WINGS&アイロミームproject(仮)
音色② 『コンクール直前 編』
コンクール直前 編  駅からほど近いコンサートホールには、朝早くだというのに、思ったより多くの人が押し寄せていた。 チケットはもう既に持っているから、会場に入れないなんて事な無いだろうけど、ホール内をうろついたり、席を移動したりするような余裕は無さそうだ。  『カワナミ音楽教室』という有名な音楽教室が主催の、第三十五回全国ピアノコンクール大会。 その地方予選が、今日この会場で行われる。 結構有名な大会らしく、この圧倒的なギャラリーの数からもその規模の大きさが窺える。  自分は、普段ピアノの曲とかを好んで聞くようなタイプではない。 ましてや、こんなコンサート会場で生のピアノを聞きに来るなんて初めてだ。 そんな自分が何故、今こうしてピアノコンクールの会場に足を運んでいるのか……それは、ある大切な人から招待を受けたからだった。      ホールのメインゲートが開場し、人の塊が徐々に動き出し始めた。 ずるずると、柵の中から解き放たれた羊のように動いていく人々の流れに、半ば身を任せるようにしてホールに入っていく。  丁度、メインゲートの扉を過ぎた辺りで、ようやく人の波から解放された。 清潔感のあるホール内は、廊下からすでにだだっ広い。 あんまりウロチョロせずに、早めに席についておいた方が良さそうだ。 ただ、開始まではまだ時間があるし、席につく前に御手洗いにでも行っておこう。 そう思って、もう一度人混みを掻き分けて、反対側にある御手洗いへと向かった。        『ご来場の皆様、本日は………』      場内アナウンスが響く中、御手洗いを済ませて出てくると、もうさっきまでの人混みは解消されていて、見物客がまばらに立ち話をしているだけになっていた。 多くの人は、もう既に席についているのだろう。 ただでさえ広い廊下が、より広く感じられる。  自分もさっさと席についておこうと思い、会場の扉に手をかけよう。 そう思った時だった。        「……お~い! お~いっ!」      囁くぐらいのボリュームで、誰かが誰かを呼ぶ声がする。 キョロキョロと辺りを見回すと、どうやらその声は、ステージのほぼ真横に位置する関係者控え室につながる廊下から聞こえてくるようだと分かった。  自分が呼ばれているのかな……? そっと向こう側を覗き込むようにして見てみて、思わず「おぉ……」と声を漏らしてしまった。      そこに居たのは、自分をこのピアノコンクールに招待してくれた張本人、乃木坂 音色だった。 というのも、実は彼女は一緒にコンクールの曲を鑑賞したいが為に招待をしたのではなく、彼女自身がコンクールに出場する為に自分を招待してくれたのだ。   ……そう、彼女はもうすぐステージでピアノを演奏する身である。 つまり、それ相応のドレスアップをしていたのだ。  まるで、豪華客船のディナーにでもお呼ばれした人のような山吹色のドレスは、動く度に光を反射してキラキラと輝いていた。 いつも学校で見るのと違って大人っぽい印象に見えるのは、彼女が薄く化粧を施しているからだろうか。 頭につけた花飾りや、胸元のネックレスなんかも、彼女の魅力をより一層引き立てている。 ……というか、そのネックレスをバシバシと弾き返す豊満な胸に、どうしても目がいってしまう。 なんだあのメロンは。   とまぁ、そんなきらびやかな彼女の姿を一目見ただけで、もう既に心臓の動きがトクントクンと早くなっていた。      彼女は、周辺をチラチラと気にしながら、こっそりとこちらに向けて手招きをしていた。 ……え、これってもしかして、関係者控え室の方に入ってこいという事?  無論、自分はただの客であり関係者ではない。 だから、いかにも『関係者以外立ち入り禁止!』みたいな所に入るのは……。      しかし、彼女の方から向けられてくる視線が……おねだりをする子犬のような魅惑的な視線が、その判断を鈍らせる。 