第二章① 空と大地の間
【七種 伊吹】 33歳。独身。一人娘有り。飼い猫一匹。
今は『異世界』と思われる所で『女神』と魂を共有して、見たことも無い世界を前にこれからどうしていこうか模索している最中だ。
少し前まではクリスタルの洞窟をドラゴンの恐怖に怯えながら彷徨ってて、不思議な泉を通ってなんとか無事に脱出できた所なのだが……
まぁ脱出できたと言っても、恐らく高い山の上辺りじゃないかと推測される場所なので、まだまだ険しい道のりには違いないって訳です。
そんな感じの恐ろしく長い一日は、まだ終りそうも無い。今日だけで何日分の精神的ストレスを感じれば済むのだろうか。
──そろそろゆっくり休みたいなぁ。
「────おい、イブキ、聞いてるのか? 行くぞ?」
絶世の美女と呼ぶに相応しい、金色の女神が銀鈴の音で呼びかけてきた。
「るんるんるんるん! おっそらーだっよー! るんるんるんるん! たっのしいなー!」
その女神の背中におぶさっているのはあどけない顔で歌を口ずさんでいる愛娘のカスミだ。
2人とも伊吹とは対照的にとても元気そうだ。
──うちの女子チームは逞しい限りで……って、男チームは俺しか居ないけど……
溜息を1つついてから2人の元へと進む伊吹。
「……で、どうしてたらいい? 飛ぶ時は」
「ほら聞いてない。さっき言っただろ? 私の体に触れてればいいって」
「……どこでもいいのか?」
「死にたくなければ場所はちゃんと選ぶ事ね」
満面の笑顔の中で唯一凍てつくような目だけが、選択を間違えた時の行く末を物語っている。
「……手で」
一瞬だけ棚ぼた展開的な事も想像したが、やはりそんなに上手くは行かないようだ。
伊吹は無難に空いてる手を選択した。
「ヒマワリは俺が抱いていこう」
足元に居た銀のもこもこをそっと抱き上げる伊吹。思いの外抵抗は無かった。
「よし、これで準備はいいな? じゃぁ……いくよっ!」
「シャロごーごー!」
「あ……そういえばシャロニカ、魔法の反動って――――」
大事な事を聞き忘れていた伊吹だが、その質問をし終る前にすでに事は始まってしまった。
「 『ヒューン』 !! 」
シャロニカの魔法詠唱と共に全員の体を光る膜が覆い、それと共に上空高く猛スピードで飛び上がった。
「────って、うおおおおおおお!!!」
まさに一瞬。瞬きを1つか、2つする間に今まで見ていた景色は一変してしまった。
眼下に見える風景はもはや別世界。まるで鳥の視点かのようなその高さは、今までの人生の中で経験した事のない物だ。
どこまでも果てしなく続く大地。生い茂る緑の絨毯。流れゆく川。広がる荒野。
とてつもなく雄大なその風景を前に息を呑みこむ他無かった。
「こんなことできるなんてシャロすっごーい!」
女神の背中にしがみついているカスミは目をキラキラさせている。
不思議とその体に空気抵抗や、重力の影響などは感じられない。
「凄いでしょ~? カスミちゃんの為ならこんな事お安い御用よ!」
得意気な笑みを浮かべる女神からはまだまだ余裕を伺える。
そんな中、余裕が無さそうなのは伊吹唯一人だけだった。
「────!!」
飛行機の離陸時のような感じや、絶叫マシーンで感じる特有の浮遊感がコラボしたような感覚はほんの何秒間しか無かったが、この高所感は簡単に慣れるものではない。
遊園地の遊具にある安全装置はここには一切無いのだ。
自分の体が上空に丸投げされている状態。足元には1つも遮蔽物が無い。
伊吹のような高所恐怖症の人間にはこれ以上ない程の地獄なのだ。
────ちゃんと見ないと……!
思わず高さから来る恐怖に目を瞑りそうになったが、それをグッと堪え眼下に広がるまだ見ぬ世界へ意識を集中させる伊吹。
これから進むべき道を把握しなければいけないのだ。
ここが見ず知らずの土地であるならば余計にその情報は必要不可欠なのだ。
どの方角に進めば人が居るのか? それがまず第一に伊吹が欲している情報なのだから。
──街……街はどこだ……?
