第一章⑤ 洞窟の主
ここに滞在してからどの位の時間が過ぎただろうか?
昼過ぎに家を出たので、2時間は経っているだろうか。
ふとそんな事を思い、腕時計に目を落としてみると15時を過ぎた所だった。
伊吹達が進む通路は今までよりも少し幅が狭くなっている。
大人2~3人が横並びになると通れなくなる程で、壁のクリスタルに触れないようにしたらもっとその間隔は狭まる。
天井も先程までの空間とは打って変わってかなり低くなっている。
天然の洞窟なら当然だが、人が歩きやすくなっている訳ではない。
足元と頭上に注意を払いながら慎重に進む必要がありそうだ。
「今度は勝手に先にいくなよカスミ、ヒマワリ」
しっかりと握った手を上に持ち上げてそう確認する伊吹。
「はーい、いぶきといっしょにあるくよ!」
「いい子だ」
「えへへーいいこ!」
「ニャ」
ヒマワリは若干嫌そうな感じがするが、カスミはニッコリ答えてくれた。
やっぱ可愛いなうちの娘は。
ヒマワリももう少し愛想よくしてくれてもいいのにな。
いつになったら仲良くしてくれるのか……もう5カ月なのになぁ。
そんな考えがバレたかのように、伊吹の進む先にヒマワリが躍り出た。
2歩、3歩、伊吹とカスミを先導するかのように進み始めるヒマワリ。
「出口でも分かったのか? ヒマワリ」
その問いかけに応えるように後ろを少しだけ見て、すぐに前へと向き直る銀色の猫。
歩く度に弾む柔らかい毛並がクリスタルから漏れる淡い緑色を掬い取ってゆく。
そんな背中を眺めていると、どこか別の世界に誘われてしまいそうだ。
猫を追いかけていったら不思議な所に辿り着いて、
そこからファンタジックなストーリーが始まる。
そんな作品があったのを思い出していると、ふいに銀色の背中が止まるのが見えた。
「……曲がり角、か?」
しばらく道なりに続いていた通路が終わりを告げ、
目の前に行き止まりの壁と、左側に続きそうな空間が口を開けて見えている。
その少し手間でヒマワリは立ち止まった。
「なになにー? どしてとまったのー?」
「ンナーォ」
ヒマワリに近づいて背中を撫でるカスミ。
甘えた声とは少し違う鳴き方でカスミを見つめているヒマワリ。
「このまま進まないのか? ヒマワリ」
単に先導するのに飽きただけなのか、と思い自分で先陣を切る事にした。
「じゃ、今度は俺が先頭だな」
「わたしがにばんー!」
左へ開けた所を曲がってみると、数メートル先に大きく開けた空間が見えてきた。
先程の大広間よりも少し小さくなった空間だ。
「おお、また開けた所に出たな……でも、出口じゃないか……?」
そろそろ出口が見えてきても良さげかとも思ったが、
この空間にもまだ外の光が見えるような箇所は見当たらなかった。
見える光景は似たようなものだ。違いは巨大なクリスタルは見当たらないという事。
そして大広間よりは障害物が多く、端から端まで真っ直ぐ歩いて通る事は出来ないであろうという点。
最も違いを感じられるのはその雰囲気。
大広間は静寂と、圧倒的な壮大さで神聖ささえ感じられたが、
ここは何かざわつく感覚がする。それが何かと言葉にするのは難しいが、
何か直感のようなものでそう訴えかけられているのだ。
──ヒマワリが立ち止った理由はこれ?
歩く速度を少し落としながら慎重に進む伊吹。
カスミを握る手はさっきよりも少し強まっている。
「なんだかへんなにおいがするねー?」
「におい……? どんな?」
「うーん、なんだろうー? どうぶつっぽいにおいー?」
そう指摘され匂いに意識を集中してみる。
確かにほんの少しではあるが獣特有の匂いがするような気がした。
犬や猫のそれとはどこか違うが、そう言われれば動物の匂いのような。
「ウルルルルルル……」
ヒマワリの威嚇音に気づいた伊吹はすぐに歩みを止めた。
「……カスミ、俺の後ろに……」
視界は広い。数メートル先まで上の空間はよく見える。
天井までの高さは10メートル程はある。見渡してみても何も変化は無い。
途中に岩山のような物が見えるが、 それ以外は至って通常の洞窟だ。
「……何もないよな……」
ヒマワリの様子は確かに気になるが、とりあえず何もなさそうだ。
広間の真中あたりにさしかかり、岩山を迂回するように歩を進める。
反対側の洞窟壁から次へ続く道を探したいのだが、岩山が視界を遮り邪魔をする。
視線が高くなれば探しやすくなるだろうか。
「ちょっと登ってみるか。カスミはここで待ってて?」
「わかったー! きをつけてねー!」
岩山といっても数メートル位の高さの物だ。
突き出たクリスタルを足場に登ればすぐに頂上に辿り着く。
「よっと! ほっと! えいよっと!」
運動神経はそこそこいい方なので、この位はアスレチック感覚だ。
クリスタルが折れないか少し不安だったが太い物なら心配いらなかった。