ウンウンと悩む頭と裏腹に、自分の身体は、彼女の方へと吸い寄せられるように、トコトコと歩いているのだった。          ~~~      「ふぅ~、危なかったね~。 スタッフの人に見つかりそうになった時はヒヤヒヤしちゃったよ~」      控え室内。 なんかすごく高級そうなソファーにストン、と腰を据え、音色はホッと胸を撫で下ろしていた。 白い壁紙も相まって非常に清潔感があるように見える室内は、コンクールの参加者一人ひとりに個別に用意されているらしく、今室内には自分と音色の二人しか居ないという状況だった。 ……なんというか、場違い感と罪悪感ですごく居心地が悪い!  今さらだが、本当に入って大丈夫だったのだろうか? そう彼女に訊ねると、      「大丈夫だよ。 だって、あなたは私の関係者だもん」      と、満面の笑みで返された。 ……いや、実際彼女もスタッフの目を気にしていたし、それは取って付けた理由なのだろう。 いつもは大人しい彼女だが、こういう時の行動力の高さにはいつも驚かされる。 本当、音色にはいつもドキドキさせられっぱなしだ。  にしても、彼女はどうして、こうまでして自分を控え室内に連れてきたかったのだろう? あの……と、こちらから理由を訊ねるよりも前に、彼女はゆっくりと立ちあがり、鏡の前にある別の椅子に腰かけていた自分の隣へと寄ってきて、そのまま横の椅子に座った。      「ふふっ。 ……やっぱり、あなたが傍に居てくれると落ち着くな~」      いやこっちは全然落ち着かないんですけど! ……なんて言える筈もなく、嬉しそうに微笑む彼女の隣で、自分はただ顔を赤らめてドキドキすることしか出来ずにいた。      「……ごめんね、無理矢理連れてきちゃって。 でも、本番前にどうしてもあなたに会っておきたかったから」      そう言って、彼女は机の隅の置き時計に目をやった。もう、開会のあいさつが始まっている頃だろうか。彼女の出番は確か4番目ぐらいだったから、今はまさに本番直前といった頃合いだろう。  普通、こういう発表とかパフォーマンスをしたりする人って、本番前は舞台袖で待機したり、別室でもうちょっと練習したりとかするものだと思っていた。 いや、別に彼女の腕を疑っている訳ではないのだが、それでも、彼女が今こうして控え室で大人しくしている事の真意は、自分にはまだ分からなかった。      自分に会っておきたかったっていうのは、どうして……? ストレートにそう質問してみる。 本番前の大事な時間に、どうして、自分なんかと……その意図を、彼女に直接問いかける。  しかし、彼女はその質問には答えなかった。  ……いや、答える代わりに、彼女は無言で自分の手をそっとこちらの手に重ねてきたのだ。 あまりに突然の出来事だったので、ビックリして思わず声をあげそうになったが、そんな自分とは対称的に、彼女は穏やかな表情を浮かべていた。      「……あなたと一緒に居るとね、とっても落ち着くんだ~。 allegroだった私の心が、rallentandoになっていくみたいに」      そう言って、ニコリと笑う彼女の笑顔は、いつにも増して魅力的だった。 その笑顔にまたドキドキさせられながらも、やはり疑問に思う節は残ったままだ。  一緒に居ると落ち着く……そう言って貰えるのはありがたいことだけど、でも何でだろう? 握られている手がじんわりと熱を帯びて、汗ばみ始める。 その状況がますます自分をドキドキさせるから、疑問には思いつつも「何でだろう?」という自らの問いに冷静に対処できない。 むしろ、指先にばかり意識が集中してしまう。      ……と、自分の意識が手の方に過敏に向けられていたからだろうか。 自分の手が、微かに震えているように感じた。 いや、震えているのは自分の手ではない。 自分の手の上に重ねられていた音色の手が、小刻みに震えていたのだ。      そっと、彼女の方に目をやる。 