コンクール練習編
「ピアノのコンクール、ですか?」
「うん。 私が通ってるピアノの教室が主催のコンクールなんだけど、毎年この時期にやってるんだよ~」
放課後。 校舎の中でも、特に人通りの少ない三階フロアのその端に、音楽室……もとい、音楽部の部室はあった。 合奏の音が聞こえてきてもおかしくない筈のその場所は、しかしピアノの音すら響いておらず、代わりに二人の女子生徒の他愛ないしゃべり声が漏れていた。
「い、いやいやいや待って下さい!! 私はあくまでも人数合わせ要員で来ているだけというか、その、ピアノも全く経験ゼロなので、急にコンクール出場というのは流石に……!」
「あ……ううん、違うの。 "お願い"っていうのは、コンクールに出場して欲しいって事じゃなくてね……」
そう言って、彼女は持っていたファイルの中から楽譜を取り出すと、馴れた手つきでピアノを演奏する準備を進めていく。 音楽部の部長を務める彼女━━━乃木坂 音色(のぎさか ねいろ)が、窓から降り注ぐ夕日に照らされてキラキラと輝きながら、ピアノの前に腰かける様子を、同じ音楽部の部員である欅 桃子(けやき ももこ)は、壁際に背を預けながらただぼんやりと眺めていた。 一つ一つの動作の度に、大きくたゆんと揺れる音色の胸へと自然に目が吸い寄せられてしまう桃子だったが、なんとか頭を振って邪念を払う。 それでも、夕日を纏う音色の純粋な美しさは、自然と桃子の胸をドキドキさせていた。
「実はね、そのコンクールで演奏する曲を昨日作ったんだけど、それを桃子ちゃんに聞いて欲しいんだ~」
「は、はぁ……私に、ですか?」
「うん、誰かに感想を貰いたくて。 演奏曲はオリジナルじゃなきゃ駄目だから、あんまり色んな人に聞かせたりしちゃいけないんだけど……でも、同じ音楽部の桃子ちゃんになら大丈夫かな、って」
なるほど……と桃子は頷いた。 要するに、音色の"お願い"は「コンクールで発表する曲を試聴して、チェックほしい」というもの。 それなら、(一応)音楽部である自分がその役割に抜擢されるのも分かるし、本番前に自分のコンディションを評価して貰いたいという気持ちも分かる、と桃子は思った。 ただ、それでもやっぱり腑に落ちない部分はあるようで。
「あのぉ……自分、クラシックとかそういうのあんま聞かないんで、気の効いた感想とか言えないですよ……?」
「大丈夫。 私としては、誰かに演奏を聞いてもらうこと自体に意味があるって思ってるからね~」
「そういうものなんですか……?」
「そういうものだよ~♪」
そう言って微笑む音色。 彼女に勧められ、近くの椅子に腰かけることにした桃子は、横目でチラッと時計を確認した。
桃子は、音楽部に所属すると同時に、ソフトボール部に在籍している。 冬場はサッカー部やラグビー部が優先的にグラウンドを使うため、練習開始時刻はいつも遅めになるため、今は自由時間なのだ。 しかし、同じソフトボール部の先輩である和田辺 つぐみ(わたなべ つぐみ)や篠田 夏燐(しのだ かりん)らは、こうした空き時間にもよく自主的にトレーニングをしているのだ。 彼女たちの自主トレに加わりたい……もとい、敬愛するつぐみ先輩と少しでも一緒に居たい、と思っていたため、桃子は音色のお願いを聞き届けたら、すぐにソフト部の部室に向かうつもりでいた。
(……でも、乃木坂先輩の生演奏聞けるなんて結構レアだし、テキトーな感想言う訳にもいかないしなぁ。
今だけ……今だけは、つぐみ先輩のこと考えないようにしないと!)
