第一章⑧ BEWITCHED
────クリスタルの洞窟・中回廊
大広間とドラゴンの間を繋いでいる長く、折れ曲がった通路を伊吹一行は進んでいる。
ここを通るのはすでに三度目になる。
最初は歩くのに苦戦していたクリスタル柱や、ゴツゴツした地面だったが、
今は手慣れたようにすいすいと歩いている。
些細な事ではあるが、自分達の適応能力に感心すらしてしまう。
──よくやってるよ実際。普通なら泣き喚いてもいい位だ……
背後から聞こえてくる無邪気な声は伊吹にそんな事を思わせる。
たった5歳、厳密には5カ月の子供がこんな異様な状況下でここまで態度を変えない。
むしろこの状況を楽しんでいるかのようにも感じる。
30以上年上の大人が、いつ心が折れてしまってもおかしくないというのに、だ。
頼もしくも感じるが、その実、心配にも思う。
本当は怖くて堪らないのではないか?
泣いて、叫んで、甘えたいのではないか?
おぶって歩いて貰いたいんじゃないだろうか?
言いたい事も言えずに、押し殺してるんじゃないだろうか?
良い子過ぎる我が子に、そんな不安も感じていた。
「なぁカスミー、おんぶしてやろう──か?」
そう言いながら後ろを振り返る伊吹の目に映ったのは、宙に少し浮いている状態のカスミの姿だった。
「んー? おんぶー? だいじょぶ! いまういてるからラクチンなの!」
「──!? えーーっ!?」
地面から数十センチ程、小さな体は確かに浮いている。
フワフワと、泳ぐように腕や足を動かし、宙を前へと進んでいるではないか。
「なんでそんな事に!?」
「うるさいねぇ……響くから大声出すの止めろってー」
「え、何? これシャロニカがやってんの?」
「あったりまえだろー? 他にこの中でそんな芸当できそうなのいる?」
五歳児、俺、猫。
居ない。結果女神だけか。
「そうかー……本格的に異世界だな」
ついに『魔法』が出番を迎えた。
もっとド派手な物から見たかったのが口惜しいが、それでもやはり凄い。
二次元の世界でしか知らない魔法を目の当たりしている感動はひとしおだが、こうして自分が今いる世界を『異世界』であると自然に肯定してしまうのも危険な気がする。
しかしそれも、これから目にしていくであろう現実の中で、解消されていくのだろうか。
白か黒かで揺れ動くスイッチをどちらかに切り替えたい伊吹だが、
完全に固定されるのも俯瞰で見る自分が咎めている。
まだ常に疑うべきなのだ。自分が知らないこの現状の全てを。
「『フーワ』って言う魔法だよ~楽しいね~」
「たのしー! およいでるみたいだもん! シャロはすごいなー!」
「……」
複雑な思考迷宮も、目の前の現実が即座に吹き飛ばしていく。
伊吹はあまり深く考えるのを止めた。
「ンナ~ォ」
「次はお前が喋り出したりするのか?ヒマワリ」
私の居場所がないわ、と言わんばかりの顔をこちらに向けているヒマワリ。
彼女にとってカスミは妹のような存在だろうと想像している。
そんな2人の間にズカズカと割って入っているのがシャロニカだ。
「オーン」
どこか面白くなさそうに聞こえるその声が自分にも理解出来ればいいのに。
流行りの異世界物なら何でもありだろうから、これからそうなったとしても驚きは無い。
嘘だ、多少ある。
この銀色の猫は、カスミと出会った場所で見つけ、気付いた時には一緒に居た。
母性本能で赤子を守ろうとでもしていたのか、カスミを覆い隠すようにしていたのが印象に残っている。
ヒマワリ自身もカスミ同様に重症だったので回復してくれて何よりだ。
「カスミにとっての姉さんはヒマワリだから心配するなよ」
「ォア~オ」
ぷいっと素っ気ない態度で前を向いてしまうヒマワリ。
返事の代わりなのか、太い尻尾が先程よりも大きく激しく振り回されていた。
どこか照れ隠しのようにも見えるのは都合の良い解釈だろうか。
──あそこだ……
ほんの束の間の平和ムードが伊吹の中で終わりを告げようとしていた。
視線の先に見えるのは少し前にかろうじて命拾いをした曲がり角だ。
一歩、また一歩と進む度に靴と硬い地面が擦れる音が耳につく。
今まで気にならなかったのが近づく程に大きくなっていく。