穏やかな表情だとばかり思っていた彼女の顔は、よく見ると、僅かに強張っているように見えた。 彼女のこんな表情を見たのは、初めてかもしれない。 もしかして、本番が近づいて緊張しているのだろうか……?      「あはは……もうバレちゃったかな。 ……私、今すっごく緊張してるんだ」      苦笑いを浮かべてそう告白する彼女を、自分はただ唖然として見ていた。  彼女は、今までに何回もピアノのコンクールに参加している。 賞をとったこともあると聞いているし、この地方予選も、初めてではない筈だ。 それほどの場数を踏んでいる彼女が、こんなところで緊張するだなんて……正直、かなり意外だった。      「もう、今までに何回も経験してる筈なんだけど……どうしても慣れなくて」      自嘲気味に笑いつつ、彼女は、目を伏せながら続ける。      「ピアノってね、演奏中に一度でも失敗すると、そこから立て直すのってとっても難しいんだ。 ……だから、ミスはすごく怖いし、ましてや大勢の人が見ている中だって事を意識しちゃうと、震える程怖いの……」      彼女の声は、消え入りそうな程にか細かった。 彼女の手から伝わる振動が、ほんの少し強くなる。 彼女が感じている不安や恐怖といったドキドキが、手の甲からこちらにまで流れ込んでいるかのように、お互いの手に熱がこもった。      「だから、こうしてあなたと一緒に居ることで、少しでも緊張を和らげられたらな、って」      それが、彼女が自分をこの控え室に連れ込んだ理由だったのだ。 そうか……彼女は、自分のことを信頼してくれていたんだ。 だからこそ、こうして自らの緊張や不安を包み隠さずに話してくれたのだ。 それだけで、なんだか胸がいっぱいになった。      でも、一体どうすれば彼女の不安を解消させてあげられるだろう? こういう時に、気の効いたセリフでもかけてあげられたら良かったんだろうけど、そんな急に思い付くものでもない。 そうして一人ウンウンと悩んでいるうちに、気がつくと、音色が自分の顔を覗き込んでいた。      「どうしたの? ……あ、ひょっとして、私が緊張するなんて意外だ~、って思ったりした?」      ズバリ、言い当てられてしまった。 まぁ、彼女が実際に緊張しているというのは、手の震えから分かったし。 ……ただ、それでもやっぱり意外だな、とは思ってしまう。 大舞台には慣れっこだ、なんていうイメージを彼女に対して抱いていたこともあってか、彼女の緊張した面持ちは少し新鮮だった。  確かに意外だった、と、率直な感想を彼女に告げる。 すると、彼女は少し困ったような顔つきになって、      「う~ん……でも、本当に緊張してるんだよ~? 本番前はいつもこんな感じだし……。 ……あ、そうだ!」      いや、別に本当に緊張してるのかどうかを疑ってる訳じゃないんだけど……と、彼女を宥めようとした時だった。      ポスン、という軽い音と共に、右手が突然柔らかい感触に包まれた。  彼女が、こちらに重ねていた手で徐に自分の手を掴んで、あろうことか、そのまま自分の手を彼女の左胸付近へと押し当てたのだ。 ……って、えええええ!?      「ほらね? 私の心臓、とってもallegroでしょ~? 今はまだ落ち着いている方だけど、いつもはもっとドキドキするんだよ」      いや、こっちは完全にそれどころじゃないです!  鷲づかみのような格好にはなっていないものの、手の平の下半分ぐらいは、完全に彼女の胸の盛り上がった部分へと押しつけられていて、なんというか……ヤバい!! 彼女の言うドキドキよりも、既に自分のドキドキの方が上回っているんじゃないだろうか、と錯覚するほどに、自分の頭はパニック状態になっていた。      「どう? 私のドキドキ、感じる? ……って、あれ? どうしてあなたまで緊張してるの?」      手を握ったまま、キョトンと小首を傾げる音色。 これが、天然ゆるふわ系女子の恐ろしさかっ……!  