第一章① 現世、冬の一幕にて
──あの光に包まれる前
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あの神社は伊吹にとっては思い出の場所だ。
カスミと初めて出会った場所がその神社なのだから。
カスミと共に再びここに戻ってこれる事を伊吹は嬉しく思っていた。
昼間とはいえ、雪国の冬は寒い。日が暮れないうちにと準備を急ぐ。
バックパックに必要な物だけ詰め、散歩へ繰り出した。
実家から神社までの距離はそこまで遠くない。徒歩でゆっくり歩いたとしても15分かからない位だ。
周りの景色は田舎らしい風景が広がっている。伊吹にとっては幼少期から何も変わらない風景だ。
だだっぴろい畑や、果樹園が続く中にポツリポツリと民家が点在している。
余計な物が見えない大空と、吸い込むと体の中から浄化されるような空気は都会では得られない最高の環境だ。
冷たく頬を撫でる風もそれはそれで気分が高揚してくる。
少し顔を上げて見ればそこには大きくそびえる山々の姿もある。ここまで山を近くで見れるなんてのも田舎ならではだ。
空も近いし、山も近い。雑音も無く、空気も水も美しい。
物心ついてから初めての帰省。カスミにとって普段見る事のない世界はとても新鮮で、いつも以上にはしゃいでいる。
ノルウェージャンフォレストキャットに似た容姿の猫、ヒマワリはここには似つかわしくない程優雅だ。
ふわふわの銀色の体毛と、太く長い尻尾が流れるように弾んでいる。
カスミが先を走り、その後をヒマワリが追いかけ、たまに伊吹の方を振り返っては早く来るよう急かしてくる。
そんな2人を自分の故郷の風景をバックに写真に収めている伊吹であった。
「いぶき~! おそいよー! はやくはやくー!」
「ちょっと動き過ぎ!少し止まっててくれないと撮れないよ」
「わーいわーい」
「無視かい!」
写真で収めるのは諦めて動画に切り替える事にした伊吹。
「この姿のカスミが見れるのも一瞬だけなんだろうなぁ」
少し寂しげな表情を浮かべながらスマホをビデオモードに切り替えた。
忙しなく動き回るカスミとヒマワリを画面の中に捉えながら呟く言葉は何を意味するのか。
唐突に始まったシングルファザーの育児生活。
手探りな毎日は怒涛のように過ぎ去っていった。
『光陰矢の如し』
とはよく言ったものだが、伊吹にとってそれは本当の意味で現実となっていた。
育児なんてもちろん独身の伊吹にとっては無縁な事であったが、
子供の成長というのはある程度常識の範囲内で知り得ていると思っていた。
姪っ子の成長も年に何回か見る程度であったが大体の成長速度は把握しているつもりだった。
『事実は小説より奇なり』
そんな事が自分の人生の中で起こるなんて想像していなかった。
もちろん期待はしていた。誰もがそうであるように、伊吹もまたそんな甘い妄想をする事もある。
だがそれは、ある日突然大金持ちになれる、とか、凄く美人な幼馴染が急に現れて告白される、とか。
至ってそんな程度の範疇だ。
伊吹が出会った女の子、『カスミ』はまさにその二つの言葉を足したようなイレギュラーな存在だった。
伊吹がカスミと出会ったのが7月で、今が12月。この間約5ヶ月。
神社で見つけた時の見た目は生後2~3ヶ月程度。
今のカスミの容姿年齢は──
──5歳だ
人間では考えられない猛スピードで成長していく赤子。
それでも伊吹にとっては愛おしい存在へとこの5カ月で変わっていった。それは本人にも不思議な事だったのかもしれない。
だがそんな非日常が今は日常へとシフトし、それが伊吹の核となっている。
彼を突き動かす原動力の全ては今や『カスミ』なのだ。
『カスミ』が世界の中心で、『カスミ』無くして伊吹の幸福は有り得ないのだ。
それ程に『カスミ』との唐突な出会いは全てを一変させてしまったのだった。
彼は【父親】になった。
唐突な出会い、異常な成長速度、それでもその関係性は揺るぎなく【親子】なのだ。
しかし伊吹は【父親】であり、【父親】にならないよう心掛けても居た。
『カスミ』は決して伊吹を【パパ】とは呼ばない。
【お父さん】、も【ダディー】、も【父ちゃん】も……
父親を連想させるような呼称は一切許されなかったのだ。
伊吹は思っていた。
もしかしたら、いつの日か、この子を捨てた本当の親が戻ってくるかもしれない。
だからその時に本当の親をそう呼べるように、自分の事をそう呼ばせないように、と。
見捨てる事は出来なかった。もちろん里親や、施設に任せるといった選択肢もあった。
しかし伊吹は不思議とその選択肢を大して吟味する事はしなかった。
もしかしたら捨てた親がすぐに見つかると思っていたのかもしれないし、
または孤独を紛らわせる為に気分で育児をしてみたかっただけなのかもしれない。
最初の動機や心理状態は様々あったのだろうが、見捨てるという選択肢だけは最初から存在していなかった。
──何が何でもこの子を助ける
それだけだった。
大怪我と病に侵された状態で初めて『カスミ』を見つけた時、伊吹の頭を過ったのはその言葉だけだ。
そして今もそれは変わらない。
──何が何でもこの子を守り抜く
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