手を握る力がより一層強くなった事に気付いたシャロニカが伊吹に声を掛けた。
「そうだそうだ。体の調子がおかしくなったら言いな? 飛行魔法はそこそこレベル高い魔法だから、あんまり長くは使えないかもね」
「体の調子、ね……でもそろそろどこかでしっかり休みたいんだ。日が暮れる前には安全な場所を探さないと……だから多少無理してでも飛んでくれ」
『向こうの世界』の時間ならもう夜遅いはずで、カスミはそろそろ寝るはずの時間なのだ。
『こちらの世界』はもうすぐ夕方になりそうな空の色をしているが、実際の所どうなのかは不明だ。
確かなのはこのまま夜になってしまったらより状況は複雑になってしまうという事だけだった。
『向こうの世界』にすぐに戻れるアテが無い今は、まずこの恐ろしく長い一日を一旦終わらせる事が最善だと伊吹は考えている。
「……オーケー。イブキがそう言うならそうしようか。まずはここからどっちへ向かう?」
チラリと伊吹の方へ目をやり、すぐに前方へと戻すシャロニカ。
その言葉を聞き、改めて眼下に広がる光景へと視線を向け直す伊吹。
岩山が足元からしばらく続いているのを見て、自分達がどれほど辺境の地に居たのか認識させられる。
とてもじゃないが普通の人が気軽に訪れるような場所では無い。むしろ人が一度でも訪れた事があるのだろうか、と疑問にすら思う。
その岩色のエリアが終りを告げるあたりからは広大な荒野が広がっている。
急斜面から徐々になだらかになり、無機質な岩肌の大地から、生命の躍動を感じるような緑へとグラデーションしていく。
その上空を飛行しながらさらにその先に何が見えるのか伊吹は目を凝らした。
「ナァーオ」
伊吹の腕の中で大人しく項垂れているヒマワリが鳴き声を上げた。
「ん? どうしたヒマワリ?」
ヒマワリは左側へ顔を向け、ジッと見つめているだけだ。
「あっちにいきたいのヒマワリは!」
唐突なカスミの言葉に一同が同じ方角を見やった。
眼下から左側方面に見える広大な森林地帯。そちらへ誘導しているのはまたもこの銀色の猫だ。
「猫ちゃんはあっちへ行こうってね……どうするイブキ? ちなみに私は人間の世界の事はさっぱりだからアテにされても困るからね」
「えぇ……そうなの? うーん……」
街らしい街はまだ見えてこない。
人が居そうな建物も皆無だ。そもそも本当にここら辺に 『人』 が居るのか怪しくなってきた。
今の所は雄大な大自然しか存在していない。
クリスタルの洞窟では先陣を切って案内してくれた実績のあるヒマワリ。
それが野生の勘から来るものなのか、それとも別の何かなのか伊吹が知る由は無い。
ただこの現状で1つでも指針になる物があると、それに頼りたくなってしまうのが今の伊吹の限界だった。
「……悩んでる時間ももったいない。あっちへ向かってくれシャロニカ」
「よし、じゃぁ行ける所まで行くよ!」
「れっつごー!」
「ニャア」
先程よりも更に速度が上がってグングン進んでいくシャロニカの飛行魔法。
一体どれ程の速度なのだろう? そしてそれを体に一切感じさせる事が無いのはやはり魔法の為せる業だろうか。
透明な部屋の中に居るような感覚で空中旅はなおも続く。
そんな中静かに伊吹は自分の体に起こり始めた違和感と戦っていた。
──まだだ……まだ耐えれる
今回伊吹を襲っている反動は前回と同じく 『状態異常』 だ。
眩暈、気怠さ、といった比較的まだ軽い部類の為、シャロニカに声は掛けていない。
ヒマワリが示した先に見える森林地帯。まずはそこまで辿り着く為、無理を押し通す覚悟だ。
しかしジワリジワリと反動は勢いを強めていく。
進めば進む程に伊吹は意識を正常に保てなくなっているのを実感し始めていた。
さらにはヒマワリを抱える手の力が一気に抜け落ちてしまった。
「──しまっ──」
落してしまった、と思った瞬間にヒマワリは伊吹の体を掛け上げって背中のバックパックに移動していた。
「──すまない……ヒマワリ」
「ナァ」
姿は見えなくなったが、声で安否を確認できてホッと胸をなでおろした伊吹。
そろそろ自分の意思に反して体は限界を迎えようとしている。
引き際を慎重に見極めなければならない。失敗すれば『死』すら免れないのだから。
「イブキ! おーい! 大丈夫かー?」
「…………」
「おーいってば! 聞こえてるかー?」