高まる緊張がそうさせるのか、自分の吐息すら煩く感じてしまう。
「ヘイ、イブキ! びびってんの?」
ポンと肩を叩きながら伊吹を追い越し、角の先へ進むのは花の香りを纏った女神だ。
その顔は非の打ちどころが無い。
妖しく、自信に満ちた笑みが表情の端々から溢れ出ていた。
「……あぁ、出来ればここを曲がりたくないな俺は……」
「ハッ! 正直だね~。まぁ普通の人間ならそれも当然よね」
「……いいんだよな?任せて」
「ん~?」
角を曲がりきる直前まで行った所で足を止め、こちらを振り返るシャロニカ。
「この先のドラゴンは、お前に任せていいんだよな?」
この角を曲がったら会話をする機会なんて無いかもしれない。
どうドラゴンを攻略するか何て話は一切せずにここまで来てしまった事を伊吹は少し後悔して、そんな質問を投げ掛けた。
「任せとけって! カスミちゃんとイブキは後ろの方で隠れてればいいから」
そう言い残して颯爽と角から姿を消していった。
「……信じるとは言ったものの……本当に大丈夫なのか1人で……」
シャロニカが曲がってから少しの間周囲を警戒しつつ、
ゆっくりとそれに続く伊吹。
その後方を地に足をつけたカスミとヒマワリが追っている。
「ねーねーいぶきー、ドラゴンのこえまだしないね?」
声を押し殺して話しているが、どこか楽しそうにも感じるカスミの表情。
クリスタルの淡い光の明滅が星の輝きのようにその瞳に映り込んでいる。
悪戯をして楽しんでいるかのような無邪気さが、自分とのギャップを激しく感じさせた。
「まだシャロニカに気付いていないんだと思うよ。もしかしたら他の場所に行っちゃったのかもしれないし……」
少しだけ期待を込めてそう囁いた。
そもそもドラゴンに出会わずにここを通り過ぎる事が一番良いのだから。
そんな淡い期待をしつつも確実にドラゴンの間へと近づいている。
もう数歩進めば広間へと足を踏み入れられる距離までやってきた。
「──よし……カスミはここで待ってて。俺が様子を見てくるから」
「わかったよー」
人差し指を口元へと動かし、静かにしているアピールをするカスミ。
その姿を見やってから、まだ何の動きも感じられない広間へ思い切って進み入った。
──シャロニカはどこに……?
1度目に訪れた時と広間の様子は大差無く見える。
それは記憶が曖昧だからなのか、そう思いたいだけなのか。
はっきりと記憶しているのは広間中央付近にあった 『岩山』 だが、
それは今は見えない。
──無い!? じゃぁ奴はどこかに――?
『岩山』は、『ドラゴン』だったのだから、それが今無いという事は、
つまりは移動しているという事だ。
同じ場所に居ると思っては居なかったが、目視出来ないとは思っていなかった伊吹。
慌てて広間全体を見回してその姿を探した次の瞬間──
「グゴアアアアアアアアアアアア」
記憶に鮮明に残っている轟音が突如として波紋を広げた。
「──あっちか!」
声が響くと同時にそれを上回る爆裂音が広間の空気を震わせながら駆け巡った。
一瞬地面が揺れたように感じる程その衝撃は強烈で、思わずたたらを踏んでしまう。
「──なっ……なんだ一体……」
前方小高い岩群の向こうに眩く光る何かを確認した。
花火のような、フラッシュのようなそれは何度か瞬いて収まっていた。
そこにドラゴンが居るのを確信した伊吹は急いで近づこうと駆け出したが、その足は思うように動かなかった。
「あ……れ……?」
視界が歪み、淡く美しいはずだったクリスタルの輝きが色味を失う。
ぐにゃりと曲がった天地は自分の知る位置に無く、その存在意義を見失っている。
自分の体の異変を察知したのは地面に撒き散らした吐瀉物を確認してからだった。
「──っゴホッ……!!」
伊吹を突如として襲ったのは、激しい眩暈、急性貧血、そして突発性嘔吐。
さらには両足が地面へと崩れ落ち、痙攣を起こしている。
残った上半身も糸が切れた操り人形のように力無く床へ突っ伏した。
──体が……言う事を聞かない――
何が起こったのか理解出来ないまま、体は動かせない。
意識はしっかりしているのに、誰かに支配権を奪い取られたかのように命令を無視されている。
──何が起こったんだ……?