また頭をブンブンと振って、身体を動かしながら気持ちを切り換える桃子。 そんな彼女の様子を見て、頭にハテナマークを浮かべる音色だったが、 桃子が「何でもないですよ!」と頑なに言い続けるため、特に気にしないことにした。
「それじゃあ……よろしくお願いしま~す」
「は、はいっ! こちらこそ、よろしくお願いします!」
本番を意識して一礼する音色に釣られ、桃子も思わずペコリと頭を下げる。 それを見てクスッと笑いながら、音色は椅子に座り直して、ゆっくりと鍵盤に指をかけた。 そして━━━
「おぉ…………」
繊細な指が鍵盤の上を蹂躙していく度に、ピアノから軽やかな音が響く。 辺り一帯を包み込む空気の流れや温かさに身を任せるようにして、音色は目を閉じながら綺麗な音楽を奏でた。 言うなればそれは、満天の星の下で揺れる草花を連想させるメロディ。 どこかノスタルジックでありながら、自然と心が躍るような明るさを持って奏でられるその曲に、桃子はただ「ほゎぁ……」と息をついていた。
「~~~♪」
音色は、もはや楽譜を見ていなかった。 幼い頃からずっとピアノとともに過ごしてきた音色にとって、手元を見ずに鍵盤を叩くことは造作もない。 ただ、昨日つくったばかりだというその曲を、もう既に身体に覚え込ませて弾いているというのは驚くべきことである。 有名な画家や作家などが、よく"手が勝手に動くのだ"というように自分の作業過程を言い表すことがあるが、音色はまさにその領域に達していた。
(す、すごい……こう、なんて言えば良いのか全然分かんないけど、すごい……!)
適当に感想言ってさっさと退散しよう……と、ついさっきまで考えていた桃子は、自分のその愚かさを恥じた。 だって、まるでコンサートのような素晴らしい演奏を、自分は今独り占めしているのだから。 そりゃ、今すぐつぐみ先輩に抱きつきにいきたい、という衝動は消えないが、それでも音色先輩の演奏は、自分の語彙力では形容しきれない程にすごいものだ。 そんな風に思いながら、桃子は興奮を抑えきれない様子で、目を輝かせながら音色の演奏に聞き入っていた。
「~~~♪ …………っと、こんな感じかな。 桃子ちゃん、どうだった~?」
心地の良い余韻を残しながら、ピアノの演奏が止んだ。 演奏時間は僅か4~5分程度だったが、桃子はまるでコンサート一本分を丸々見終えたかのような感覚になっていた。 あっという間だったような、でも凄く濃密な時間だったような……そんな未知の感覚が、桃子の中に広がっていたのだ。
「どう、って……そりゃもう、すごかったですよ!! なんかこう、身体の中からブワァーッてなってですね、心にビャアアって広がってですね! なんて言うか、もう、最ッ高でした!!」
「ふふっ、なんだかappassionatoな感想だね。 気に入って貰えたなら嬉しいな~」
「いえいえ! むしろこちらこそありがとうございますって感じですから! 私、音楽部入って良かったです!!」
ちょっと大げさかも……とは思いながらも、桃子は自分の中で沸き上がる興奮をとにかく伝えたくて仕方がなかった。 彼女の性格もあってか、矢継ぎ早に繰り出される言葉の数々は、忙しないものになっていた。 身ぶり手振りを交えて、自分なりの言葉で感動を表現する桃子の様子を、音色は嬉しそうに微笑みながら見つめていた。
翌日。
先日風邪を引いていたつぐみにうつされたのか、篠田と稲垣の二人が風邪でダウンしてしまった。 そのため、アイドル研究部の活動が休みになった。 昨日はもともとオフの日だったからよかったものの、今日は特に音楽室に立ち寄る予定をしていなかった音色は、時間をもて余してふらっと音楽室を訪れ、ほとんど無意識的にピアノの前に腰を据えていた。
「……やっぱり、ここに来ると落ち着くな~」
黒く光を纏うピアノの側板をそっと指でなぞりながら、音色はチラリと辺り一帯を見渡した。
楽器の音は勿論、人の声すら響かない今の音楽室は、まるで深い森の中のような心地よい静寂に包まれていた。 楽器の音が、その場の空気に色をつけるものであるとしたならば、さしずめ今の音楽室は、色が塗られる前の真っ白なキャンバスであろう。 無色透明の静けさに身体を預けるように、音色はゆっくりと背を伸ばして深呼吸をした。
「…………」
色の無い静寂を充分に堪能してから、音色はそっとピアノの鍵盤蓋を開けた。 昨日演奏した曲の楽譜は、鞄の中に入れたまま教室に置いてきてしまっている。 だから、彼女は譜面台に何も置かずに鍵盤に手をかけた。 彼女の頭の中では、もう既に演奏は始まっていたのだ。
「~~~♪」