ものの数分で岩山の頂上へと辿り着けた。
「やっほー! ついたぞー!」
眼下に見えるカスミに手を振ってみる。
下を見ると少し身が震えた。高所には弱いのだ。
「いいなー! わたしものぼりたいー!」
「危ないからダメだー。すぐに降りるからちょっと待っててー」
「はーい」
頬をふくらませてる顔が遠くからでも分かるが、
本当に危険だからここは諦めてもらおう。
視界がかなり上がったので、広間中央から全体を見渡す事ができた。
障害物を通り越して反対側の壁沿いを観察してゆく。
「……あった。通路らしき穴が見えるぞ」
ここから進む方角を確認してカスミへ声をかける。
「降りるよー」
「きをつけてね! おちないでね!」
「任せろ! おちるわけ──」
と、言いかけた次の瞬間に山が揺れた。
下から突きあがって来るような衝撃と、横に波打つ様な感覚。
あまりの激しさに伊吹の体は大きく投げ出されてしまった。
「────!!??」
呼吸する事を忘れた。
目は閉じられない。
カスミを見下ろしていた高さよりもさらに高くに伊吹の体は舞い上がっていた。
自分の状況を確認するより早く、浮遊感が襲いくる。
ジェットコースターなんかで経験するアレだ。
「────ぁぁぁぁぁぁああ!!」
酷く硬い地面に体が投げ出された事に気付いたのは、体に痛みがやってきた後からだった。
落ちた。動くはずのない岩山が動いて、振り落とされた。
耳鳴りで何も聞こえないが、体は動く。激痛という程の痛みは無い。
「……っはぁ、っはぁ……何が……くっそ」
地面に落ちる瞬間に辛うじて受身が間に合ったのか、ダメージは少なかった。
耳鳴りも次第に収まっている。
ゆっくりと立ち上がり、揺れた岩山へ顔を向けた。
「──なっ」
そこに『岩山』は無かった。
『岩山』と思っていた物は、伊吹の目の前に屹然と立っているではないか。
4本の太く大きな足は、山のような巨躯をしっかりと支えている。
岩のように見える肌から突き出しているのはもはや見慣れたクリスタルの柱群。
キリンの様な長い首の先には存在感のある頭部。
彫刻を施されたかのようなクリスタルが装飾品のように頭部を煌びやかに仕上げている。
洞窟が動き出したかに見える様はもはや伊吹の知る所では空想上の生き物以外無かった。
「──ドラゴンッ──!?」
目の前の状況は伊吹の常識では測れない。
自分の吐いた言葉がバカげている事にも気付けないほど頭は混乱している。
居るわけ無いのだ。この世に『ドラゴン』なんてものは。
つまりこれは『ドラゴン』に似た別の動物か、はたまたVRか、プロジェクションマッピングか……
映画のアニマトロニクスなんて物も考えられるが……
この状況だとアニマトロニクス説が濃厚だろうか。
「ここ……映画の撮影現場……?」
1つ大きく呼吸をしてから現実へと舞い戻ってきた伊吹。
頭は大分クリアになってきた。
幻想的な洞窟に、異国語で語りかけてくる謎の人物。
そしてドラゴン。必要な要素は全部揃っていた。
ついに伊吹は今日の奇妙な出来事の核心へと辿り着いたのだ。
「なーんだ。撮影現場に間違って入り込んじゃったって訳ね。いやー、これは気づかなかったなー。ハッハッハッハ──」
「────グゴアアアアアアアアアア」
耳を劈く轟音が洞窟内の空気を震わせる。
目の前のドラゴンから発せられた鳴き声だ。
笑みは瞬時に消え、全身の肌という肌全てが毛羽立っていくのを感じる。
心臓が握りつぶされそうな圧迫感、圧倒的な死へのプレッシャー。
仮にアニマトロニクスだとしても、受ける恐怖は変わらない。
仮に撮影現場だとしても、感じる痛みに違いは無い。
そしてここに伊吹達以外、人の気配はまるで感じられない。
リアルだ。どんな特殊な状況だったとしても、今はリアルなのだ。
自分が肌で感じる事が世界の真実。
たった1つの今ある現実なのだ。
「逃げろカスミーーーーーーーー!!!」
目視で確認できない娘に向かってありったけの大声を上げる伊吹。
投げ出された事で自分が今広間のどこに居るのか分からなくなってしまっている。
幸いドラゴンは自分の方を向いているので、カスミに注意が向くことは暫く無さそうだ。
「ゴアアアアアアアア」
ドラゴンはその巨体からは想像がつかない速度で体を動かして見せた。
──尻尾、を振り回された?
と、認識できるか出来ないか位何が起こったのか分からない。
伊吹がそう認識した時にはすでに自分の後方にあった岩山が崩れ去っていた後だった。
間一髪ドラゴンの攻撃は外れていた。
大きく体を旋回させ、その勢いのまま尻尾を振り回す。
尻尾はクリスタルの棘が所狭しと突き出していて、まるで釘バットのようだ。
それが電柱のような太さの鞭となって襲いかかってくる。
少しでも触れたらその時点で致命傷だろう。
──逃げるしかない……!