彼女の鼓動を感じようにも、手の平に伝わる感触の方にばかり意識が向いてしまい、どう返答して良いか分からない。 というか、彼女はいつまでこの体勢でいる気なのだろう? 普段と違う状況なのも手伝ってか、だんだんと冷静な判断力が失われて━━━        『乃木坂さーん! そろそろ出番なんで、スタンバイの方お願いしますー!』      ドアの向こうから、スタッフであろう男の人の声が響いた。 彼女が慌てて返事をすると同時に、右手が彼女の胸から解放された。 落ち着きを取り戻さんとばかりに、慌てて置き時計の方に目をやると、もう控え室にお邪魔してから結構な時間が経っていたという事に気づく。 もうすぐ、音色の出番だ。      「ゴメンね、そろそろ行かなきゃいけないみたい」      机に置かれていた楽譜と手袋を手にとって、彼女はいそいそと準備を始めた。 本番直前ともなると、流石に舞台袖に控えておかなければいけないのだろう。 その様子をぼんやりと眺めながら、自分は、まだ迷っていた。      「えっと……本番前に、私のワガママに付き合ってくれてありがとね。 私、頑張って演奏するから、見ててくれると嬉しいな~」      部屋を出る前に、こちらに向き直ってニコリと笑う彼女。 その笑顔は、いつもの彼女のものとは僅かに違う、不安の色を帯びた笑顔だった。      「それじゃあ、行って━━━きゃっ!?」      そんなぎこちない笑顔を見ていられなくて、咄嗟に、彼女の手を掴んで握りしめていた。 突然の行動に、今度は彼女の方が驚かされていた。      「ど、どうしたの……?」      戸惑う様子の彼女の手を、優しくそっと両手で包み込む。 そして、自分のパワーを送るかのごとく、ギュッと握りしめた。  大丈夫……なにも不安がることなんてない。 落ち着いて、いつも通りやれば良い。 自分は、音色がいつも通りの笑顔を浮かべて演奏できるよう、精一杯応援するから……!      「……っ!」      不器用でも良い。 拙くても良い。  ただ、彼女の中に渦巻く不安を少しでも取り除いてあげたいという、その一心だった。  目をぎゅっとかたく瞑り、よく分からないままに念を送り込む。 そうして力む自分の手に、そっと、彼女のもう片方の手が重なった。      「……不思議」      ゆっくりと、顔を上げる。 そこにはもう、さっきまでの不安を孕んだ彼女のぎこちない笑顔は無かった。      「ずっと緊張してたのに、不安で胸が潰れそうになってたのに……あなたのその言葉だけで、それが全部吹き飛んじゃったみたい」      重なる両手に、熱がこもる。 しかし、その手はもう震えたりしていなかった。 優しげな温かさを保つその手の先で、彼女は、心からの笑顔を浮かべてくれていた。      「ありがとう……! 私、笑顔でちゃんと演奏してみせるから、最後まで見守っててね♪」      そうして、彼女は軽やかな足取りで部屋を後にした。 全く、最後の最後までドキッとさせられるなんて。 ……でも、彼女が笑顔を取り戻してくれたみたいで、良かった。 きっと、ピアノを前にした彼女は、不安や緊張なんて吹っ飛ばして華麗な演奏をしてくれることだろう。 その手伝いが自分に出来たんだとしたら、ちょっぴり嬉しい。      さて、彼女と約束も交わしたことだし、早く自分も席に戻らないと。 そう思い、扉に手をかけたところで気がつく。 廊下では、スタッフと思しき人々の足音がせわしなく響いていた。      ……あれ?    ……これ、もしかして出るに出れない状況?      自分がそれに気づいてから、音色の演奏開始ギリギリに着席するまでの間に、ドア前での葛藤や廊下の全力疾走、迷子などの壮絶な闘いがあったのだが、それはまた別の機会に。     コンクール直前編 END
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