何も無いキャンバスに、音の色が刻まれていく。 窓から射し込む光が、風が、音が、全て彼女の奏でる旋律によって色付けられていった。 人が居ない分、僅かに広さが増した音楽室の中を、ピアノの力強い音が駆け巡るように響き渡る。 深く、何も無かったはずの森の中は、小鳥の囀りに誘われた様々な生き物たちで溢れかえっていた。
「……ふぅ。 やっぱり、ピアノを弾いてる時はanimatoできるね~」
一曲を弾き終えて、音色はふぅ、と息をつきながら天井を見上げた。
音色がピアノを始めたのは、一歳の時だった。 有名な音楽学校の講師をしていた母親の影響だ。 誰に教えられるでもなく、彼女は天性の才能でどんどんピアノの腕を上達させ、小学校の時点で全国規模のコンクールに出場するほどになっていた。 こうして今も、何もする事がない時なんかには無意識にピアノを弾いてしまう程に、彼女の身体にはピアノの旋律が染み込んでいた。 それくらい、彼女にとってピアノは大切なものであり、自分の生きがいとも言うべきものであった。
……そう。 裏を返せば、自分にはそれしか取り柄がないと、音色はそう思い込んでいた。
「でも、今は……」
今は、違う。 彼女は今、自分にとって新しい生きがいを得ている。 WINGSというグループでの、アイドル活動である。
WINGSに入ってからは、勉強とピアノのレッスンとを繰り返すだけという、彼女の色褪せた毎日は変わった。 仲間と一緒に、難しいことや大変なことにチャレンジする。 そんな毎日が、音色にとって新たな色彩になった。
勿論、ピアノが嫌いになった訳ではない。 ピアノのレッスンを疎かにするつもりは無いし、ましてや止めるつもりもない。 彼女の親友に、アイドル活動とソフトボール部の部活動を両立している、和田辺つぐみという人物がいる。 自分も、つぐみちゃんに負けないように頑張りたい。 ピアノも、アイドル活動も全力でやりたい……! メラメラと燃える真っ赤な思いが、いつしか、大人しい性格の乃木坂音色を突き動かすようになっていたのだ。
「……さてと。 あんまり長居してもなんだし、そろそろ帰ろうっと」
ん~! と、天井に向かって大きく伸びをした後、ゆっくりと椅子から立ち上がる音色。 鍵盤蓋を閉じて、軽く机や椅子などを整理してから、音楽室を後にしようとする。 ……と、その時だった。
『━━━はやくはやくっ! 私の勘だと、多分来てる筈ですからっ!』
『ちょ、腕引っ張らないでってば! ……というか、さっきからどさくさに紛れて胸触ってるのバレてるからね!』
音楽室の扉の向こうからガヤガヤと声が聞こえて、音色は扉に手をかける直前で立ち止まった。 だんだんと近づいてくるその二つの声は、どこかで……いや、むしろ彼女にとっては聞き慣れた声であった。 足音が止み、向こう側から誰かが扉に手をかけて、扉が微かにカタッと音を立てて揺れる。 どうしよう、とオロオロする音色をよそに、扉はそのまま勢いよく開かれた。
「失礼しまーっす! ……って、あれ? 乃木坂先輩、もしかしてずっとスタンバってました?」
「わお、本当に来てたとは……。 やっほーのんちゃん! ももっちに連れられて遊びに来たよー♪」
テンション高く音楽室に入ってきたのは、桃子とつぐみの二人だった。 腕を組んで(というか、桃子が一方的に腕を絡めて)入ってきた二人は、どうやら音色に会いに来ることが目的だったようだ。
「ふ、二人とも……どうしてここに?」
そう訊ねる音色に、桃子は目をキラキラ輝かせながら、
「はいっ! 実はですね、昨日の乃木坂先輩の演奏が本当に本っ当にスゴくてですね! 今日はアイドル研の活動お休みとの事でしたから、是非とももう一度……今度は、つぐみ先輩と一緒に拝聴させて頂きたくてですね!!」
「ももっちてば、今日はずっと「のんちゃんの演奏が凄かったんですよー!」って話ばっかりでさー。 で、そこまで絶賛だと私もちょっと気になっちゃって、ももっちの口車に乗せられて来ちゃったって訳」
もう既に鼻息が洗い桃子と、苦笑いのつぐみ。 そんな二人から『演奏を聞きたい』というリクエストを受けて、音色はビックリしたような、ちょっとくすぐったいような、そんな気持ちになっていた。
「それで……あの、もう一度昨日の演奏を聞かせて頂けないでしょうか……?」
チラ、と音色の顔を覗き込みながら桃子が訊ねる。 しかし、聞かれるまでもなく、音色の返事は決まっていた。 心の奥底の、"嬉しい"という色を満面の笑みに変えて、音色は答える。
「勿論! 二人のためなら、フォルテッシモで演奏するよ~♪」
そうして、今日も音楽室は色鮮やかな音の色に包まれるのだった。
コンクール練習編 END