「??? いぶきどーかしたのー?」
再三に渡るシャロニカの呼びかけに返事をしないのは前をまっすぐ向いたままの伊吹だ。
だがその姿から意識が無いようには見えない。
「……聞こえてないのか?」
シャロニカは繋いだ左手を大きく振り回して伊吹のリアクションを待った。
「…………」
しかし伊吹からのリアクションは無い。
変わらずに目をしっかり開けたまま前を見据えている。
「いぶきー? どしたのー? ねむねむなのー?」
女神の背中から心配そうな表情を浮かべるカスミの姿が見える。
伊吹のバックパックにしがみついているヒマワリがそれに応じるように伊吹の後頭部に肉球を押し当てているが、それに対しても伊吹は反応しない。
蝋人形の如く伊吹は固まったままだ。
「──限界だイブキ! ここで降りるよ!」
その言葉と共に、急降下を始めたシャロニカ。
みるみるうちに緑の森林が眼前に迫り、それと同時に緩やかに減速していった。
そしてふわりと羽毛が舞いおちるかのように、大地へと見事に着地を果たした。
「しっかりしろイブキ! おいってば」
地に着いてすぐさま、頬を軽く叩いて伊吹の意識を戻そうと試みるシャロニカ。
二度、三度と試してみるが未だに反応は無い。
「いぶき……どうしちゃったの?」
寝かされている伊吹を心配そうに見つめるカスミ。
その瞳からは不安の色しか汲み取れない。
「──っ! ほらイブキ! カスミちゃんに心配させてんじゃねーよ! 起きろって!」
伊吹の胸元に手をかざし、何かを唱えるシャロニカ。
優しい光が伊吹の体をうっすらと覆っていく。
「気休め程度だが……何もしないよりはマシだろっ!」
しばらくの間手をかざし続けるシャロニカと、心配そうに見守るカスミ。
すると次第に伊吹の体に変化が見られ始めた。
「……おい! 聞こえるだろイブキ! 具合はどうだ?」
見開いたままだった瞳に光が戻っている。
蝋人形のように固まっていた体も力が抜け、リラックスして見えるようになってきた。
「…………あ……あれ? ここは?」
がばっと半身を起こし、辺りを確認する伊吹。自分が居る状況を認識できて居なかったようだ。
状態異常の1つ、『感覚喪失』と、その他の併発によるものが今回の反動による影響だ。
命に別状は無く、外傷も無いので伊吹にとっては幸運だったと言えるだろうか。
「いぶきー!」
まだ状況がよく分かって居ない伊吹の胸に小さな花が飛び込んできた。
しっかりと抱きついて離れようとしないその可愛らしい頭をそっと撫でる伊吹。
「しんじゃうかとおもったよいぶきー! しんだらだめだよー!」
潤んだ目で訴えかけてくるその言葉の重みに胸が締め付けられる。
これで二度目。この短時間で伊吹はカスミにこんな想いをさせてしまっていたのだろうか。
「…………」
伊吹の胸の中に顔を埋めたままカスミは動かない。
ギュッと服を握りしめた手からはほんの少しだけ震えも感じられる。
「ほら! カスミ! じゃじゃーん! 元気ピンピンだよ! ほれほれー!」
カスミの体を抱き抱えてそのまま立ち上がると、上空へ高く持ち上げてみせた。
「ほらっ! たかいたかーい! たかいたかーい!」
シャロニカの浮遊魔法のようにはいかないが、伊吹がカスミをあやす際に使うとっておきの必殺技だ。
どんなにぐずっている時でもこれでいつも笑顔になるのだ。
「わわっ! ふふっ」
「楽しい楽しいなー! カスミー!」
「うん! たのしー! もっとやってーいぶきー!」
「それそれー! どうだー!」
まだ違和感の残る体と頭を無理矢理動かしている伊吹の状態を見抜けているのは、少し離れた所から眺めている金髪の女神だけだ。
カスミとのやり取りを見る表情は浮かないようにも見えるが、それもほんの束の間で、すぐに凛々しい顔つきへと変わっている。
「イブキ、カスミちゃんと遊んでる所悪いが……」
「ん……?」
カスミとの遊びに夢中になっている所へ、シャロニカの緊張感有る声が割り込んできた。
「ここ、『森の中』って事、覚えておいてくれ」
「……森?」
カスミを下に降ろしてから改めて辺りを見直してみる伊吹。
「……森!? ほんとだ……いつの間に……」
伊吹の周りは、見たことのない景色へと変貌を遂げていた。
辺り一面を覆い尽くしている緑。それらは鬱蒼と生い茂る木々、見たこともない植物群。
