならば、ならば僕の敵は……。
さて、と保険医は机から僕らに体を向ける。膨らんだ胸にある教員証から、佐々木という名前が見て取れた。
「子供のケンカに大人が首を突っ込むのはどうかと思うがね。これが一方的ないわゆるイジメなら話は別だが。どっちにしろ、私は怪我をしたり具合の悪い子の相手で手一杯なんだ。青少年の主張はよそでやってくれないかね」
事情を知らない僕から、それ以上言えることはなかった。
「なあオッサン。あんたって正義の味方かなんかなの?」
「え、あ……いや。違うけど」
「だったらいいじゃん。もう善良な一市民としての義務は果たしたって。さっさと帰ろうぜ」
眠たげな目で言う恋塚に、少し気分が落ち着いた。
確かに、それもそうだ。僕に平井先輩を助ける義理はないし、自分たちに害が及ばないなら学園の風紀だってどうでもいい。
そう、いいじゃないか。別に。そもそも、ケンカだなんだなんて僕の求めていた学園生活には不要のものだ。ああ、そういえば恋塚には礼を言わないとな。
「恋塚、さっきはありがとうな。助けに来てくれて」
「あ? 別にいーって。何したわけでもないし。それならあの子に礼言っとけよ」
「あの子?」
「オッサンが推してたあの可愛い子。すごい形相で俺のとこまで走ってきたんだぜ」
「綾瀬……そんなことを」
足を一歩動かすだけで苦痛を感じるはずの綾瀬。その彼女が走って助けを呼んでくれたのなら、確かに頭を下げなければならない。
「おや、綾瀬ってあの金髪の新入生かい?」
「先生知ってるんですか?」
「そりゃね。何しろ新学期が始まってから早くも常連になった子だからね」
「あれ、じゃあ先生は綾瀬の病気のことも……」
っと、いけない。口を滑らしたか?
恐る恐る恋塚のほうを見るが、退屈そうに欠伸をしていた。もう目の前の出来事に興味を失っている様子だった。
「ああ、まあ。ね。難儀な話だよ」
佐々木先生は、ふうと一息を漏らすと腰のポケットを探る。そして何かに気がついたように小さく舌打ちを漏らした。
「私も医者の端くれだが、そんな病気があるなんて聞いたことがなかった。実際、診察もしたが彼女には何の問題もなかった。だからサボるならもっと上手くやれと言ってやったのさ。暇潰しに催眠術にでもかけてやろうと言ったら、断られたね。はは」
「……先生、本当にそんなことを?」
無意識に、言葉に棘が刺さってしまった。
「催眠術かい? こう見えても私は正式な資格も持ってるんだぞ」
「違います! 綾瀬のことをサボり魔だなんて、そんなことを言ったんですか!?」
「仕方ないだろう。こっちも仕事なんだ。どこにも異常のない生徒をベッドで寝かせる、それをサボりと呼ばずなんと言う?」
……これが、これが線維筋痛症の今のあり方だ。誰にも理解を示されず、仮にも医の道を歩いている先生にまでこう言われる始末だ。僕はそんな現実に、怒りを抑えられなかった。
「あいつはっ、そういう病気なんです! 先生のそんな態度があいつを苦しめているというのに……!」
再び燃え上がってしまった僕を、佐々木先生はどうどう、といさめた。
「今は悪かったと思っているよ。本当に知らなかったんだ。とにかく、君も彼女のことを知っているなら少しでも力になってやるといい。そっちの子の言う通り、こんな荒事にいつまでもかまけていないでな。それじゃあそろそろ戻りなさい。授業が始まるよ。君たち、安室先生のとこの子だろ。新人教師に迷惑をかけるもんじゃない」
「はあ……まあ、そうですね。そうします」
行くぞ、と恋塚に声をかけようとして、恋塚が目を閉じて船を漕いでいるのが見えた。
「おい、恋塚……」
「眠いならここのベッドを使うといい。事情がどうあれケンカを諫めてくれたんだろう。そのくらいは構わないさ」
「先生も、妙なこと言わないでください」
僕が強引にでも恋塚を連れ出そうとすると、か細い声が漂ってきた。
「……ま、待ってくれ。君、僕を助けてくれた奴だろう」
もう気絶から目覚めたのか、そこには細めの一重から怪訝そうな光を見せる平井先輩の姿があった。
「平井、大丈夫か? どこか痛んだり吐き気はないか?」
「え、ああ……先生。いつもすみません。大丈夫です」
そう答えられると、佐々木先生はこれから会議があるから、と部屋を後にしてしまった。保険医がこの有様でこの学校は大丈夫なのだろうか。
場の空気が荒れたままなのをなんとなく感じたまま、僕は平井先輩に尋ねた。
「それで、平井先輩はなんでケンカ売ってまわってるんですか?」
「まだ続けんの? オッサン……俺もう帰っちまうぜ」
恋塚が不満そうな声を漏らすが気にしない。どうしてもそれが気になって仕方なかったのだ。何しろ、今や彼こそが僕の敵に他ならなかったからだ。
「それも、多人数相手の勝ち目のない勝負とも呼べない行為を。今回は助けられましたけどいつもはやられっぱなしなワケでしょう」
「それは……」
平井先輩は細い目を流して僕から視線を逸らす。
「ひょっとして、マゾかなんかですか?」
「ち、違うわい!」
ナマったな。この人もどこかの地方出身なんだろうか。
「だったら、どうしてなんです」