混乱し始めた思考を無理矢理抑え付けながら、自分に何が起こったのか考察する伊吹。
洞窟内から発生している毒ガスを吸い込んだ?
蓄積していたダメージが今になって噴き出した?
『シェアルマ』の弊害か何かとか?
すぐに思いつくだけ並べてみても、どれも有り得そうで結局絞り込めない。
しかしここはドラゴンが徘徊する、ドラゴンの領域だ。
身動き取れないまま床に転がっていたら格好の餌食だろう。
人間を食べるのかは知らないが、攻撃対象になるのは目に見えている。
──なんとかしないと……
全身に力を込めて動く箇所が無いか確認してみると、かろうじて首から上の自由が効いた。
「────っ助けてくれえええええええ!」
首を回してなるべく広い空間目掛けて大声を上げた。
シャロニカに届いてくれと願いながら──
「──っあー、ここに居たのね~。ほいほいっと」
伊吹が叫んでから数秒もせずに現れたのは金髪金眼の女神だった。
風のような速さで障害物を縫いながら倒れている伊吹の元へ辿り着くと、
すぐさま自由の効かなくなった体を風船の様に浮かせた。
「グガアアアアアアアアアアアアア」
金色の水を追うように、その後方から裂帛の轟音が追従する。
シャロニカの後ろに怒りの様相を浮かべたクリスタルドラゴンの姿が迫っているではないか。
「──しゃ、シャロニカ……! 後ろっ────!」
「はー、なるほどねぇ……イブキ、お前見た目に反して貧弱なのな?『上級爆裂魔法』1発でこの有り様とはねぇ……」
飽きれたといった顔で首を横に振るシャロニカ。
それに合わせて、きめ細やかな装飾が施された金の首輪がしゃらしゃらと音を立てる。
「──おいっ、いいから後ろを見ろよぉおおおおおお!!」
迫りくる怒れる竜が凶悪な咢を開き、こちらへ照準を合わせているのが見える。
伊吹がギリギリの所で回避できた、あの 『衝撃波』 の準備だろう。
ここに来る前に確認した壁の破壊具合を見るに、まともに喰らえば人間なぞ木端微塵だろうと推測できる。
「おー? なんだ意外とまだ元気だな。 もうちょっと上の魔法でもいけそーだな」
伊吹を宙に浮かせたまま呑気なシャロニカが笑みを浮かべている。
「──っふざけてないで! さっさと逃げろよ! 死ぬ気か!?」
あと一歩か、二歩、ドラゴンが歩を進める間に『衝撃波』は放たれる。
そう直感で感じている伊吹は眼前に迫る恐怖に怯えていた。
「死ぬ~? ……あぁ~! そうだったな……そういやもう死ぬんだったな。忘れてたわ」
ぽりぽりとバツが悪そうに頬を掻いた後、ドラゴンの方へと向き直るシャロニカ。
「ウゴオオオオオオ」
クリスタルドラゴンはその足を止め、開いた口に一層の力込めるかのように全身を大きく震わせた。
「──っシャロニカーーーーー!!」
絶体絶命を悟った伊吹は、唯一自由の効く首から上で出来る唯一の抵抗、
目を瞑りこれから起こるであろう未来を拒絶した。
「────ヒュプノース────」
伊吹が最後に耳にしたのは銀鈴の音で呟かれた言葉だった。
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