ドラゴンが一撃目を放ち終わった状態を見て、
すぐにここから離れるしか無いと判断した伊吹。
ドラゴンの体は半身程後ろを向いている為、すぐに次の行動には移れ無さそうだからだ。
左右、前後をすぐさま確認した後、少し離れた所に駆け出しているカスミとヒマワリの姿が見えた。
こちらへ向かってきている。
「うおおおおおおおお!!!!」
向かってくるカスミに向かって全力で走りだした伊吹。
そのままの勢いでカスミを抱き抱えた。
「しっかり捕まって!」
「うんっ!」
小さな体をしっかり抱えて、元来た入口方面を目指して走り出す。
後方から轟音が響く。
再び凶悪な尻尾を振ったのだろうか、岩が崩れ散る音が広間に広がっていく。
走る伊吹の脇を砕けた岩の破片がすり抜けていった。
「──っもう……少しだ!」
目指す通路口まであと数メートル。
あの通路に入ってしまえばドラゴンは恐らく追ってこれない。
巨体が通れる程の広さは無いからだ。
必死で足を回転させる。ただ前へ進むだけ。
迫りくる地響きと足音に身が竦んでしまいそうだった。
息も苦しい。恐怖で今すぐに叫び出したい。
「だいじょぶ? いぶき?」
目の前が暗くなりかけていた。
まるで漆黒のカーテンが幕を引くように、視界が狭くなっていっていた。
それがたったの一声で雲が晴れるかのように消え去った。
返事をする余裕は無い。
顔を見ている隙も無かった。
だが腕に抱えたカスミの温もりを思い出し、その声で我に返れた。
「大丈夫だ! 俺が必ずカスミを守るから!」
前方の壁に後方から飛んできた岩が直撃し、破片が飛び散る。
石の破片がこちらへ向かって飛んできたが、
伊吹は怯むことなくそれらからカスミを守った。
体に当たった石は声を上げてしまいそうな程の痛みを与えたが、
伊吹はそれをグッと我慢して走り続けた。
「うおああああああああああああ!!!」
飛び散る石の雨を潜り抜け、入口へと走り込んだ。
それでも入口付近はドラゴンの体が少し入れる程は開けている。
確実に逃げ切るには更に奥、ヒマワリが立ち止った曲がり角辺りまで行かねば。
「──うっ」
ここに来て伊吹の体は痛みに耐え切れなくなっていた。
放り出された時のものか、または散弾石を喰らった時か。
原因不明だが、左脇腹に激しい痛みを感じた。
「先に行けっ、カスミ!」
抱えていたカスミを通路の先へと送り出す伊吹。
あと数メートル程の距離だが、カスミが自分で走った方が早いと判断した。
一瞬だけ振り向いたが、すぐに角へ向かって駆け出した。
恐らく後方に恐ろしい姿が迫っていたからだろう。
後ろを確認していない伊吹にもその雰囲気は痛い程伝わってくる。
「グガアアアアアアア」
狭くなった通路に押し入ろうとドラゴンが身を捩じらせる。
しかし全身が入らない為、諦めて後方へと下がった。
カスミとヒマワリが角を曲がり切れたのを見て安堵する伊吹。
自分もあと少しの所まで迫ってきている。
ドラゴンのプレッシャーは先程より薄れた。
「よし……逃げ切れ──」
た、と安堵していた。
伊吹の体が角に入った瞬間だった。
それまで居た通路を何か目に見えない衝撃波が通り過ぎていった。
地下鉄で電車が通り過ぎていくのを間近で感じる、それ程の風と衝撃。
炸裂音と共に通路奥の壁が大きく崩れていく音が聞こえてきた。
「グゴオアアアアアアアアアアアアアア」
遠くからドラゴンの雄叫びが響いてくる。
そしてしばらくすると地響きと共に遠ざかっていった。
「……」
岩壁に背を付けた状態で息を殺している伊吹。
茫然とクリスタルの光を見つめるしかなかった。
突然現れた絶対的な存在を前にして、伊吹は何も出来なかった。
意思疎通も出来ない空想上の生き物。
一歩間違えば自分の命だけでなく、カスミの命も失われていたかもしれないという現実。
────無力だ
「いぶきー? だいじょぶー……?」
小さく温かい手が頬を優しく撫でる。
ここに在る確かな命を伊吹はまじまじと感じていた。
「ありがとな……カスミ……。ちょっと体は痛むけど、大丈夫だ」
「えへへー。よかったー! ヒマワリもだいじょぶそうだよ!」
「ニャァ」
「よかったよかった。皆なんとか無事だな……。さて、と。これからどうするかね?」
思いもよらぬ形で進む道を遮られてしまった。
この先へ進むには再びあのドラゴンの居る広間を通らなければならない。
だが、あの恐怖に再び挑む勇気は伊吹には無かった。
「一旦さっきの大広間まで戻ろう」
バカげていると思っていたあの話を、
今は頼りにしてしまう程伊吹の心は打ちのめされてしまっていた。
────彼女との『契約』の話を
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