「俺は……負けるわけにはいかないからだ」
「何に対してです。まさか宮代先輩に? それに何の意味があると?」
「……」
彼はそれ以上、何も語ってくれなかった。仮にも恩人であろうと、初対面の相手に話すことでもないみたいだ。まあ、それならそれでいい。
「あなたの体は、悲鳴を上げていましたよ」
「……?」
「助けてと、そう語っていました。僕はその声を無視する人間が大嫌いです。その叫びを無視してまで、あなたは何に勝ちたいと言うんです?」
「俺の体が、悲鳴を……」
自らの両腕を見下ろす彼の目は見えなかった。見えたところで、何を思っているかなんて読心術を持たない僕には察することもできない。
だが、僕の言いたいことは言った。もう用はない。
「とにかく、これで懲りてくださいね。次からはもう助けませんから」
「俺は! 誰の助けも……」
「先輩にも何か事情があるんでしょう。それは咎めませんよ。でも僕は、痛みを無視することが許せなくてあの場に立ったんです。決してあなたを哀れんだからではありません」
「な、何が痛みだ……何が同情だ! 俺のことを何も知らないくせに……! 俺はあいつのためにも、誰より強くないと!」
見ず知らずの後輩にいきなりこんなことを言われて憤ったのだろうか。平井先輩は勢いよく立ち上がると声を張り上げた。思ったより背が高く、僕はそれを微かに見上げる形になる。
僕は確かに何も知らない。知ったこっちゃない。誰にどんな事情があろうと、僕には許せないものがあるのだ。
「あんたのやってる事は無駄だ。痛み以外何も生み出しやしない。そのあいつとやらだって、きっと歓迎していないぜ。暴力の理由に他人を使うなよ。胸糞悪い」
ぐっと平井先輩が拳を握るのが見えた。悔しいだろう、何も知らない他人からこんな風に言われるのは。しかし、それほど馬鹿げていることをやっているのだと知って欲しかった。
……そして、僕だけが知っている。彼の痛みを。
「あんなに痛いと感じていたんじゃないか……。なんでわざわざ自分でそんなことをするんですか、先輩。僕にはそれが分からない」
「……お前は、俺の何を知ってるんだ」
「何も知りませんよ。あなたのことなんて。ただ、痛みを知っているだけです」
そっと彼の腕に触れる。抵抗したのだろう、一番多く打撲の跡があった場所だ。
「そうでしょう、平井先輩。……痛かったでしょうに。僕は、それが許せない」
「僕は……」
――悪魔が近いの。
また、この声だ。一体なんなんだ。この期に及んで悪魔だなんだと……。
「あっ……」
俯いて肩を震わせる平井先輩の影に、銀色の風のようなものがちらつくのが見えた。僕の目が確かなら、こんなものが見えてる時点で確かではないと思うが、そいつは真っ白な翼を広げていた。
「ひ、平井先輩」
「……なんだよ。まだ何かあるのか」
「いえ、これが最後です。もうこれ以上言いたいこともありません。だからもし心当たりがなかったら無視して下さい」
口の中が急速に乾いていくのを感じた。その時になってようやく、不思議な声の主がミネルカのものだと気付いたからだ。転生ゲームなんていうふざけたゲームを持ち出してきたあいつの。
そのミネルカはこうも言ってなかっただろうか。悪魔は翼を持っていて。死期が近づいた者に悪魔は接触してくると。
「その……死のうとか、思っていたりはしませんか」
「なんだ? そんなこと……思うわけがないだろ」
「では……悪魔を、知っていますか」
変化は急激だった。平井先輩の顔が真っ赤から真っ青へと変わり、強い力で僕の肩を掴んでくる。その目は今まで見たどれよりも必死なものだった。
「き、君もあのゲームの参加者なのか?」
「ちょ、先輩近いです」
「教えてくれ! 悪魔はどこなんだ! いや、それよりどこに行けば参加できるんだ!」
僕はその圧に押されて、思わずフレチューでの宿泊先を告げてしまった。いや、だって本気で怖かった。教えなければすぐに首をねじ切られてしまうのではないかと思ったほどだ。恋塚が後ろで静かに身構えたのが分かった。
「あそこ、あそこか! ありがとう……ええと」
「僕は大島。一年ですよ」
「大島、ありがとう! これで僕も……!」
止める間もなく、平井先輩は保健室を出てしまった。まるで嵐が過ぎ去った後のような静けさが僕らの間に停滞する。
「……なんだったんだ、あれ」
恋塚の言葉に、僕は首を左右に振った。
「ワケわかんないよ。いや、それよりヤバいかも……」
「ヤバいって何が?」
「あの平井って奴、死ぬかも」
僕のそんな物騒なセリフに、恋塚が眉をひそめた。
「また変なこと言い出したな、オッサン」
「……恋塚。これ真面目な話なんだけど。聞いてくれる?」
その時、授業開始を告げるチャイムが鳴り響いた。僕と恋塚は顔を見合わせて視線で会話する。
「フけるか。午後は」
「そうだね……。ちょっと色々疲れたし」
息を大きく吹き出して、僕は恋塚に悪魔の影のことを伝える決意をした。なんだかんだで頼りになる奴だと分かったし、他に相談相手なんていないからな。
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