地面を覆い尽くしている苔や、草花。
陽の光を遮るように高々と生えている樹木達のせいか、涼やかに感じる。
吸い込む息から感じられるのはむせ返るような木と土の匂い。
嗅いだ事のあるような無いような、どこか懐かしさも感じるような清涼感溢れる匂いが鼻をくすぐる。
ふと色鮮やかな花に目を凝らしてみると、その周りに飛び交う小さな虫のような物が見える。
根本の方にも同じように目を向けてみれば、そこにも小さな命達の姿が無数に見てとれた。
しかしそのどれもが伊吹の知識の中に無いものばかりだ。
どれもこれも不思議で、興味深い容姿をしている。
ちょうど伊吹達が居る場所辺りだけ、少し開けた空間になっている。
ここ目掛けてシャロニカは着地してきたのだろうか。
「一応周りは警戒してるけど、森は何があるか分からないからイブキも注意しな」
珍しく慎重な物言いの女神の言葉が気になった伊吹。
「注意って、そんな危険な事があるのか?」
「……イブキ達にとっては危険でしょ?『野獣』もそうだし、『毒草』なんかも触っただけでダメージになるんだから。それに……」
1つ、2つ、と指折り教えてくれるシャロニカ。
「……まぁいいわこれは」
三本目の指を折り曲げようとした所で口を噤んでしまった。
「毒草ってのはまぁイメージはつくんだが、『野獣』っていうのは……?」
『あちらの世界』でも野草には毒のある物、ない物があるし、『こっちの世界』でも同じようなものだろう。
『野獣』は字の如しであれば、野生の獣。猪とか、熊の類だろうか?
「はぁ~……今更驚きも無いけどさ~ぁ? イブキって今までどうやって生きてきたわけ? ってか、よくそんな貧弱で大した知識も無いのにあんな秘境に居たよね? 逆に凄くね?」
かき上げる金髪が美しく波打ち、しゃらんと装飾品が音を立てる。
訝しげな表情から、何を答えたらいいか大よそ検討はついているのだが、どう説明していいのか伊吹は迷っている。
「まぁ、信じられないとは思うけどな? 一応言っておくぞ?」
反動の後遺症が未だに余韻を残している中、それが正しい選択なのか伊吹には判断がつかなかった。
「……? なんだよ?」
「俺とカスミ、あとヒマワリはな、『この世界』の住人じゃないんだ」
「はーん。だからあんなビジョンだったのね」
「……はーん、って! リアクション薄くね!? ビジョンて!?」
思い切ったカミングアウトだった割には薄いリアクションに肩を落とす伊吹。
それと同時に気になる言葉が出てきて質問を返してしまう。
「イブキも見ただろ?『シェアルマ』した時に。あれがビジョンだ。私が見たのは多分、そうだな……あれがイブキの居た世界なんだろうな」
ふうむと呟きながら上を見上げるシャロニカ。
「……そ、そうか……物分りが良くて助かるけど……なんだか拍子抜けだな」
「なるほどね。まぁでもこれで色々納得! そりゃこっちの世界の事何にも知らない訳だよな! アハハハ!」
あっけらかんと笑うシャロニカを見て、もう何を言っても受け入れてくれそうな気がしている伊吹だった。
ついでという訳ではないが、クリスタルの洞窟に居た経緯をざっくりと話しておく事にした。
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「……なーるほどねぇ。そりゃまぁ困惑するわね……ほんっと、私に出会わなかったらどうなってかと思うとカスミちゃんが不憫でならないわ……ヨヨヨヨ」
ちょっとした小話で『こっちの世界に来た』物語を聞かせ終わると、シャロニカがそんな風に話を締めくくった。
「まぁそれは本当にそう思うよ……カスミだけはなんとか無事に帰してやりたいからなぁ」
うんうん、と2人してしみじみと頷きあっていると、ふと、同時に顔を見合わせた。
「――――あれ?」
「――――そういえば……」
「――――カスミは――――?」
「――――カスミちゃんは――――?」
伊吹とシャロニカを残して、その少し開けた場所には誰の姿も無かった。
辺りには得体の知れない不気味な鳥のような鳴き声だけがこだましている。
薄暗い異世界の森にて、カスミ、迷子か────
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